7-330-351 イズチヨサカ3

机に置かれたケータイが震える。
『返信遅くなりました 了解です!今のところ順調です 千代先輩も頑張ってくださいね!』
メールは一年生のマネジからだった。
今日日直の仕事と修学旅行の雑務をしてから部活に行くので、それまで一人で頑張ってね、よろしく、
という旨の、篠岡が送ったメールに対する返信だった。

篠岡はとっくに書き終えている学級日誌を閉じた。
修学旅行の雑務といっても、正式に決定した自由行動の計画表を班別に回収して担任教師に提出する
といった日直の仕事の延長のようなものであり、既に全ての班の計画表が机の上に揃っている。
ホームルームが終わってからしばらく時間が経っていた。
放課後の教室にひとり残っている。廊下の人通りも疎らだ。
なんとなく部に足を運びたくなくて、こうして自分の席からぼんやり窓の外を眺めている。

栄口の家に行ってから三日が経つ。
この三日間、篠岡は「今まで通り」を保つ演技に神経をすり減らしていた。
気を許すと、あの答えが見つからない問いに翻弄され、
カノジョできる云々の前に、いっそのこと二人と一線を引いてしまいたい衝動に駆られる。


ガラリと教室前方のドアが開き、栄口が入ってきた。
「あれ?篠岡、まだ日直の仕事してたの?」
「うん、今終わって職員室に行くところ。栄口くんは?今休憩中?」
口から心臓飛び出そうなくらい驚いたが、篠岡は努めて平然を装った。
「そうそう。オレ教室のロッカーにアンダーの替え、入れっぱなしで部活出ちゃってさー」
栄口はそのまま教室の後ろまで歩き、ロッカーからアンダーシャツの替えを取り出し
自分の席に置いた。
「あー、もう汗びしょびしょ!篠岡、少し窓開けてくれる?」
「あ、うん」
篠岡が窓を開ける。湿った風とともに外の喧騒も教室内に流れ込む。
さんきゅー、と礼を言い、栄口は篠岡に背を向けてアンダーシャツをがばっと脱いだ。

篠岡はその大きな肩甲骨に見入る。
背筋がぴっと伸びていて、シャツを脱ぐ動きに合わせて僧帽筋、広背筋が躍動する。
無駄な肉が一切ない、しなやかな少年の体から、篠岡は目が離せなかった。



窓から突風が入る。
机の上の学級日誌のページが勢いよくぱらぱらと捲られ、数枚の紙が舞った。
篠岡が膝を屈ませ、慌てて床に散らばった紙を集める。
目を上げると、何百本という机と椅子の銀色のパイプ脚が目に飛び込んできた。

「これ、修学旅行の計画表?」
栄口も上半身裸のまま紙を拾うのを手伝う。
栄口の汗の匂いが、篠岡の鼻腔をくすぐる。
床に膝を付いた栄口と目が合う。
篠岡の目線が僅かに下がる。栄口の鎖骨の張り具合を見てから、
硬そうな胸筋が息に合わせて上下しているところまで目を奪われた。
「? おーい篠岡、どうした?」
栄口の喉仏がごろごろと動く。



篠岡は顔を赤らめ、立ち上がり、栄口の机から替えのアンダーシャツを取った。
「ね、シャツ、着て。目のやり場に困るから」
床から膝を上げずにぽかんとしている栄口に渡した。

目の前の篠岡の膝頭に栄口の目が留まる。
スカートから伸びる真っ直ぐな脚。
柔らかそうな太腿。張り詰めた脹ら脛、締まった足首。
栄口もよろよろと立ち上がる。

「拾ってくれて、ありがとう」
栄口が拾い集めた計画表を受け取り、篠岡はぱたぱたと教室から出て行った。

「・・・・・・なんだよ」
今頃になって顔が赤くなってきた栄口はぐいっと新しいシャツを被る。
「・・・・・・そっちこそ、スカート丈、短いじゃん」



篠岡は思い知る。
二人が好き。
どちらがより好きだということではない。
この「好き」は友達の範疇を今、超えようとしていて、
やがて恋心に変わってしまう。
泉のカノジョになりたいわけではない。
栄口のカノジョになりたいわけでもない。
なのに二人を男として意識してしまう。
二人に悟られずに、自分さえこの想いを押し隠せば、今まで通り三人でいられる。

二人に好きな人ができたり、二人にカノジョができたときは、
きっと心から喜べない。
嫉妬したり、羨んだりしてしまうかもしれない。
二人と距離を置いて、
そして、女として選んでもらえなかったことに対して心を痛めるだろう。

次から次へと沸いてくる際限ない感情に、篠岡はひたすら打ちのめされる。
「とにかく、部活に行かなきゃ・・・」
くじけそうな気持ちを奮い立たせて、一先ずは職員室に向かった。



「んじゃー、今からお土産タイムねー。一時間後、ここに集合」
栄口が班のみんなに声をかける。
修学旅行もとうとう長崎に入り、今日は班別の自由行動の日だ。
ここの通りは土産物を商う店が集まっている。
篠岡も女友達とはしゃぎながら、旅行客で賑わう雑踏に紛れて行った。

「よーっす、おつかれー」
「はあ、おつかれー。ここまで予定通りだな。泉、時間管理ありがとな」
「いいって。しっかし路面電車って慣れると便利だよな!」
「な!埼玉では走ってないから、旅行きたーって感じがするよな」
自由行動ということもあり、二人は少し興奮気味に話す。
「栄口はここでなんか買うのか?」
「とりあえず家族に頼まれているのはカステラかな」
「オレもオレも!いろんな種類があるらしいぜ」
「よし、オレらも行くか!」
二人も通りに足を踏み入れた。



有名店のカステラを購入し、泉と栄口は通り沿いのベンチに腰を下ろした。
「この角煮まんじゅうって美味くね?」
「ちょっと高いけどな。出来立てうめー」
二人は店の軒先で売られていたまんじゅうを頬張りつつ、ペットボトルのお茶で休憩を取る。
ぼんやり人通りを眺める。
「オレらみてーな修学旅行生がいっぱいいんなー」
「店ン中とか電車ン中とかでいろんな方言が聞こえるよな」

篠岡が女友達と一緒に、二人の座っているベンチの前のビードロ屋に入っていくのが見えた。
「オンナっつうのはホント買い物好きだよな」
「だな。お、篠岡、あの青いのがほしいのかな」
「なに、あの変なカタチのビードロ」
「あれ、『ぽっぺん』つって息を吹き入れて音を鳴らすガラスの玩具らしいよ」
「ふうん、あれ買ってどうすんの?」
「・・・部屋にでも飾って置くんじゃね?」
「つうかあんな高いところに置いてあんの、篠岡取れねーだろ」
「なんか危なっかしいね、店員呼んだらいいのにな」



篠岡はつま先立ちして手を伸ばすも、気に入った空色の『ぽっぺん』に手が届かない。
仕方ないから店員を呼ぼうと思ったとき
「これ、ほしいのか?」
花井がひょいと取り、ほれ、と篠岡に渡した。
「あ、花井くん!ありがと」
「無理して取ろうとして他の売りモン割りそうだったぞ」
えへへと篠岡は笑う。
「花井くんも買うの?」
「・・・ああ、妹へ土産」
花井の手にはピンク色と黄色の『ぽっぺん』があった。
「あすかちゃんとはるかちゃんにでしょ!優しいなあ、おにいちゃん!」
「うるせえぞー、篠岡ー」
旅行中に偶然会えて嬉しかったのか、篠岡も花井も笑顔で軽口を叩きあう。


「・・・・・・少し歩こうぜ」
泉の提案に、栄口も頷いてベンチから立ち上がる。



「栄口、おまえさ、今身長何センチ?」
「172」
「そっか、オレもおんなじ」
「泉、体重は?」
「62、おまえは?」
「60」
「あんま育ってねーな」
「言うなよ、おまえもだろ」

「・・・・・・オレら、アレ取れたかな」
「ぎりぎりか・・・取れなかったかも、ね」
「花井、軽々だったよな」
「あいつまた伸びて185近くあるって言ってたような・・・」
「ちっ、小まめに牛乳飲んでんのにな」
「オレらもこれからだよ、縦にも、横にも、これからまだまだ伸びるって」



「なあ、今おまえ、好きなやついんの?」
泉の発言に栄口の歩が止まる。
泉も立ち止まり栄口の方を振り返る。

「・・・・・・なに、急に」

二人の間を初夏の風が吹き抜ける。
気がついたら川沿いに出ていた。

やっぱり言わねえか、泉はため息をひとつ吐いた。
「オレは篠岡が好きだ」
栄口を見据える。
「で、おまえは?」

川の水面がきらきら輝く。
栄口が拳をぎゅっと握る。

「オレも篠岡が、好きだよ」
栄口も泉から視線を逸らさない。



二人は川岸のベンチに腰を下ろす。

「泉は・・・その、告ったりすんの?篠岡に」
「いろいろ考えたんだよ」
「・・・・・・」
「でも、なに考えても、とりあえずはおまえに話すことからだと思った」
「・・・・・・」
「要は篠岡の気持ちひとつだろ」
「・・・篠岡、好きなやついんのかな」
「さあな。で、いたとしたら、告んない」
「・・・まあ、そうだよな」
「いるかどうか分かんねえうちも、告んない」
「・・・・・・ああ。」
「少なくとも、今の席で・・・同じクラスにいる以上はウカツなことはできない、って」
「気まずくなんの、やだしな」
「・・・・・・そういうこと」



「なあ、泉」
「オレ、篠岡がおまえのこと好きだとしても」
「多分、篠岡のコト、諦めらんない。 でも」
「おまえらふたりのことは壊さない。 だから」
「だから、今まで通りにしていてくれよな」
ゆったりと流れる川を見つめながら、栄口は途切れ途切れに言い切った。

「・・・・・・オレの台詞とりやがったな」
泉が川面の眩しさに目を細める。

「篠岡にとっても、オレら二人にとっても、今のまま、がイチバンってことだよな」
「ああ。けっこう傷つくこと多いかもだけどな」


泉がポケットからケータイを取り出す。
「さて、そろそろ戻ろうぜ、班長」
「いっけね」

「ありがとな、泉」
一歩前を歩く泉の背中に、栄口は声を掛ける。
「おまえじゃなきゃこうはいかねえだろうけどな」
振り返りもせず、泉が返す。



その夜、夕飯と風呂を済ませた男子部屋。
「さあて、もうそろそろ女来るから、部屋片付けようぜ」
例の仲間内で付き合い始めた男子がパンっと手を叩いた。
「はあ?なんじゃそら」
タオルで髪を拭く泉の手が止まる。
「あー、これから一緒にUNOする約束になってんの」
「それ、聞いてねーぞ」
栄口が眉を顰める。

戸口でコンコンとノックが聞こえる。
「ほら、来た!とりあえずパンツはしまっとけ」
泉は面倒臭そうに風呂のときに替えたトランクスをバッグに放りこんだ。
栄口は自分の布団を折り畳んだ。
「おじゃましまーす」
今日自由行動を共にした女子達が部屋に入ってくる。
篠岡がいない。
「あれ?篠岡は?」
「なんか疲れたとか言って部屋で休んでるよ。あとで顔出すってさ」
仲間内で付き合い始めた女子が答える。



無言で泉と栄口が同時に立ち上がる。
聞きもしないのに女子が自分たちの部屋の場所と、教師たちの見張りポイントを教える。
泉と栄口が出て行った部屋から
「過保護だよなあ」
「あれじゃあ千代、カレシのひとりもできないよ」
友人達の溜息が漏れる。


早足でホテルの館内を二人は歩いた。
「篠岡が一緒に来なくて、ちょっと安心しちゃったよ、オレ」
栄口が呟く。
「な。オレも」
泉が短く同意する。

見張りの先生に見つかることもなく、無事女子部屋に着いた。
栄口がノックをすると、ドアの向こう側から、はーい、と篠岡の返事が聞こえた。
「入るぞ」
泉が篠岡の返事を待たずにドアを開けた。



「い、泉くん・・・と、栄口くん」
篠岡は部屋の一番奥の布団の上に座っていて、力の抜けた声で二人の名前を呼んだ。
篠岡の顔色がさっと変わったのを二人は見逃さなかった。

「お・・・じゃまします」
栄口が声を掛ける。
「体調、悪いの?」
泉が篠岡の正面に座り、胡坐を掻く。
「う、ん。ちょっと疲れたみたい。今日いっぱい歩いたし、暑かったし」
篠岡はおでこに手を当てる。
「だいじょうぶ?」
栄口も泉の隣に座る。
「・・・・・・」
篠岡は俯き、顔を上げない。



隣の部屋のドアを強くノックする音がする。
にわかに廊下が騒然となる。

「やばっ、見回り?!」
小声で栄口が呟く。
泉が部屋の電気を消す。
「布団ン中潜れ!」
三人ぼふっと布団を被る。

ほぼ同時にドアがノックされる。
「入りますよ」
女性教師の声が聞こえて、戸が開いた。

布団の中で団子になる三人。
息を潜める。
心臓の鼓動が早まる。

「・・・? あら、この部屋誰もいないのかしら」
「真っ暗ですね」
もうひとりの女性教師の声が聞こえる。
「ここも男子部屋かしらね!」
「ふふふ。修学旅行の醍醐味ですもんね」
「はあー。どいつもこいつもまったく・・・」
「まあ、いいじゃないですか、まだ消灯前ですし。それより前の部屋の・・・」

女性教師二人の声が次第に遠くなり、ドアがパタンと閉まる。
心臓の鼓動が布団の中でどんどん大きくなっていく。
この音で隠れているのがばれてしまうのではないかというくらいの三人の鼓動。
息を呑む音が三つ。
廊下から完全に気配が消えるまで、三人は身じろぎひとつしなかった。



「・・・もう大丈夫だろ」
泉が布団からもぞもぞと出る。
「うあ、真っ暗。なんも見えねー」
電気のスイッチを栄口が探す。


「・・・・・・電気、つけないで」
か細い声。
やがてすすり泣く声が部屋の空気を震わせた。
「・・・・・・篠岡?」
栄口が名前を呼ぶ。
「どこかぶつけたか?」
泉も心配になる。
篠岡からの返事はない。

夜目が利くようになり、窓から入る明かりでぼんやり部屋の中が浮かび上がる。
篠岡が布団の上で丸くなって声を殺して泣いている。
栄口は部屋の隅に、泉は部屋の中央に立ち、静かに泣き続ける篠岡を黙って見守る。




しばらくして、すすり泣きが小さい笑い声に変わった。
篠岡がむくりと起き上がる。

「・・・・・・わたし、わたしね」
篠岡はくすくすと笑いが止まらない。
「二人が好きなの」
自嘲気味に篠岡が続ける。
「隠し通す自信、あったのに」
ぐすっと鼻を啜る。
「もう、ダメ。わたし、耐えらんない」
篠岡は暗闇に向かって吐露した。


三人が少年少女でいられる時間は、あまりにも短かった。


(終わる)
最終更新:2008年01月30日 23:06