一之瀬城


城主

竹内中務大輔久盛

別名

一の瀬山城、大串城、一瀬山堡

遺構

曲輪・石垣

歴史

天正年間(1504年~1521年)に竹内久盛によって築城。
天正7年(1579年)3月3日に三宮城を攻略した宇喜多勢は豊臣氏の後援もあり勢いそのままに、同年5月5日に一之瀬城へ攻め込んできた。宇喜多勢は次々に兵を投入してくるが竹内方には援軍も無く、城内を見下ろす犬狭(弓狭)の宇喜多勢の陣から矢を次々に射られ、大半は戦死し残りも負傷と抵抗を続けることもできず、その日のうちに落城となった。

メモ

竹内久盛は文亀3年(1503年)に生まれ、天文元年(1532年)に竹内流を編み出し、文禄4年(1595年)に美咲町原田庄で没する。
一之瀬城の落城後は落ち延びており、翌年天正8年(1580年)2月の高城合戦には竹内氏の一族も参戦しているので、久盛自身もこれに参加しているのかが気になる。

岡山市北区建部町和田南に『垪和一之瀬城主 竹内中務大輔久盛 落城地』の碑があるらしい。またこの辺りには、鶴田城主の杉山成就が落城後に住んだ屋敷跡や墓があり、高城城主の竹内為能の墓がある。

一之瀬城の飲料用水を『トイノ口』というところから引かれていたらしい。旭町誌に地図が掲載されているがよく分からない。

概要

最高地に約20×10mの一の壇があり、その東に少し大きな二の壇が存在する。一の壇と二の壇を取り囲むように帯曲輪状の三の壇が存在し、三の壇南には、七つ井戸と呼ばれる井戸が存在するとされる。
一の壇北には尾根を切り取るように堀切が二条存在する。(二つ目の堀切より北は道路になっているため、北側に堀切があるかどうかは不明)

一の壇がある東の別尾根には、一之瀬城の出丸が存在する。

縄張り図



所在地

久米郡美咲町栃原

交通

自家用車

大串の集落の入ってすぐに登城口碑がある。その登城口に駐車スペースあり。

公共交通機関


登城口

大串の集落の入って右手の山が一之瀬城。道なりにすすむと右手に登城口がある。登城口の碑の南から城跡。

注意

未整備の部分があるので、藪こぎ覚悟で行かなければいけない。

写真

遠景写真

 

城内写真

看板。 堀切Ⅰ
堀切Ⅱ 一の壇。
一の壇を望む。 二の壇
登城口から二之丸に行く途中にあった石垣(?)。 摩利支天の小祠(竹内氏の守本尊)


登城記録・感想等

ぴっちゃん 10/08/14(霧)

碑の南には比較的状態の良い堀切が二条あります。道成に進むと二の壇と一の壇につきますが、こちらは少しあれていていました。
さらに南に遺構が残っているようなので遺構としましたが、蚊がよってきましたし石垣を探しているときに蜂に刺されさんざんでした。
三の壇(帯曲輪)より下は草が生えていて歩くことはできませんでしたので、行くことを断念しました。

この城跡の東の別尾根には出丸があるらしいのですが、そちらには行きませんでした。

こた 10/08/14(霧)


居館推定地

山麓?
栃原大串に現在は畑地になっているが、一之瀬城の重臣の屋敷跡といわれる『七屋敷』がある。

近くの観光名所


参考文献

「日本城郭大系 13」、「旭町誌 地区誌編」、「建部町史 通史編」、「建部町史 地区編」

更新日

2010年09月05日

最終更新:2010年09月05日 18:54
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