7-358-379 レンルリ4(303氏)
――エピローグ――
四月上旬――。
だいぶ春らしい気候になってきたはずだったのだけど、季節はずれの寒波が到来したとかで関東地方は
寒さのなかへと逆戻りしていた。
そのため、お布団が恋しい時期も延長となってしまったというか、ここしばらくの私は起きるのが
億劫で仕方がなかった。
「――リ、ほらルリってば。起きなって」
「……うーん、あともうちょっとだけー」
私を起こすような声が聞こえてきたけど、身体が言うことを聞いてくれなくてどうにも起き上がれない。
「ほら、ルリも今日から社会人なんだから……気合入れていかないと」
(あー、そうだったっけ。今日から私は社会人で……って、えっ?)
ほんの少しだけ意識が覚醒する。私の顔を覗き込んできている人を見る。ネクタイを締めてスーツ姿で
ビシッと決めた、私の大好きな人だ。
「……レンレン、今、何時?」
「やっと起きた。七時半前、そろそろ出ないと遅刻だよ。それも新任早々から」
「ちょっ、やだっ! なんでもっと早く起こしてくれないの……!?」
ベッドから跳ね起きてクローゼットへと飛びついて、新品のスーツを引っ張り出す。
「ああっ、メイクしなきゃだし、トイレにもいきたいしシャワーでさっぱりしたい……。
あーっ、もう時間がないよーっ!」
盛大なため息をついたレンレンが部屋から出て行こうとしていく。
「三十分だけ待つから。八時になったら、オレは車出して先行くからね」
「えっ、やだよ。ちょっと待ってってばーっ」
しかし、無情にも彼はドアを閉めて去っていった。
あれから六年が過ぎて、私は三星学園高等部の数学科教諭として四月一日付けて着任した。
この二年前に大学を卒業したレンレンは、一足先に社会科教諭として赴任していた。私が遅れたのは、
大学院まで進学して経営学をばっちりと修めてきたからだ。
それは、もちろん、私がそう遠くない将来にうちを――三星学園を継ぐために他ならない。
ちなみに、レンレンがうちに就職するのを選んだ理由――。
『レンレン、高校野球の指導者になりたいんでしょ? すっごい偶然なんだけどね、とある私立高校が
野球部のコーチポスト付で新規採用を募集しているの。
……えっ、三星だろって? うん、そうだよ。えっ、三星はイヤ? うわーっ、贅沢言っちゃダメだよー。
公立受けるつもりだろうけど、今年の埼玉の競争倍率って知ってる? うん、そうそう。すごいよね。
受けるだけうちも受けようよ。ほら、指導者になりたいんでしょ? 公立だと自分が希望する部活を
受け持つことができるかどうか……。
入ってきたばかりの新任なんて、何年間かずーっと雑用係だよ。野球部を指導できるのは
いつになることやら……。
悪いことは言わないから、うちに来なよ……』
という具合に言いくるめて、うちに連れてきた。もちろん、私と同じく経営者の孫である彼が落ちるなんてわけ
はなく、めでたく採用となった。
「あーあっ、結局ご飯食べられなかった……。朝ご飯は大事なのに……」
うちのガレージを出て学校へと走る車中で、肩を落としてぼやく。
「ルリの自業自得だろ。早く起きなかったルリが悪い」
運転席でハンドルを軽快に操る恋人は果てしなく冷たい。確かにそうといえばそうなんだけど、
もっと優しく構ってくれてもいいだろうに。
「レンレン、冷たいよ。それにレンレンにも責任あるくせに」
「なんでさ」
「だって、レンレンが私をあんなに激しく犯すから」
「……ぶっ! お、犯すってなんだよ。人聞きが悪いな……」
「あんなに夜中まで犯してくるんだもん。あれって一種のレイプだよ」
攻守交替とばかりにして、今度は私が攻勢に出ていくのだった。
「先に誘惑してきたのは……はいはい、オレにも責任がありますよ。ごめんなさい」
「うん、わかればいいよ。でもさ、レンレンって何時に起きてるの?」
赤信号で停車したところで、ちょっと気になったことを質問していった。昨夜寝たのは確か夜中の二時前で、
彼に起こされる朝までぐっすりだった私はまったく気付かなかった。一緒に寝ているのに。
「朝の五時前だよ。うちの部は朝練は自主性に任せているけど、部員たちだけ早起きさせて監督が
ぬくぬく惰眠をむさぼっているようだと示しがつかないだろ。この時間を利用して走りこみやってるから、
オレは健康そのものだよ」
「おおーっ、頑張ってるんだね、監督さん」
信号が切り替わって、アクセルを踏み込んで車を発進させていく。
「若いうちはお手本を見せられるようにトレーニングをやっていこうと思ってるから。口で言うよりも
実際にやってみせたほうが理解しやすいこともあるからね。
それよりもさ、二年前に赴任したときはめちゃくちゃ驚かされたんだけど」
「驚いたって?」
しれっと素知らぬふりをしてとぼけてみせる。
「赴任して初日に部活に出ると、部員全員が整列して『監督、今日からよろしくご指導お願いします』って。
なんのドッキリかと思ったよ」
野球部の前監督は、以前から健康上の問題を抱えておられた。本人から二年ほと前に辞職を願い出られていた
ところを無理をいって続けてもらっていたのだけど、もう限界だからと言われて受理することとなった。
そこで新しい監督を選ぶことになったのだが、微妙な時期だったため人材不足となって難航。
そこで早應大学野球部の監督さんに連絡を取って、レンレンのことを聞いてみることにしたのだ。
監督さんから、勉強熱心で後輩たちへの指導力も的確なものがあり、有望株だという回答をもらって、
レンレンを新監督に迎えることが決定となった。
最初から監督というと、絶対に渋るから彼には赴任するまで厳重に隠しておいたというわけ。
「よし、ついたっと」
「ありがと」
学園の駐車場につき、さっとスペースに止めて二人して車から降りて校門へと向かう。
「なんかおかしい気はしていたんだよな」
「なにが?」
「野球部の話だよ」
ちょっとだけ急ぎ足になる。
「三年の間、遅くても四年の前期までに卒業単位を揃えておくこと。卒論は夏休み中に目処をつけておくこと。
って言われてそのとおりにして、秋のリーグ戦が終わったら前の監督さんから電話がきて、暇だったら
うちにきて指導を始めてくれないかって話を受けて……」
四月に赴任して監督ですって言われても、レンレン本人はもちろん、部員たちも混乱するだろうからって
ことで、監督さんのもとで修行となったわけだ。
「おかしい気はしていたんだけど、まあ暇だからってことで続けていったんだよな。で、しばらくすると
新入生のスカウト活動にもついてきてくれって言われて……」
「親御さんは指導者を信頼して大事な子供を預けるんだから、監督さんが同席していないとまずい
でしょ。それよりも、今年はどうなの?」
「あっ、うん。新三年生はオレと一緒にうちに入ってきた――自分が一から指導してきた最初の代で愛着も
あるけど、そのぶん遠慮なく厳しく鍛え上げてきたよ。そのかいもあってか、去年の秋季大会は
関東大会まで出て甲子園にあと一歩のところまで残れた。
その悔しさを糧にして、更に練習にのめりこんでいって一冬を越した。二年生も力をずいぶんつけたし、
今年は確信を持ってる」
口ぶりからも自信の程が窺える。これは期待してもよさそうだ。野球部には専用グラウンドに合宿所、
強化費用もたっぷりとまわして優遇しているのだから、結果を出してほしいところだ。
甲子園に出場した翌年の受験志願者はすごいことになる。全国ネットで中継されて、学校の名前を宣伝して
もらえるわけで、その効果でおいしい効果がもたらされるというわけだ。
経営者としての視点から見れば、これほどありがたいことはない。
「やっぱり、うちの学校はサクラが綺麗だよねー」
校門前までやってきて、きちんと整備が施された桜並木へと目を向ける。ここしばらくの寒さのせいで、
まだ満開とまではいかないけど、サクラの花びらがひらひらと宙を舞っていく様子に心を
奪われる。
遅刻ぎりぎりとなる時間帯のため、辺りは同僚となる先輩教師はもちろん、生徒の姿は見られなかった。
「ほら、ルリ。いつまでもぼーっとしてないで、早く行かないと……」
「ねえ、レンレン」
袖を掴んで引っ張っていこうとする彼を呼び止める。
誰もいないことだし、そろそろあれを宣言しといてもいいだろう。
「今年の私の誕生日は……レンレンが欲しいな」
「誕生日って、まだ二ヶ月以上先の話で……って、朝から下ネタはやめようよ」
「ううん、そういう意味じゃないよ。私の誕生日は六月、でしょ。英語で六月は?」
「えっと、June(ジュン)だっけ?」
「正解。それで花嫁さんは?」
「確か……、Bride(ブライド)だっけ……って、まさか」
私は満面の笑みでひとつ頷く。
「私をJune Brideにしてほしいなー」
腕を取ってがっちりと組む。
「ええぇえぇえっ!?」
「うわっ、なにそれ? 私にあれだけエッチなことしておいて、責任も取らずに弄ぶだけ弄んで捨てるって
いうの……っ!?」
「そ、そんなことないよっ。いつかはそういうふうにって考えてたから……。でも、ちょっと急じゃない?」
彼は首を真横にぶんぶん振って否定してくる。
「私たち、今年で二十五でしょ。適齢期だよ、適齢期。それにうちの家族はもちろん、おじさんとおばさん
たちも了解済みなんだよ。おじいちゃんたちも喜んでたよ。これで三星も安泰だって」
引き攣った笑みのレンレン。口を開けて唖然とした表情の彼も可愛い。
「もしかして、知らなかったのって……」
「うん、レンレンだけ」
がっくりと肩を落としてうなだれていく。まあ、予想できた反応だし、私は特に気にしない。
というよりも、長年に渡って温めておいた計画をようやく告げることができて、笑顔が止まらなかった。
「プロポーズ、楽しみにしているからね」
ちゅっと不意打ちの口付けをして、手を取り歩いていく。
「わかったよ」
桜並木道を二人で歩いていく。これから訪れる幸せな生活を確信しながら、歩いていく。
高校、大学と遠距離恋愛だったけど、これから先の私たちはずっと一緒だ。
サクラの花びらが舞う青空――。そっと見上げて見入ったその光景。それは、私たちの前途を祝福して
くれているかのようだった。
最終更新:2008年01月30日 23:18