6-754-755 カノルリ


電車が駅に着いた時、空からはぱらぱらと雨粒が落ちてきていた。

「あーあ、降って来ちゃった。」
改札を出て空を見上げると、ルリは溜息を吐いた。
ついてない。天気予報では雨なんて言ってなかったのに。
駅から家まではたいした距離ではない。
もう帰るだけだし、多少は濡れてもいいか…。
そう思って、ルリは雨の中を駆け出した。

蒸し暑い夏の夕方。汗ばんだ肌を打つ雨は思いのほか心地良く。
次第に強くなる雨はアスファルトの色を変え、昼間の熱が蒸気となって立ち上っていく。
いつの間にか、ローファーの中にまで水が入り込んでいた。
体温で温くなった雫が、肌を伝って落ちていく。こんなに雨に濡れたのは、いつ以来だろうか。
びしょ濡れになってみると諦めもついて、歩く速度は段々とゆっくりになっていった。
帰ったらすぐにお風呂に入ろう。そうだ、こないだ貰ったバスビーズを入れて。
人気のない薄曇りの道路。気づくとルリは鼻歌を歌っていた。

「お前、何やってんの?」
突然後ろから聞こえた声に、ルリはぎくりとして振り返る。
そこには向かいに住む幼なじみの姿があった。
「叶…。」
「お前バカかよ。雨ん中濡れながら歌なんか歌って。危ない人みたいだぞ。」
傘をさした呆れ顔の叶に、ルリは少し赤くなった顔で言い返す。
「…うるさいな。あんたこそ何やってんのよ。部活は?」
「今日は休みだよ。だからDVD借りてきた。あ、お前も一緒に見る?」
「結構です。帰ってお風呂入るんだもん。」
ぷいと顔を背けたルリに、叶は笑いながら傘をさしかけた。

「ほら、もっとコッチ来いって。」
「いいよ、もう濡れてるし。すぐ家だし。」
「いいから。ゴチャゴチャ言ってんなよ。」
肩をぐっと引き寄せられて、ルリは体が強張った。

叶は苦手だ。なんと言っても言動が乱暴で、行動が粗雑だ。
向かいの家に住んでいながら、中学進学以来、ほとんど顔を合わせることもなかったのに。
「廉、元気?」
「元気だよ。」
右耳の上から降る声は、記憶にある声とは違って低く響いた。
…こんな声してたっけ。なんとなく感じる違和感に、会話はすぐに途切れてしまう。
沈黙に耐えられず、何か話そうと思っても何を喋ればいいものかもわからず。
気まずい。早く家に帰りたい。
途切れ途切れの会話の中、自宅の玄関が見えて来ると、ルリはほっと息を吐いた。



「じゃあな。」
ルリを玄関まで送ると、叶はくるりと背を向けた。

…あれ?
からかわれたり、なんか意地悪なこと言われたりするんじゃないだろうか。
そう警戒していたのに、叶は呆気ないほど普通で。
ぼんやりと見つめた叶の後姿は、シャツの右肩が雨で濡れていた。

―私を傘に入れたから、叶が濡れちゃったんだ…。

気づくと、不思議そうな顔をした叶が、振り向いた肩越しにルリを見ていた。
無意識に叶のシャツの袖をぴんと引っ張っている自分に驚いて、ルリは慌てて手を離す。
「あ…、えと。」
「?」
砂利を踏む音がして、叶がルリに向き直った。

言動が乱暴で、行動が粗雑で…。小学校の時の叶は確かにそうだった。
それなのに、今目の前にいる叶はその頃に比べ格段に大人っぽく、なんだか知らない
人みたいに見える。
言いようのない不思議な気持ちで、叶を見上げ、ルリは呟いた。
「…ありがと。」
「どういたしまして。」
ぽんと頭に乗せられた手の重さに、胸がざわざわした。
道路を挟んだ向かいの家に帰っていく、叶の背中をじっと見つめる。

「あ。」
ふと、叶が思い出したように立ち止まり、振り返った。
ルリは一瞬身構える。
「な、なに…。」
自分を真っ直ぐに見据えた叶に、再び胸がざわついていくのを感じた。
この居心地の悪さはいったいなんなのか。息を飲んで、叶の言葉を待つ。

「いくら胸がないからっつっても、そんなカッコだと危ないから気をつけろよ。
世の中には、そういうのが好きな奴だって、いっぱいいるんだからな。」

「…は?」
そう言って笑った叶を、ぽかんと見つめていたルリだが、しばらくして自分の格好に
気づいて慌てて両腕で体を隠した。
濡れて張り付いたシャツは、華奢な体をラインを浮き立たせ、小さな胸を包んでいた
淡い色の下着が透けて見えていた。
ルリの顔がパッと赤くなる。

「余計なお世話だ、バカ!」
ルリの怒鳴り声と共に、大きな音で閉じられた玄関を見つめ、叶は肩を揺すって笑う。
「心配してんじゃん、これでも。」

笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら、叶は踵を返した。
「ほんとにいるんだぜ、そういう、お前みたいのが好きな奴。」

青春が始まる、1年前の夏の出来事。





最終更新:2008年01月06日 22:41