7-489-491 榛名VS阿部1 ◆LwDk2dQb92
二月――。プロ野球はシーズンに備えるキャンプの真っ最中である。
二月十四日、世間の男たちをそわそわさせるイベント――バレンタインデー。練習に練習を重ねていく時期では
あるものの、そわそわしつつ期待しているのはプロ野球選手も例外ではない。
榛名元希、二十三歳。プロ六年目を迎える投手で、所属チームの左のエースと称されてきたが、ここ数年、飛躍的な
成長を遂げ素晴らしい成績を記録し続けていることにより、開幕投手の対抗馬としてエースを張る先輩投手としのぎを
削っている最中だ。
その榛名は面白くなかった。キャンプに入ってからというもの機嫌の悪い日々が続いている。調整は順調に進んで
いるのだが、とにかく面白くない。
彼の所属チームがキャンプを張る、九州は南国宮崎県。南国特有の燦燦とした太陽の下にブルペンで投げ込みに
励んでいる。励んでいるのだが……。
両腕を振りかぶり、捕手が構える真新しい青色のミットへと自慢のストレートを投げていく。ボールが突き刺さり、
乾いたミットの音がブルペン中に響き渡る。
榛名は満足げに一つ頷いたところで、
「ナイスボール! 最悪な性格とは違って本当にいい球投げますね」
「ああっ!? なんだと、テメー……」
先輩に臆することもなく、禍々しい毒舌を吐く捕手。榛名が中学のころにバッテリーを組んでいた
阿部隆也である。
そう、榛名が不機嫌な理由だ。
昨年のドラフトで大卒の即戦力として指名され、プロの世界へと入ってきたのだ。そしてなんの因果なのか、
かつて犬猿の仲であった榛名がいるチームへと。
打撃はプロに適応するのに時間がかかるかもしれないが、その捕手としてのセンスに首脳陣が惚れ込んでおり、
開幕一軍はおろか、スタメンさえも勝ち取るのではないかとマスコミにより報道され評価が急上昇している。
(ちっ、冗談じゃねえぞ。隆也が正捕手だ……? オレはこんな生意気なやつなんかとバッテリー組みたく
ねーっての)
中学のころは捕球ミスが目立っていた相手が、今では無難に自分のボールをミットへと収めていく。ストレートも
変化球もしっかりと。それに加えて、捕球技術――投手の気分を良くさせるミットが奏でる音を作り出すのがまた
絶妙に上手い。
この技術だけなら一軍の先輩捕手と遜色はない、というか上かもしれないというのが榛名の神経を更に逆なでする。
更なる舌戦が展開されそうになったところで、二人はそれぞれの直属上司である投手コーチとバッテリーコーチに
怒鳴られ、渋々ながらに矛を下げたのだった。
二月十三日、バレンタインデー前日。
夕方、宿舎の大浴場で二人は顔を合わせていた。相手が嫌なのなら離れた場所で体を洗えばいいのだろうが、
一度目が合うと逸らしたほうが負けとばかりに隣同士で汗を流していた。
性懲りもなく散々にわたって舌戦を繰り広げていたなかで、榛名はニヤリと口を吊り上げて隣の阿部へと向く。
ちなみに、キャンプが始まって十日以上経ったこともあり、この二人のケンカを止める者はいなくなっていた。
『仲がいいほどケンカするっていうし、もう勝手にしやがれ』
……ということらしい。
「なあ、隆也」
「……なんすか?」
「明日はバレンタインだな」
「それがなにか?」
二人ともそれぞれ頭を洗ったり、体を流したりしつつ会話を続けていく。
「勝負しねーか?」
「なにをですか?」
「バレンタインチョコの数だよ」
「はっ、またガキ臭いことを……。そんなもんオレは興味ないですよ、あいつからもらえる分以外はね」
「そうだよな。おまえみたいな陰気臭い入ってきたばっかのひよっこなんかにチョコ恵んでくれる女なんて
いねーよなー」
「……っ」
榛名はわざと皮肉たっぷりに辛らつな言葉を並べ立てて後輩を煽っていく。
「……いいっすよ。その勝負受けて立ちますよ」
「おう」
内心、榛名は笑いが止まらなかった。これでこの生意気な後輩をぎゃふんと言わせてやることができるな、確実にと。
チームを代表する投手とルーキー。その人気の差は明白である。
この夜、自分の勝利を確信して榛名は気分良く眠りについた。
翌日、バレンタインデー当日。
全ての練習を終えて、人影もまばらな夕暮れ時の球場前。榛名と阿部、二人は対峙していた。球団スタッフから榛名に
届けられたのはダンボール一箱分ものチョコレートの山だった。対する阿部へと宛てられたチョコレートは全部で五個。
これをもって勝負は決した。いや、昨日の時点でついていたのだろうが。
「はっはっはっ! どーだ、隆也。自分がどの程度のレベルにいるかってことがわかったかよ」
「…………」
俯いて悔しげに拳を震わせる後輩に、それを目にして勝ち誇る先輩。
実に大人気ない。
「即戦力だかなんだか知らねーが、ペーペーの新人は大人しく先輩に従ってりゃいいんだよ」
「…………」
「なんだ、黙っちまって。モテモテのオレが羨ましすぎるのか?」
榛名は手にしたダンボールを見せびらかしていく。
「……ふっ」
「あん? なにがおかしいんだよ……?」
榛名の背後に現れた人物に気付いた阿部は、不敵な笑みを浮かべていた。
「ふうん? 榛名元希は女性ファンにモテモテでご満悦なのね。それなら、わたしなんかのチョコレートなんて
いらないわよね?」
それは、南国の暖かい空気を瞬時にして凍らせるような声音だった。
(ま、まさか……)
引き攣る頬に、冷や汗が止め処なく背中を伝っていく。ギギギッと錆付いたブリキの玩具のようにぎこちない動作で
背後へと視線を向ける。
そこには、彼の妻である榛名涼音がいた。その彼女は、実に冷たい突き刺すような視線で夫を凍りつかせていた。
手にしていたのはもちろん、バレンタインのチョコレート。包装から察するに、手作りによる力作の代物らしい。
「すっ、すす涼音……っ!? い、いつこっちに……?」
「ついさっき、ね。手作りのチョコレートで激励してあげようと思って来たんだけど、帰るわね。わたしのチョコは
必要ないみたいだから」
背中を向けてその場から足早に離れていく涼音を、ダンボールを抱えた榛名は慌てて追いかけていく。
汚れたユニホーム姿のまま、愛妻のご機嫌を回復するために必死になっている榛名を見送りながら、残された阿部は
練習道具が入ったバッグへ、自分のぶんのチョコレートを突っ込んで宿舎へと歩き出した。
「尻に敷かれまくってるって噂は本当みたいだな。おちょくるためのいいネタができたぜ」
黒い笑みを浮かべつつ、阿部は歩いていく。
宿舎へと届けられているはずの、高校時代から付き合っている恋人からのチョコレートを楽しみにしながら――。
(終わり)
最終更新:2008年02月16日 17:29