6-229-234 アベチヨ(ドーパミン1)


明日は学校も部活も休みという日。
練習が終わり他の部員たちがコンビニに行くのとは別に、
阿部は1人自転車をこいでいた。
前方にマネジの篠岡が歩いているのを発見し、スピードを落として
「お疲れ」と軽く声をかける。
「お疲れ様ー。あれ、阿部くん1人なの?」
篠岡の言葉に、阿部は地面に足をついて自転車を止めた。
「両親が泊まりで弟の試合の応援に行ってて、帰ったらメシとか
フロとか自分でやらなきゃだから」
寂しいどころか、1人で思いっきり羽根を伸ばせる期待に、
つい自分のことを喋ってしまった。
「最初、田島がみんなで泊まりに行こーぜとか言い出したけど、
自分1人でも困るのに10人分のメシなんて無理だっつーの」
「残念。次の合宿に向けてお料理の勉強してるの。大人数のご飯作る
練習に調度良かったのになぁ」
「じゃ、今度声かけっから」
まあ、女子1人で泊まりは無理だろと思いつつ、適当に返事をしておく。
ペダルに足をかけて踏み出そうとした阿部に、慌てて篠岡が声をかけた。
「阿部くん、今日はご飯大丈夫?」
「なんとかなるだろ」
「私、ご飯作りに行くよ?」

元・地元の強みもあり、篠岡は「この時間はお肉が割引なの」と
阿部を最寄り駅近くのスーパーに連行した。
「や。ちょっと、ご近所さんの目もあるんで…」
「割引はヤなの?阿部くんて見栄っ張りだねー」
「そーじゃねーよ!家族いない時に女連れ込んでると思われたら
どーすんだ」
「大丈夫、マネジだから」
「あぁ?」
「選手の健康管理もお仕事だよ」
阿部は眩暈がした。
「天然」は投手と4番で十分なのに、マネジまでかよ…。

俺は3年間、篠岡を「うまそう!」と眺めて終わる覚悟だったのに。
なんだよ、この思春期の妄想大爆発をリアルで突き進む展開は。
あ、でも俺と同じか、それ以上に野球大好きな女が近くにいて、
惚れない方がおかしい訳で、絶対に性欲先走りじゃねえ。
シガポのレクチャーの詳細なんざ覚えちゃいないが、メシ食って
鍛えられるなら、篠岡を味わって満たされた方がよっぽど俺の
野球は良くなるだろ。……ってことで、この絶好のチャンスに
いただいちゃって良いですか?って誰に聞いてんだよ俺。
……と赤面して、かなり判り易いはずの阿部の心の葛藤に気づく
様子もなく、篠岡は手際よく買ってきた食材を調理して並べていく。
「時間なくて手抜きだから、味の保障は出来ないけど」
「いや、たいしたもんだよ」
野菜を中心に、男子高校生の好む揚げ物や肉、味の濃い料理と外さない。
しかも、何を食べても美味い。阿部の食べっぷりに、篠岡は満足気だ。
この可愛さで、胃袋まで掴まれたら降参するしかない。
(いっそこのまま、嫁に来てくれ篠岡ー!!)
という阿部の心の叫びも、天然の篠岡には届く訳もなく、
「喉につかえちゃった?お水持ってくるね」
「篠岡は食べねーの?」
「私は良いの。阿部くん、どんどん食べて」
「家の人に連絡したか?そろそろ帰らないと心配するだろ」
「平気だよ。ソフト部の友達の家に泊まるって言っといたから」
「うぇっ」
阿部が水を噴き出し、篠岡は慌てて台拭きを手にする。阿部と篠岡は
同じ中学出身だから、確かに近所に知り合いがいてもおかしくない。
今後、目撃した人間に聞かれてもそう説明すれば丸く収まる訳だ。
「どーしたの?今日の阿部くん、おかしいよ」
「わ、わりぃ。じゃあ今日は……?」
阿部の質問には答えず、篠岡は汚れた皿を重ねた。そのまま流しに
運びかけて、立ち止まる。そして、恥ずかしそうに言った。
「私、阿部くんのお部屋見たいんだけど、ダメ?」

部活の道具や野球関連の書籍が幅を取る阿部の部屋を見回して、
「やっぱり。阿部くんのお部屋って、野球でいっぱいだね」
と篠岡は微笑んだ。大きな瞳がきらきら輝いている。
好きになった理由は中身だが、惚れた弱みを抜きにしても篠岡は
美少女だと思う。
茶色い髪も目も、小さな身体も、自分とは正反対の篠岡と、唯一
共通しているのが野球に対する情熱で。据え膳蹴飛ばせるほど
俺も人間出来てないんで、美味しくいただかせていただきます!
という下心を阿部は全く顔に出さず、水面下で暴走していた。
「予想どおりで、嬉しいなー」
篠岡はキョロキョロと部屋を観察を続けていた。
(なんか……目的は野球?いんや、照れ隠しだよな。そりゃあ、
口実がなきゃ男の部屋になんか1人で来れねーし)
グルグル考える阿部の希望を打ち砕くかのように、篠岡の足は
阿部をすり抜け、本棚に向かう。
「あ、やっぱりあった」
「は?」
「引越しの時に、処分した雑誌がいっぱいあって後悔したの。
このムック捨てなきゃ良かった。見て良い?」
そう言って、棚から抜き出してぱらぱらとめくる。
「もう読まねーからやるよ」
「ううん、そこまでは。その代わり、メモ取らせて貰って良い?」
「あ。じゃあ、書くもの…」
筆記用具を渡す。頭が痛くなってきた。阿部はようやく理解した。
「篠岡、俺の部屋に来た目的ってコレ?」
「うん。阿部くんのお部屋って、きっと野球のデータがいっぱいで
楽しいだろうなって」
「放送なら、見たいのあれば、ダビングしてやるよ」
「わ、ありがとう。あのね、去年の県予選で、1年で出た投手の…」
阿部は気が遠くなった。

(きっと今の俺を他人が見たら、物欲しげに見えるだろーな)
篠岡の目的は、自分ではなく野球オンリー。真実を直視するのは
なんて辛くて勇気の要る行為なのだろう。
時々、篠岡は雑誌やファイルから顔を上げて阿部と目が合うと
幸せそうな笑顔を見せる。つられて阿部は、弱々しく笑い返す。
(フツウの女なら、こんだけ見つめてりゃ気づくだろ。ったく、
これだから天然はイヤなんだ!)
ため息が出てしまい、篠岡が気づいてしまった。
「ごめんなさい。練習で疲れてるのにこんな遅くまで」
「いや、俺こそ愛想なくて、わりぃ」
「そーだね、阿部くんは、女子はちょっと話しかけ辛いかも」
「たまに言われる」
学校で、野球部の快進撃で興味を持ったらしい女生徒たちが、
自分の噂を遠巻きにしているのは気づいていた。
「私、球技大会のソフトボールの試合とか、休日の野球場で見かけて、
中学の時から阿部くんとお話したかったんだよ」
やっぱり野球がメインか、と舌打ちしたくなる。
「卒業式も、告白は無理でも『高校でよろしくね』って言いたかった
けど、阿部くんて女子には近寄り辛いオーラ出てるから」
(え。お前、今なんて……)
「告白」の二文字に呆然とする阿部を無視して、篠岡はまるで
世間話のように続ける。
「だから、西浦で、意外に阿部くんて…」
「告白なら、俺はされるよりする方が好きだ」
「えっ」
阿部に自然にニィ、と邪悪な笑みが浮かぶ。
篠岡は目をぱちぱちさせて、自分が何を言ったのか反芻して……
やっと気づいた。

「私、そろそろ…」
逃げかける篠岡を、横から抱き締めた。
「やだ、やめて」
ため息まじりの泣きそうな声。さらにきゅっと力を込めて耳元で囁く。
「てめー、散々じらしといて、今更何言ってんだよ?」
「違うの、雑誌踏んでるー」
「はあぁ?」
脱力するくらい野球バカなトコも、全部愛おしかった。
「もう買えないのに、もったいな…」
ずっと欲しかった唇を塞いで、続く言葉を封じた。
篠岡は抵抗しなかったが、その小さな身体はずっと震えていた。
唇を離し、見つめ合う。潤んだ大きな瞳に吸い込まれそうだ。
「わ、私はマネジだから…」
「俺は捕手だから、部活じゃ投手しか見ねーよ。篠岡を好きなこと
忘れて野球に集中するから、篠岡も2人だけの時は、みんなのマネジ
だってこと忘れろ」
「……うん」
篠岡の手は阿部の頬に優しく触れて首の後ろに回り、おねだりをする
ようにそっと瞳を閉じた。
こんな時に「あ、今の俺はなんとかっていう物質出てるな」などと
余計なことを思い出してしまい、阿部は苦笑した。
出来るだけ優しく扱って、ゆっくり時間をかけて篠岡を味わうから。
何度目かの激しいキスの後に、ベッドの上に抱え上げて、覆いかぶった。
額どうしを合わせ、改めて顔を見合わせて2人で照れ笑いをして、
もう1度篠岡の柔らかい唇や舌の先の感触を楽しむ。
これから起こることへの不安や期待、くすぐったいような気持ちで、
自分が自分でないみたいだった。
ブラウスのボタンを外して指をすべりこませた瞬間、無神経な電子音が
鳴り響いた。
「あ、電話……」
篠岡のスカートのポケットの中の携帯電話だった。

「2人の時は電話も忘れろ」
「たぶん、先輩なの」
「え?」
運動部の上下関係の厳しさは、男女問わない。元ソフト部の先輩からの
電話を無視出来ず、篠岡は阿部を軽く押しのけると携帯を取り出した。
「ハイ……すみません。今、どこですか?あ、ハイわかりました!」
阿部は毒気を抜かれたように呆然としていた。なんだよ、このベタな展開は!
「ごめんね、先輩のバイト終わったからもう行かないと」
「はぁっ?」
「先輩と一緒に、友達の家に泊まるの」
そう言いながら、せっかく外したボタンを篠岡は留めはじめる。
「口実じゃなかったのか?」
「え?ホントだよ?さっきそう言ったでしょ?」
篠岡は服装を整えると、部屋に散らばった野球関連の資料を片付けた。
「おい、まさかホントに行く気か」
「うん。約束は、先輩の方が先だもの」
「……ここまで来て、ヒドくないかソレ」
「ん?今日はご飯作りに来たんだよ。目的は達成したよね」
(そういう問題じゃねーよ!俺のドーパミンどーしてくれるー!)
と声にならない絶叫をする阿部に、篠岡は不意打ちでキスをした。
「ごめんね」とつぶやく彼女が名残惜しそうだったのが嬉しくて、
子供のように拗ねていた阿部は、簡単に宥められてしまった。
お互いが好きだってわかっただけでも良しとするか。続きはいつでも
出来る。ここは冷静になって送り出そうとやっと、決意した。が、
「じゃあ、次はみんなでお泊りの時だね」
「オイコラそこ正座しろ!なんで他の部員も一緒なんだよ!」
「合宿のご飯の練習をするから、でしょ?」
他意のない、篠岡の天使的な笑顔に、言い返せる男がいるだろうか。
「……ああ、うん。楽しみにしてる」
腕にヨリをかけて頑張るね、と言い残して、篠岡は去って行った。
残された阿部は、ぐったりと座り込んだ。今日は疲れた。
「これだから天然はイヤなんだよー!」
その日の夜は、孤独がやけに身に沁みた。





最終更新:2008年01月06日 22:09