7-575-585 ハルスズ(303氏) アルコールと誤解1 ◆LwDk2dQb92 二十歳――。
それはこの国において、成人したと見なされる年齢であり、また様々な娯楽が解禁となる節目でもある。
例えば、喫煙。例えば、飲酒。
榛名元希。彼は今年でその二十歳となることになる。それにより飲酒をすることとなるのだが、彼のその行為を
めぐって――ちょっとした誤解を呼び、事態はややこしいものへと陥ってしまうこととなる。
榛名は昨年のプロ入り以来、主に一軍にて起用され続け、試合で登板する機会を多く得ていた。
彼が所属する球団は、育成をしながら勝利を目指していくという信念の元に、ペナントレースを戦っている。
そのため、大卒あるいは社会人出身といった即戦力クラスでなくとも、有望株であると首脳陣から認められれば、
一軍での試合に出場するチャンスをもらうことができるというわけである。
榛名は去年、開幕一軍こそ果たしたものの、球種の少なさなどといった未熟な面を早々に露呈してしまい、あっさり
二軍へと降格となってしまった。
ポジティブ思考の榛名も、これにはかなりへこんだらしい。
榛名は即戦力の投手としてプロ入りしたわけではない。だが、キャンプ・オープン戦を通して自己をアピールした
ことにより、プロでやっていけるのではという自信をそれなりに掴んでいた。また、その結果により開幕一軍の切符を
もぎ取れたことで、よりそれを深めていった。
しかしながら、結果は無残なものであった。これにはへこむなというのは無理からぬことだったのかもしれない。
それでも、榛名には一軍に踏み止まらなければならない理由があった。
恋人である宮下涼音とのことだ。
榛名と涼音は、榛名が高三、涼音が大学一年のときに縁あって付き合うこととなった。榛名は高校一年のころより
涼音へと恋焦がれていた。しかしながら、彼女には当時付き合っていた彼氏がいた。
そのため、諦めるしかないと自分へ言い聞かせていた榛名であったのだが、もともと諦めの悪いところがある彼は、
ずっと涼音へと想いを寄せ続けていた。
そんな彼を恋愛の神様は不憫に思ったのかもしれない。いろいろと出来事を重ねて、榛名と涼音は縁あって恋人同士
として付き合うこととなった。
長らくに渡って思慕していた相手が振り向いてくれた。そのため、榛名はその成就した思いを――涼音との関係を
続けていきたかった。
そうはいうものの、涼音が住むのは二人の地元である埼玉。一方の榛名は地方球団に指名されたことにより、そこへと
当然ながら住居を移すこととなった。
このために、榛名が涼音と会うのは、チームが関東に遠征する際に帯同することが絶対条件となった。
二軍戦は、西日本に本拠地を構える球団で、それぞれの所属リーグに関係なく独自のリーグを作っての戦いとなる。
つまり榛名は二軍にいる限りは、涼音と会う機会は完全に絶たれるということになるわけだ。
前述のように、一年目のキャンプ並びにオープン戦でのアピールの末に、榛名は開幕一軍のメンバーへと名を連ねる
ことができた。だが、デビュー早々にしてプロの洗礼とばかりに打ち込まれてしまった。
ちなみに関東での試合であったため、家族と涼音を球場へと招待したのに、その目の前で派手に散るという惨憺たる
デビュー振りであった。
そのいきなりの失態を演じた榛名を待っていたのは、二軍へのスピード降格。
当然のように榛名は落ち込んだ。そのようななかでも、涼音からのメールや電話で叱咤激励されて立ち上がること
となった。
榛名が涼音との会話のなかでの彼女からの言葉。
『元希、わたしに会いたいでしょ? わたしも会いたいよ……。だから、頑張って』
どちらかといえば単純なほうである榛名は、これに奮起した。いや、立ち上がらないわけにはいかなかった。
夏場のオールスター戦のあとに一軍へと再昇格後は、榛名はなにがなんでも一軍から離れなかった。
涼音に会いたい一心。彼女目当てという動機はやや不純なものであったかもしれないが、結果的には一応の成績を
残すことができた。
榛名のプロ一年目は、こうして概ね成功の形で終えることができたのであった。
そして、年が明けて迎えたプロ二年目。
榛名は年末年始を地元で過ごしつつも、母校である武蔵野第一高校や中学のときに所属していた戸田北シニア
などにて自主トレに励み、春季キャンプへと備えていった。
春のキャンプで怪我をすることなく、オープン戦も順調に結果を残してやってきた開幕。
高卒二年目の、まだまだルーキーに毛が生えたようなものではあるものの、貴重な左の先発投手の一人として、
榛名は先発ローテーションの一角を担うこととなった。
期待とそれを上回る緊張を抱えて、三月下旬にシーズンが開幕した。
榛名が登板する試合が、たまたま関東に本拠地を置くチームとばかりに重なったこともあり、月に三回程度は
榛名と涼音の二人は会うことができていた。
榛名が投げる試合へと涼音が観戦に訪れて、時間があれば食事に出かける。もしそれが叶わなければ、先発登板した
翌日は完全オフなため、それを利用してデートを重ねていくという形で、二人の関係は良好なものだった。
涼音は、言いたいことははっきり言うタイプという自分に正直な人間である。榛名が抑えた試合は手放しで賞賛するし、
打たれてしまった日は容赦ないダメだしをしていく。
それを聞かされても榛名は不思議と腹が立たなかった。結構、気の短いところがある彼なのに。
それらの反省すべきところを指摘した涼音が、最後に
『大丈夫。また次、がんばろ?』
こうとびきりの笑顔で締め括ってくるのだ。これを見せられると榛名は弱い。そう、榛名が涼音に惚れ込んでいる
証の一つであるといえよう。
榛名自身としても涼音には喜んでもらいたいし、褒められたい。せっかく二人で一緒の時間を過ごせるのなら、
お互いに楽しいひと時を過ごしたいと考えている。
それが道理だろう。
なにかのために頑張る。思うものがあれば能力以上のものを発揮できるともいう。榛名は涼音を喜ばせるために
投げていった。
四月を終えた時点で、榛名の成績は白星先行。このあとも上々の成績を記録していき、白星を積み重ねていった。
五月二十四日。
この日は、榛名元希の誕生日である。今回で二十回目の記念日で、今年からは飲酒や喫煙といったことが大手を振って
できる年でもある。
榛名は喫煙はともかく、飲酒には興味があった。ちなみに前者に興味がないのは、スポーツ選手にとっての大事な
心肺機能を低下させるため、好ましくない行為であるとプロ入り時に指導を受けたことからによる。
榛名は昨年から先輩の投手たちに試合後など、よく食事へと連れて行ってもらっていた。試合の反省点はもとより、
他愛もないバカ話をやったり、既婚の先輩からは惚気話を聞かされたり、またあるときは愚痴だったり……などなど。
食事を奢ってもらった上に相談に乗ってもらったりと、榛名にとって楽しい充実した時間だった。
その食事の席では当然ながらアルコールの類も多く出てくる。
基本中の基本である生ビールでの乾杯に始まり、焼酎、日本酒、ワイン、ウィスキー、ブランデー……と、
例を挙げればキリがないが、とにかくお酒がいっぱいなわけだ。
先輩たちが酒を呑んで盛り上がっているその姿を見ながらに、榛名の手にはオレンジジュースかウーロン茶。変な姿を、
まあぶっちゃければ不祥事を週刊誌などにキャッチされないために、これだけはきっちりと守っていた。先輩たちも
このことはよく理解してくれていたようで、榛名は決して酒を勧められることはなかった。
しかし、先輩たちのその姿を見ていると、榛名はこう思えてならなかった。
『楽しそうなんだよな……』と。
こういうわけで、榛名はアルコールに興味津々なのであった。
五月二十四日から一週間後の金曜日、つまりは五月最後の日。榛名の所属チームは東京での試合の日だった。
この試合、先発した榛名は八回一失点と好投。最後はリリーフを仰いだものの、勝利投手となることができた。
榛名は試合後に本日のヒーローに選ばれ、そのインタビューを済ませるとロッカールームへと戻り、シャワーで汗を
流して私服へと着替えていた。
そのまま手近な椅子を引いてきて腰を下ろすと、バッグへと入れてある携帯電話を取り出してメールを打ち込んでいく。
相手は涼音だ。
二人は球場の近くにある駅で待ち合わせて食事に出かけるという、いつもながらのデートをすることになっている。
このメールはその予定の確認であるらしい。
なんでも涼音が榛名の一週間遅れとなる誕生祝をしてくれるということで、榛名は結構前から話をもらっていた。
榛名としてもなにも断る理由などはないし、もちろん、以前から楽しみにしていたことであった。
メールを送信してそう経たないうちに、榛名の携帯はメロディーを奏でて着信を知らせてきた。
携帯を開き液晶画面を見て相手を確認していく。榛名は自然と表情を崩していた。その相手からは、何度掛かってきても、
何度話してもそれは変わることはないだろうし、この先も変わることはないだろう。
軽く咳払いをして声を整えて、榛名は通話ボタンを押して電話に出る。
「はい」
『――あっ、元希。今日もカッコよかったよ!』
それは予想できていた反応だった。だけども、ここまで感情をストレートに表現されて喜ばれると、やはり嬉しいもの
である。
「ありがとうございます。涼音さんの目の前で、あまりカッコ悪いところは見せたくないですからね。頑張りましたよ」
『そっか、ありがと。それで、今夜の約束、ちゃんと覚えてくれてるよね?』
「もちろんですよ。お祝いしてもらえるんですからね……」
そのまま二人は五分あまり話し込んでいった。榛名は会話を終えると、バッグを持ってロッカー室から出ようとする。
「おい、榛名」
だが、背後から声を掛けられたため足を止めて振り返っていく。
そこには先輩投手たちがいた。榛名が去年からよくしてもらっている人たちばかりで、件の食事会などによく榛名を
連れていっているのが彼らだ。
昨年の二軍落ちを経験した際に新たに変化球を覚えるに当たって、得意球を教えてもらったり、プロとしての心構えを
説かれたり、アドバイスから何気ない雑談をしたりと、なにかと気が合うためによく一緒に行動させてもらっている
気の良い兄貴分たちといったところである。
「なんだ、愛しい彼女からかー?」
「ぶっ! ちょっ、痛いっすよ……」
にやけた先輩たちから豪快に背中をばんばん叩かれていく榛名。見事なまでの弄られ役である。
「ん、違うのか?」
「いや、そうっすけど……。あの、これから彼女と約束しているんで、いいですか?」
「ああ、悪い。引き止めるつもりじゃなかったんだ。ただ、ちょっとだけ確認しておきたいことがあってな」
「確認ですか。なにかありましたっけ? ……ああ、はい。ちゃんと門限までには宿舎に戻りますよ」
「違う違う。そういう小うるさいことじゃない。明日の予定だよ」
「明日……ですか?」
榛名はざっと思い出していく。明日は先発登板した翌日なため、榛名は完全オフである。それを利用して涼音と
デートに繰り出すという、関東に遠征へ来たときのいつもの休暇の過ごし方をすることとなっている。
ちなみに、涼音もこのことはちゃんと心得ていて、大学での授業などで都合がつかないとき以外は、前もって予定を
空けて榛名に合わせるようにしている。
「忘れたのか? 明日はデイゲームだから試合を終えたあとに、投手会でメシを食うって話だっただろうが」
「えっ……、そうでしたっけ?」
榛名はそう言われて考え込んでいく。早い話、チームの投手陣で集まって宴会をやろうぜってことなのだが、いつそれが
出てきていたのか。榛名は思い出せなかった。
「あのー、パスって……」
一応、ダメもとでそう切り出してみる。
「ダメに決まってるだろーが。せっかくの昼上がりだから夜遅くまで呑める日だってのに、全員集合じゃないと
盛り上がらないだろ。それにおまえも二十歳になって酒呑めるようになったんだし、明日は覚悟しとけよ」
当然のように、返ってきたのは却下という回答だった。
榛名の肩をぽんと叩いて、先輩投手たちはそのままロッカーを後にしていく。
「断れない、よな……。涼音さんにはなんて言えばいいか……」
榛名一人だけとなって閑散としたロッカールーム。そこは、浮かない顔をした男が漏らす不景気なため息が聞こえてくる
ばかりであった。
都内の某所にあるイタリアンレストラン。雑誌などで取り上げられるような有名店などには及ばないものの、
味もよくて落ち着いた内装による品のいい雰囲気と、こじんまりとした店舗のためによるアットホーム的なところが
受けているとのことらしい。
いわゆる、隠れた名店というやつだ。
榛名は涼音と予定通りに球場近くの駅前にて合流すると、彼女にこの店へと連れてこられて個室の席へと入った。
メニューへと目を通すことはなく――というか、涼音から制されてしまっていた。
「今夜は前もってコース料理を予約しているから、選ばなくていいよ」
「そうなんですか。わかりました」
二人が席に着くなりにすぐ女性店員が持ってきたグラスへと、ミネラルウォーターを注いでいく。一礼して去っていく
ウェイトレスに軽く会釈をして、それを手に持ち合わせて乾杯する。
「今日も大活躍だったね。最近は大崩れすることもなく試合を作れる投手だって評価で、存在感が急上昇している
らしいし……」
にこにこと笑顔が眩しい涼音。榛名も努めてその調子へと合わせて明るく振舞おうとするのだが、例の飲み会のことを
考えてしまい、どうしても表情が曇りがちとなってしまっていた。
(ん、どう話したもんかな……)
「……って、元希聞いてる?」
続々と配膳されてくる料理へと手をつけていきつつも、榛名と涼音は会話を続けていた。しかし、榛名の様子が
どこかしらおかしいことに涼音は気付いたようだ。
「えっ、はい……」
「どこか具合でも悪いの?」
涼音はフォークとナイフをそっと置いて、心配げに榛名の顔を覗き込む。そのままに身を乗り出していき、自らの右手を
榛名の額に、左手は自分の額へともっていく。
「――んっ、熱はないみたいだけど。でも、ちょっと顔が赤いかな?」
「……っ」
それが自分がした行為によってのことなのだということを、涼音はわかっていない。
ふわっといい匂いが漂ってくる。リンスの香りであろうか。それによりにやけつきそうな顔を、榛名は引き締める。
心配してもらっているのに失礼だからだ。
そして慌てて否定の台詞を口にしていく。
「あっ、いや、そうじゃないです。疲れは少しだけありますけど」
「そっか、そうだよね。完投じゃないけど、えっと……136球だったかな。もうだいぶ暑くなってきてるし、
球数も結構多かったから疲れてるよね」
せっかくプロの試合を生で観戦するのだからと、涼音は毎回スコアブックをつけている。榛名は試合後に涼音と
会うときは、その場でそれをもらい、関東以外での登板日だと二、三日遅れで榛名が住む選手寮へと郵送してもらっている。
去年、榛名がプロ入りしてから涼音は家でCS放送と契約して、関東以外でも榛名が投げる日は欠かさずにチェック
している。一年目の昨年は、ほとんどが中継ぎでの登板であったので出番がいつかわからないため、最初から最後まで
観戦していたとのことだが、今年から榛名が先発へと配置転換されたことで楽になったと話していた。
もちろん、球団のスコアラーからもっと詳しく分析したデータ集がもらえる。ではあるものの、二人の明確な絆の証
ともいえるものなので、榛名は専用のファイルを作って大切に保管している。
「やっぱり、たいしたことないです。えっと、その……」
どうしたものかと榛名は悩む。だが、これはどうしても言わなければならないことだ。
(ずるずる明日まで引っ張って、ドタキャンよりはマシだよな?)
「明日のことなんですけど……」
「あっ、うん。明日だよね、元希の誕生会の本番。そうだ、久しぶりにテーマパークにでも行く? つい最近に
新しいアトラクションを始めたってテレビでCMやってて、それかなり面白そうだったよ。学校の友達からも
めちゃくちゃいいって評判を聞いてるんだよねー」
「…………」
とてもご機嫌な様子の涼音に、背中に冷や汗が伝うのを感じる榛名。丸一日オフなのだから、まったりと過ごす
のもいいかと、二人はまだ具体的な計画は立てずにいた。
複雑な思いの榛名とは対照的に、涼音は遊び倒す気満々のようだ。
「えっとですね、実は明日……」
「うん?」
涼音は小首を傾げ、微笑をつけて榛名を見詰めていく。これを目にして榛名は思わずくらりときて、たじろぎそうになる。
しかしながら、今日ばかりは屈するわけにはいかない。
「明日って、うちのチームはデイゲームなんですよ。それで、試合を終えた夕方からは皆オフになるわけで……」
「うん、知ってるよ。元希のチームの日程はチェックしているから」
「単刀直入に言います。明日の予定、キャンセルさせてください」
「……えっ?」
榛名からの台詞に涼音は声を失い絶句してしまっていた。榛名はそのままに頭を下げて詫びていく。
「実は明日、先輩たちとメシを食う約束になっていまして……。個人的な誘いだったら断ろうかとも考えたんですけど、
投手会の一軍メンバーは全員参加ってことになってて……」
「…………」
榛名は下げていた頭を少しだけ上げて、ちらっと上目遣いに彼女の端正な顔へと視線を向ける。
大きな瞳は潤み、今にも決壊して大粒の涙を零しそうな様子だった。榛名は、自分がこれを引き起こしてしまったのか
と思うと、気分が沈みうろたえてしまう。
「そ、そうなんだ、しょ、しょうがないよね……。全員参加ってことなら、仕方ないよね……」
涼音の明らかに憔悴して落胆の色を隠せていないその姿。
榛名は心苦しさを感じていた。ここしばらくの涼音との電話での会話やメールの内容は、今晩の食事のことや、
明日になにをするかといったことばかりだった。
四月と五月は、たまたま榛名の登板日が関東での試合ばかりだったため、思っていたよりも会うことができた。
しかし、榛名と涼音の関係は遠距離恋愛である。普段からそうそう会うことができない不便な関係なのだ。それにより、
榛名と涼音は二人で過ごせる時間は可能な限りひねり出して共にするようにしていた。
だが、さすがに今回ばかりはどうしようもない。アマチュアではもちろんであるが、プロも当然ながらに体育会系
特有の縦社会であるため、先輩からの命令を突っぱねることなど不可能だ。
「…………」
「…………」
俯いて沈黙している涼音。それに付き合う形で榛名も言葉を失ってしまっていた。気まずい空気が個室のなかを
満たしていく。
この空気に耐えかねたのだろうか。先に口を開いたのは榛名であった。
「その、午前中から夕方前までだったら遊べますけど……」
「……いいの?」
榛名は妥協案を提示していた。目に見えて落ち込んで憔悴した涼音の姿を見ていて、そう言わずにはいられなかった
ようだ。
涼音同様に、榛名も彼女との時間を大切にしたいことに変わりはないわけだ。
「オレも涼音さんと一緒にいたいですから」
「あ、ありがと……」
先ほどまでのどんよりとした空気は、いつの間にか霧散してしまっていた。あたたかくそして甘い空気が、それに
変わって室内を満たしていく。
榛名と涼音の視線が絡み合う。ほんの数分前の悲しげな顔から、上気して赤く染まっていくそれへと一変した。榛名は
そっと涼音の頬へと手のひらを寄せ、そっと優しげに撫でていく。
うっとりとした面持ちにて榛名の手を、涼音は自らのもので重ねては包み込んだ。
涼音へと口付けをするべく、向かい側の涼音へと身を乗り出そうとしたところで、
「――お待たせしました。こちらが本日のメインディッシュとなります。ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ
~フィレンツェの気品と矜持~でございます」
二人が気付かないうちに来訪した女性店員が、カートに載せてきたステーキをそれぞれのもとへと配膳していく。
いつの間にかに個室の扉は開けられていたらしい。ノックもなしに入ってくるとは考えられないので、単純に榛名と
涼音が気付かなかっただけということなのだろう。
榛名は慌てて涼音から手を離すと、グラスに入ったミネラルウォーターをあおっていく。涼音は涼音で、彼氏からキス
されそうになっていたさっきよりも顔を赤くしていた。ほんの少しだけぎこちない笑みを浮かべて、ウエイトレスへと頭を
下げていっていた。
「それでは、ごゆっくりどうぞ」
女性店員はそっとドアを閉めて出て行った。カートが遠ざかる音を聞き届けて、榛名は肩の力を抜いて脱力した。
ウエイトレスがくすっと小さく笑っていたのは、はたして榛名の気のせいであっただろうか。
「全然、気付かなかったね」
「はい。焦りましたね」
二人して顔を見合わせて笑いあう。このあとは特に怪しい雰囲気になることはなくて、いつもの調子を取り戻した
涼音と榛名は楽しい夕食のときを過ごしていった。
『今夜はわたしの奢りよ』とのことで、榛名は涼音からご馳走となった。誕生祝だからということらしい。
榛名は家へと帰る涼音を途中まで送るべく、最寄の駅までついていくことにした。駅までの道をのんびりゆっくりと
別れを惜しむようにして歩きながら、榛名と涼音はなんでもない会話を重ねていた。
榛名が明日の予定の変更を願い出たことにより、一時は落ち込んだ様子を見せていた涼音であったが、いつもの元気な
ところを取り戻したらしく、にこやかな笑顔を終始見せていた。
どれだけゆっくり歩いたとしても目的地へとたどり着かないということはない。
週末のために、多くの人でごった返している駅へと二人はついた。
「今夜はご馳走してもらってありがとうございました。本当に美味かったです」
「そう。いろいろと調べてみてあそこにしてみたんだけど、喜んでもらえてよかった」
榛名は手元の腕時計へと目をやり、時間を確認していく。短針・長針ともに頂点まであと僅かのところ――
午後十一時前を指していた。
(このぶんだと門限にはちょっとギリギリだな)
そう思いつつも自然と涼音へとついていき、なんだかんだでホームまで足を運んでしまった榛名。
金曜日、週末ということもあってか、結構な人数が電車がホームへと滑り込んでくるのを今か今かと待ちかねている。
それらのなかには、榛名と涼音と同じ年頃と思われるカップルの姿も多く目に付いた。これから二人きりでの甘い時間
を過ごそうというところであろうか。
榛名はちょっとだけ……いや、正直かなり羨ましく思えてならなかった。しかしながら、涼音を伴ってどこぞのホテル
へと消えるなどという暴挙――無断外泊なんぞをかまそうものなら、厳しいペナルティーが待っているためにできようが
ないのだが。
「……ねえ」
榛名のすぐ傍にて彼へと寄り添っていた涼音が、彼氏の上着の袖をくいくいと引っ張っていた。おそらく、榛名の
門限のことを心配しているのだろうか。
「あっ、はい。そうですね、ターミナルに戻ってタクシー拾って帰ります。それじゃ、また明日」
「そ、そうじゃなくて……」
「はい?」
若干、頬を染めてもじもじとしている涼音は、少し離れたベンチに座っているカップルへとちらちらと視線を送って
いた。
そこでは、涼音と同じ大学生風の男女が口付けを交わしていた。それも濃厚なやつ、唇を重ねるだけでは飽き足らずに
舌を思いっきり絡ませあっているディープなやつをだ。
「…………」
「…………」
(うわっ、こんなとこでするか、普通? 酒でも入ってんのか? もう夜も遅い時間帯だけど、人多いんだぞ……)
呆れてしまうというかなんというか。完全に自分たちの世界へと入ってしまっているその二人と姿を見ていると、
榛名はある意味で感動のような感情を抱いていた。
そのままにかぶりを振って、頬を染めていた赤らみを飛ばした。そして榛名は、わずかばかりのぎこちなさを感じさせる
笑みを浮かべつつ、袖を握ってきている恋人へと向く。
「なんつーか、よくやりますよね。ホームにいるほとんどの人が見てるってのに。……っと、そろそろヤバいな。
涼音さん、それじゃまた明日に」
「…………」
彼氏が別れを告げてきても、彼女は恋人の腕を掴んだまま離そうとしなかった。その姿はなにかを訴えてきている
ようにも見えるものの、門限が気になってきている榛名はそれを察してあげることができずにいた。
「……もう。元希、鈍いよ」
頬を膨らませるのとため息のコンボで不満を露にする涼音。涼音はそのままに上目遣いに榛名を睨んでいく。
もっとも、その怒っている表情でさえも補正の掛かっている榛名の目には可愛く映っていた。
「鈍い、ですか?」
「今に始まったことじゃないけどね。まあ、今大事なことはこれじゃないか。……んっ」
「はい?」
双眸を閉じて踵を上げ、唇を差し出していく涼音。鈍いと怒られてしまった榛名であるが、さすがにここまでされては
涼音がなにを求めてきているのか理解できた。
「んっ!」
「……っ」
なにぶん、頭一つ分はある身長差のために、涼音は手にしていたバッグを後ろ手に持ち直して、彼氏へとキスをねだる。
(やっぱ、可愛いよなぁ……)
榛名は涼音の華奢な肩を掴んで引き寄せ、自らを誘惑してくるそれへと重ねていく。その柔らかい感触にただひたすら
に酔いしれる。
そのままに続けていたい――人がいなければ、榛名もディープなものへと持ち込んでしまったかもしれない。
だが、電車の到着を知らせるアナウンスがスピーカーからホーム全体へと流れてきて、現実へと引き戻されてしまった。
「……ふぅ」
キスを終えて二人はそれぞれに新鮮な空気を吸い込んでいく。都会特有の汚いというか重い空気ではあるものの、
さきほどまでの行為のために清涼感のようなものを感じていた。
「ありがと……きゃっ」
頬を染めて上気させている涼音を榛名は再び抱き寄せた。
風とともに電車がホームへと入ってくる。榛名はそれを横目で確かめて、もう一度、今度はほんの少しばかり強引に唇を
重ねていった。
「んんっ、ちゅっんんっ」
「それじゃあ、また明日ですね。家に着いたら電話してください。待ってますから」
「あっ、うん……」
別れ際に頬を軽く撫でて足早に階段へと向かっていった。駆け下りて階下へと急ぎつつ、手元を確認する。時間が結構
ヤバいことになっていた。
涼音は涼音で、しばらく呆然と榛名が去った階段へと視線を送っていた。
「ホントにスイッチ入るの遅いんだから。もっとぎゅってしてほしかったな……」
そっと唇を指でなぞる。口では文句を言いつつも、その顔色からは明らかに嬉しいという感情が浮かんでいた。
最終更新:2008年03月15日 23:33