7-563-565 イズチヨ(未完)



 好きになっちゃったら大変なの、止まんないんだよ私。


 そう言って篠岡は笑った。日焼けでかさついた唇にリップを塗ったばかりで、
つやつやと光っていた。その隙間から悪戯っぽく舌先が覗く。
 「それでね、私、マネジやってる間は絶対誰も好きになんないって決めてたの。
 どきどきしたり、本当に全然しなかったわけじゃないんだけどね」
 そこまで言って、篠岡はゆっくりと目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とす。
 泉と対照的な、明るい色のふわふわした髪を下ろしっ放しにしているのを
見るのは随分と久しぶりだった。鎖骨より少し下で毛先が跳ねている。
 触ってみたい、と泉は純粋に思った。髪にも、頬にも、鎖骨にも。
 言葉を紡ぐ唇にも。
 「でも気付かないフリしてたの。その方が楽だって信じてたから。恋と部活を両立出来る
 ほど器用じゃないし、迷惑になったりした日には私がここに来たイミ無くなっちゃう」
 でも一番優先しなきゃいけないことが終わっちゃったら、我慢したり気付かない
フリしてる方が辛くなっちゃった。私、泉くんのことが好きだったみたい。
 顔を上げて、また朗らかに笑った。いつもの篠岡の笑顔だった。
 涙目である以外は、いつもと何ら変わりない。


 ぽたりと頬を伝い落ちた涙は、机の上できれいに弾ける。
 弾けた瞬間、俊敏な反射神経を最大限に生かした泉が篠岡を頭から抱き込んだ。
 「好きになっちゃったの、ごめんね…」

 「なんで謝んの」
 「分かんない。ホントはずっと好きだったから?」
 「それをなんで謝んの」
 「……部活に恋愛持ち込んだから」
 「でもおまえぜんっぜん、今の今までそれ表に出さなかったじゃん」
 くぐもった声が腕の中から聞こえる。
 そう、…そうかな。ちゃんと普通にしてた?私。
 「してたよ。全然気付かなかった。オレばっか好きなんだって思ってた。
 でもオレも、絶対部の中おかしくしたくなくて黙ってた」
 「そっかぁ。じゃあ同じだったんだね、私たち」
 「ああ」
 野球に打ち込む篠岡を見ていれば分かる。
 選手ではなくマネージャー、絶対に表舞台には出てこない、「感謝」
以外見返りの無い仕事。それを三年間、部員には愚痴も文句も言わずに
笑顔で務め上げてくれた。
 それがどれだけ自分たちの支えになったことだろう。
 泉より野球が優先されていた三年間、つまりはそういう告白だったのだけど、
泉自身もそうだったから気にはしなかった。むしろ、一緒に三年分のあの濃い
時間を過ごせたことが心底嬉しかった。
 「キスしていい?」
 「そういうの、オレから言わせろよな」
 少しぶっきらぼうな口調で泉が言うと、篠岡はころころと笑った。頬に手を沿え
耳朶の下を少し指先で擽る。唇が薄く開いたのを見計らって顔を近づけた。
 メンソレータムのツンとする香り。べたつき一歩手前の濡れた感触。
 一度軽く触れて、離れて、またすぐに口付ける。
 篠岡の唇は柔らかくてあたたかかった。下唇の真ん中よりも少し左の方、向けた
皮が引っかかる。日焼けで、荒れちゃってて。また唇の離れた隙に小さく呟いた。
 「恥ずかしいな。全然、そういう手入れしてる余裕無かったから」
 「いいよそんなの」
 その薄皮を舐めた。自然な流れで舌が唇を割り、歯列をなぞって奥に入り込んだ。
 ん、と篠岡の鼻から息が抜けていったのに気付いてはっとする。
 薄く目を開けると赤くなった目元と頬、寄せた眉が飛び込んできて慌てて泉は
体を離そうとした。――のに。
 「…!?」
 目一杯首の後ろに腕を絡められて驚く。顔が離れても驚くほど至近距離で、篠岡は
照れたようにはにかんだ。
 「……止まんないって、私、言ったじゃない」

565 名前:イズチヨ/1[sage] 投稿日:2008/02/28(木) 23:44:39 ID:zDB1rzz5
 篠岡の、多分同年代の女子に比べれば荒れたかための指先が泉の首から背中に
沿ってゆっくりと落ちていく。背中の産毛が粟立った。
 せっつく割にキスはぎこちなく、揺れる薄茶の瞳は篠岡の余裕の無さを示して
余りある。
 首筋に鼻をすり寄せられて思わず足がふらついた。重さを支え切れなかった
せいなのではもちろん無く、唇から漏れた呼気が肌をくすぐったからだ。
 がたがたとロッカーに背中からぶつかって、大丈夫?、笑み混じりにの声で
篠岡が尋ねる。
 (そんなヤワに出来てねーよ)
 答える代わりに小さな頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。柔らかな細い髪。
 ――泉の指にこんなにも馴染む。
 少し身を屈めて、耳と頬の中間辺りに口付けてみた。篠岡の肩が揺れる。
 告白が昨日じゃなくて良かった。襟ぐりの開いた服を着てくれているお陰で、
首筋から鎖骨までを唇で辿るのに何の障りも無い。昨日はインナーが白のター
トルだったから、きっと今みたいにスムーズには行かなかっただろう。
 告白したばかりなのにこんなことしちゃっていいのだろうか。自分はとも
かく、篠岡は女の子なのに。
 控え目な胸の膨らみに手を置いてみた。セーターとブラジャーのごわごわした
感触越しに、指に押される柔らかさがある。
 きれいな鎖骨を舐めて軽く歯を立てる。
 「…あ」
 篠岡がくたりともたれかかってきた。
 てのひらにぐっと胸が押し付けられる。やーらけー…と、どこか呆けたような
泉の声が珍しかったのか、おかしそうにくすくすと笑う。
 「…仕方ねぇだろ、初めてなんだから」
 「わ、嬉しい。私も初めてだよー」
 「だろーなって思った。積極的な割にすげー緊張してんし」
 「…やだ、私積極的?やらしい?泉くんそういうの嫌い?」
 小さな体で目一杯抱きついて、矢継ぎ早に質問を投げ掛ける篠岡はどこか
こどもっぽくて、こんなことの最中なのにな、とちぐはぐな印象を受けた。
 でも可愛い。
 日に焼けない肌はしっとりと瑞々しく、初めての感触に泉の体も熱くなっ
てくる。血が指先からどんどん一点に集まり始めるのが分かって、反射的に
身を引くがそんなことはお構い無しに篠岡は体をすり寄せてきた。
 深く息を吐き出しながら、掠れた声で囁く。
 「考えないようにしてただけで、私ずっと、こうしてみたかったんだと思う…」
 だからごめんね、とまた篠岡は謝ってくる。なんで謝んの。悪戦苦闘しな
がら背中のホックを外し、直接触れて改めてその柔らかさに感動していた泉
は少し不機嫌な声で言った。
 「また部にレンアイ持ち込んじゃってごめんとか言うつもり?」
 「……」
 「おまえが三年間頑張ってきたの、オレのため?」
 「…ち、がう、よ」
 「だろ。オレだっておまえのためだけに甲子園目指してきたわけじゃねーよ」
 首筋に額を埋めながら、はっきりとした声音で告げる。泉の頬にぽたりと熱い
雫が落ちてきた。体を起こして目を覗き込む。濡れた色素の薄い瞳が強い視線から
逃げようとするのを、頬を挟み込むようにして視線を合わせた。
 「…ちゃんとオレたち、一緒くたにしねーで頑張れてたよ」
 「ホントに?」
最終更新:2008年03月15日 23:31