6-52-56 サカチヨ 君の声が聞こえない
『勇人。』
甘い声が響く。
ねだるように、急かすように。
『勇人。』
上気した肌、潤んだ瞳。
小ぶりだが形のいい乳房、くびれたウエスト。
女性特有の腰のライン、引き締まった脚。
全身で俺を求める。
桜色の唇で俺の名前を呼ぶ。
『勇人。』
俺だけの篠岡。
俺しか知らない篠岡に酔いしれる。
貪るように腰を打ち付け、
『勇人。』
桜色の唇から紡がれる、甘美な響きの中、俺はイった。
手の中に広がる暖かさと特有の匂いで、現実に引き戻される。
自己嫌悪にまみれながら、後始末をする。
「毎日、練習キツイの、俺は猿かよ。」
誰も居ない部屋で1人愚痴る。
布団に入り、目を閉じれば、
『勇人。』
今日もまた、君の声しか聞こえない。
君の声を聞きながら眠りにつく。
篠岡はキラキラしてるんだ。
初めて見たのは中学の頃で、その頃はまだ名前も知らなかった。
部活に入ってなかったから、学校行事以外で放課後に学校に残ることは少なかった。
その日は日直で少し帰りが遅くなって、折角だから野球部の練習を覗いてみようと、
グランドに足を運んだんだ。
グランドを使用していたのはソフト部で、其処に篠岡がいた。
他にも部員がいて、同じように野球をしていたのに、何故か篠岡だけに目を奪われた。
キラキラしていて眩しかった。
その日以降、なるべくグランドを通るようにして帰る。
彼女は本当に野球が楽しいといった感じで、その姿に憧れた。
何度か通るうちに彼女の名前が『チヨ』だと知り、『シノオカチヨ、同級生』と、
篠岡の事を少しずつ知っていく。
『好き』とかではなく、お気に入りのグラビアアイドルを見るように、
同じクラスになったこともあって、現実感がなかった。
初めて篠岡を身近に感じたのは受験日で、入学式に篠岡の姿を見たときは喜んだし、
野球部に入ってきた日の夜は、中々眠りに就けなかった。
でも、篠岡の心を占領しているのは野球だけだった。
友達らしき人と『部員は仲間!付き合うなんて有り得ない。』と話しているのを聞いた。
心が痛むのを感じ、初めて自分が篠岡を好きな事を知った。
俺は、野球に嫉妬した。
今日は、朝から雨。
突風に煽られ、傘の骨が曲がる。
ツイてない。
教室で、隣の席の奴に話し掛けられる。
「7組にさ、マネジ居るじゃん?野球部の。」
「なんだよ、突然。篠岡か?」
「誰と付き合ってんの?」
何を言うんだ、いきなり。
「は?や、付き合ってないだろ?」
「昨日さ、うちの部の奴が告ったんだって、委員会が同じとかなんとかで。
んで、『野球部が恋人です。』とか、言われたらしい。」
篠岡凄いな、マジですか?
感心すると同時に、胸が痛む。
「まんま、じゃないの?野球部員、じゃなくて野球部。」
「あー、部活が恋人って奴?」
そのまま、日常会話に移る。
ツイてない。
雨、傘に続き、コレですか。
1度下がったテンションが、上がることなくそのまま放課後まで続く。
ミーティング後、曲がった傘の代わりに折りたたみ傘を持って、帰ろうとしたら、
何故か、傘立ての前で篠岡が1人立っていた。
「どうしたの、篠岡?」
「傘、間違えられたっぽい。」
今日初めての、ラッキーかな?
「駅まで送るよ。今日、電車だし。」
「駄目だよ、栄口君が濡れちゃうよ。」
「篠岡は、俺が傘無い人見捨てる人間に見えるの?」
篠岡は、『いい人』の俺の申し出を断れないよね?
2人で1本の傘で駅まで歩く。
「もっと、近くに来ないと濡れちゃうよ。」
「うん。ありがとう。本当に助かったよ。」
きっと、俺は『いい人』だから、篠岡にとって安全なんだろう。
「栄口君はいい人だね。」
『いい人』か。
駅の手前で立ち止まり、傘を握らせる。
「篠岡にこの傘あげるよ。骨が少し曲がっているけど、
捨てようと思っていた奴だから遠慮しないで?」
「駄目だよ、栄口君が濡れちゃうよ!」
「折りたたみ持ってるから、大丈夫。」
「えっ?」
「俺、篠岡と相合い傘したかったんだ。」
篠岡が驚いた顔をする。
「俺、篠岡の事好きだよ。でも、いい人なんかじゃないから、」
正面回って、まっすぐ向き合う。何時も通り、『いい人』の顔で、
「何度も、何度も頭ン中で、篠岡を抱いたよ。
ね?いい人なんかじゃないだろ?」
篠岡が固まっている。
そりゃそうだろう。いきなりだもんな。
「そんなこと、言われても困るよ。」
「だろうね。篠岡が野球好きなの知っている。特別だから、
野球に余計な物を持ち込まないのも知っている。だから、」
忘れられてしまうような、ただのいい人なんかで終わるより、
嫌われてもいい、篠岡に憶えていて欲しい。
俺に特別な感情を抱いて?
屈んで、重ねるだけのキスをする。
あの、想い焦がれた桜色の唇に。
「君を好きになってしまって、ごめん。
君の、野球を汚してしまって、ごめんなさい。」
此処で終わり。もう、戻れない。
そのまま振り返りもせずに、駅に向かって走る。
降りつける雨が心地よかった。
駅から傘も差さずに、家まで走り、脱衣所に飛び込む。
濡れた服を脱ぎ、頭から熱いシャワーを浴びる。
唇に当たるシャワーの感覚に、篠岡との触れるだけのキスを思い出す。
左手を唇に、右手を既に硬くなっている俺自身に。
目を閉じれば、何時ものように、篠岡が、俺の名前を、
『栄口君』
何時もの、学校の、部活での篠岡が、笑顔で、
『栄口君』
俺だけの篠岡が出てこない。
俺の名前を呼んでくれない。
『栄口君』
篠岡、篠岡、しのおかっ!!
泣きながら、果てる。
シャワーが、涙を、欲望も流していく。
でも、心の痛みが流れない。
これは、あの唇に触れてしまった俺への罰か?
風呂場にうずくまり、声を殺して泣いた。
目を閉じれば聞こえた、君の声が聞こえない。
もう、俺の中の篠岡が名前を呼ぶ事はないのだろう。
君を好きになって、ごめんなさい。
君を汚してしまって、ごめんなさい。
せめてこの瞬間、君の心の中が俺でいっぱいでありますように。
栄口君は『いい人』なんかじゃない。
みんなに優しい『いい人』だなんて、ありえない。
そんなの、誰でも同じってことでしょ?
「栄口君て、優しいよねー?」
「こないだ、クラスのノート運んでたら、持ってくれたの!」
「マジいい人!」
1組の前を通ったとき、中から聞こえてきた会話にムカついた。
キモチ悪い。
なんで、こんなにわたしが苛々するんだろう。
昨日は、どうやって帰ったか覚えていない。
気付いたときには、玄関で傘を握り締めて立っていた。
服が濡れてなかったから、傘を使ったことはわかる。
結局、傘はごみ箱に捨てることが出来ず、傘立ての中。
返そうにも、話し掛けたくない。
それを踏まえた上で、くれたのなら栄口君は、本当に『いい人』ですこと!
朝だって、いつも通りに、何事も無かったかのように、
『篠岡、おはよ。今日も頑張ろうな。』
なんで、わたしだけが掻き乱されなきゃいけないの?
栄口君は、いつも通り。
わたしは、いつも通りにはいられなかった。
男子がオナニーするのは知っていたけど、
まさか自分がオカズになっているとは思わなかった。
キモチ悪い。
それ以上に、以前と何一つ変わらない態度が、キモチ悪い。
キモチ悪い。キモチ悪い。キモチ悪い。
『何度も、何度も頭ン中で、篠岡を抱いたよ。
ね?いい人なんかじゃないだろ?』
ワタシは、栄口君の中でどういう人間なんだろう?
ワタシをどうやって、抱いたというの?
ワタシは、どんな感じだった?
その前に告白された人には、何も感じなかったのに、
何で、こんなに掻き乱されるの?
わたしの事が好きだといったのに、何でいつも通りなの?
何で、みんなに優しいの?
何で、わたしだけじゃないの??
何度も抱いたって、わたしは1度も抱かれてない!
たった1度のキスだけ。
心が、少しずつ、栄口君に侵食される。
まるで、心が犯されているみたいに。
1週間ぶりのミーティング。
みんなと一緒に帰る気はしなくて、1人部室に残った。
栄口君と2人きりにはなりたくない。
でも、誰かと一緒に同じ扱いをされたくない。
矛盾している。
嫌なら無視してしまえばいいのに、意識せずにはいられない。
ぐるぐる、ぐるぐる。
頭の中が、破裂しそう。
気が付つくと、外は雨が降っていた。
先週も雨降ったな、なんてぼんやりしていたら、誰かが部室に飛び込んできた。
「あれ、篠岡。まだ帰ってなかったの?」
「う、うん。栄口君は?」
「ノート忘れてさ、取りにきたら雨降られた。」
前と変わらない態度。本当に何も無かったみたい。
「夕立じゃないかな?すぐに止むよ。」
「そうだね。でも、置き傘あるから。それで帰るよ。」
わたしが好きだって言ったのに、一緒には居たくないの?
「栄口君は、雨がやむのを待ってる人を置いて、1人で帰っちゃう人?」
栄口君が、困った顔をする。
「そうだね、すぐに止むだろうから待っていようか。」
2人でぼんやり、雨を眺める。
雨の音だけが、部室に響く。
先に、沈黙を破ったのはわたし。
「ねえ、『栄口君の中のワタシ』はどんな風だったの?」
栄口君の膝の上、向かい合うように座る。
「ねえ、ワタシに何したの?こんなキスだけ?」
ちゅっ
音を立てて、触れるだけのキスをする。
栄口君は、驚いた顔してる。
やっと、素顔を見せてくれたような気がする。
「ねえ、何でいつも通りなの?
どうして、わたしがっ、こんなに、栄口君でいっぱいなのにっ!?」
涙が、感情が止まらない。次々と溢れ出る。
「泣かないで、篠岡。」
栄口君が優しく、涙を拭ってくれる。
「好きだよ、篠岡。泣かせてごめん。」
ぎゅっ、と抱きしめてくれた。
栄口君が触れたところが、じんわり熱い。
「もっと、わたしに触れて?『栄口君の中のワタシ』にシタみたいに。」
好きな人とする、初めてのキス。
栄口君の指がわたしの身体を撫でる。
触れたところから、溶けていくような感覚に溺れる。
身体中に降るキスの雨。
刻み込まれる、栄口君の印。
挿し込まれる熱に仰け反る。
もっと満たして、わたしを栄口君だけにして?
お願い、『栄口君の中のワタシ』を忘れて!
もう、栄口君しか見えない。
わたしだけを見て!!
「篠岡、名前、呼んで?」
泣きそうな顔で、栄口君が懇願する。
わたしを、わたしだけを見てる。
「ゆう、とっ!」
お腹の上に吐き出される、熱に現実に戻される。
気が付けば空には星が出て、もう雨は上がっていた。
駅までの道を、自転車の2人乗り。
イケナイ事だけど、堂々と勇人に抱きついていられるのが嬉しい。
少しくらいの意地悪は良いよね?
「ねぇ、『勇人の中のワタシ』と、わたし、どっちが良かった?」
「うぇっ!?」
「どっち?」
「いや、その、篠岡です!」
左手でお腹をさすっているのが、なんだか憎たらしい。
どっちも『わたし』なんだろうけど、出来れば即答して欲しいな。
雨上がりの湿った空気の中を自転車で走る。
空を見上げれば、雲ひとつない星空。
明日はきっと、快晴だ。
しばらく雨が降らないといいな。
骨が少し曲がった傘は、そのまま貰っておこう。
来週のミーティングの日に、2人で傘を買いにいこう。
わたしには、折りたたみ傘。勇人には1番大きな傘を。
雨の日に、2人が濡れてしまわないように、相合傘で帰りましょ?
最終更新:2008年01月06日 21:53