7-619-629 ハルスズ(303氏)アルコールと誤解

 夕方五時前。
 榛名と涼音の二人は朝に待ち合わせていた駅まで戻ってきた。これから榛名は先輩たちとの食事会の席へ。涼音は
自宅へと帰ることになる。
 多くの人々で溢れている駅構内。言葉にはしないが、二人の思いは同じだった。
 別れたくない、もっと一緒にいたい、と。
 ジーンズのポケットへと適当にして突っ込んでおいた携帯が着信を知らせてくる。マナーモードに設定していたため、
バイブレーションでのものだった。
 榛名は取り出して開き、確認する。先輩からのものだった。内容はこれからの食事会の細かいことと、今日の試合は
終盤に逆転して連勝を飾ったことなどが書かれていた。
 軽く嘆息する。行かなければならない。
 「今日は楽しかったです」
 「うん。わたしもだよ」
 視線が重なる。涼音からのものが痛い。行かないで――。口にして言葉にこそしていないが、そう言いたいということが
はっきりと手に取るようにわかる。
 「夜に、何時になるかわからないけど、電話してもいいですか?」
 「えっ……、いいの?」
 「はい。涼音さんがよければですけど」
 涼音は榛名との距離を詰めて抱きついていった。そして逞しい胸板へと頬を寄せていく。
 「わかった。待ってるから。絶対してね?」
 ぎゅっと抱擁を交わしていく。時折、足を止めて見てくる人もいたが、そんなことは関係なかった。

 こうしていつもよりも早いデートを切り上げて、榛名は次の目的地へと向かっていった。正に後ろ髪を引かれる思い
ということを体感しながらも。


 チームの投手陣で贔屓にしている行きつけの店……ではなく、メールで指定されてきた場所は、洒落た雰囲気が漂い
洗練された品が感じられる。そんな店だった。
 榛名は店に入り応対してきた店員へと告げると、丁寧な物腰のその人から奥の座敷席へと案内された。靴を脱いで
扉を開ける。そこには既に先輩投手たちが勢ぞろいしていた。
 二時間前に試合が終わったばかりなのに、いつもはゲームを終えるとのんびりしている人まで来ている。最後に到着した
榛名は、そのことを詫びて末席へと座る。
 いつものラフな格好ではなく、どことなく気合の入った服装に見える先輩が多いのは気のせいだろうか。それも独身の
人だけ。既婚の投手はどこか困惑気味に見えるのはなぜなのだろうか。
 続いて気付いたのは、席が半分以上空いているということだった。榛名を含めてこの場に来ている投手会の面子は全員で
十四人。この倍以上の席がまだある。グラスも箸もおしぼりも置いてある。空席というわけではないようだ。
 (うちの野手陣が来るのか? それともよその球団の人が来るのか?)
 榛名は、隣の席に腰を下ろしている今夜の飲み会の幹事を務める先輩へと声を掛けようとした。したところで――。
 扉が開いた。そこには涼音と同じ年頃の若い女の子たちがいた。それぞれ満面の笑みを浮かべつつ、遅れてきてしまった
ことを口々に詫びていきながら彼女らは空いている席へとついていった。
 (まさか……)
 さっと顔を青くした榛名は、テーブルへと置いていた携帯とキシリトールガムを上着のポケットへと突っ込んで立ち上が
った。
 いや、正確には立ち上がろうとした。
 「……どこへ行く気だ?」
 隣にいる幹事の先輩より左腕をがしっと掴まれてしまった。。
 「そ、その……、宿舎に忘れ物を」

 「おまえ目当てで来てる子も結構いるんだからな。絶対に逃がさないぜ」
 顔は笑っているのだが目が笑っていない。その勢いに呑まれて腰を下ろしてしまった。
 「ちょっ、これなんなんスか!? 飲み会って話で……」
 「ああ、飲み会だよ。合コンという名のな。現役女子大生との合コン! セッティングに苦労したぜ。一ヶ月前から準備
 していてな。もう皆して食いついてくるし、二軍の連中も羨ましがってて」
 そのまま話を続けていく先輩の口から状況が少しずつ確認できてくる。
 「…………」
 榛名はようやく理解した。自分はこの合コンを開くためのダシに使われた挙句に、騙されてのこのこと来てしまった。
既婚の先輩たちも榛名と同じようにして騙されていたのだろう。
 そうでないと、このテンションの違いに説明がつかない。既婚の先輩と同じように、榛名のテンションも恐ろしく低い。
 昼間に、涼音へとこういう裏切る行為はしないと誓ったばかりなのに。それなのに、数時間後にはこういう場へと図らず
ながらも来てしまった。
 「お、オレは……」
 「なに、彼女には黙っておけば大丈夫だろ。ただ酒を呑むだけ。これなら浮気にはならないだろ? つーか、今から
 帰るなんて言い出して場を白けさせるようなバカな真似はするなよ……?」
 「…………」
 榛名の肩をぽんと叩いてその先輩は席を立つ。視線を感じる。顔を上げて確かめる。そこには気味が悪いまでの笑顔を
した女子大生たちが榛名を見詰めていた。
 背中には冷や汗が伝い、顔面は蒼白になっていくのを榛名は自覚した。


 一方、涼音は自宅へと帰るべく車を走らせていた。笑顔でカーオーディオから流れてくるお気に入りのアーティストの曲へ
と合わせて歌っている。
 機嫌は良いようだ。それも随分。
 本当なら今日のデートはキャンセルのはずだった。だが、大好きな彼氏は時間を作ってくれて一緒に遊んでくれた。それに
榛名の気持ちを再確認することもできた。これにより涼音の心は大いに満たされていた。
 「~~♪ ~~♪♪ ~~♪♪♪ ……ん?」
 助手席に置いてある携帯が着信を告げてきた。メールではなくて電話のほうだった。それに出るべく、ウィンカーを出して
路肩へと寄せて一時停止。続いてハザードランプを点灯させた。
 開いて確認する。相手は大学のクラスメイトだった。取り立ててなにも感想を持つことはなく、通話ボタンを押して耳へと
当てる。
 『……あっ、涼音?』
 「うん。どうしたの?」
 『いやね、涼音にいい話があってさ。ぶっちゃけると合コンのお誘いなんだけど』
 心のなかで涼音は嘆息を漏らす。この友人は断っても断っても諦めることなくこういう話を持ちかけてくる。
 合コン。大学に入りたてのころに一度だけ行ってみたことがある。話に聞いていたその世界どんなものだろうと、興味本位
でのことだった。しかし、想像を絶した場であった。
 男たちのギラギラとした下心を隠しきれていない視線。特に自分の胸へとそれが注がれていくのを強く感じた。さりげなさ
を装いつつ、こちらが距離をとっても擦り寄ってくる。挙句の果てには、肩を抱いてこようとさえしてくる。
 嫌悪感が胸に充満して、途中で退席をした。それなのに心配だから送るよと、あからさまに嘘だとわかる台詞を吐いて
ついてこようとしてくる。
 結果的になんとか撒くことができて事なきを得たのだが、この一件で完全に懲りてしまった。自分には合わないと。
 そういうことだと割り切って楽しむのもありだと思うし、真面目に出会いを求めて来ている人間もいるのかもしれない。
 でも、自分の肌には合わない。この件以来、毎回誘いを受けても理由をつけて断るようにしている。
 『……ねえ、涼音。聞いてる?』
 「……あっ、うん。悪いけど……」
 そして涼音は、榛名と付き合うようになってからの断り文句である『彼氏がいるから行かない』と告げようとしたのだが。
 『だからね、今日の相手はすごいんだって。プロ野球選手だよ、プロ野球選手! 上手くやってけば玉の輿も夢じゃない
 んだから!』
 テンションが一気に最高潮へと上がった友人。それに対して涼音は、いつか痛い目にあってからじゃ遅いのにと思う。
 『それも、涼音がファンのチームの人たちなんだよ』
 「……えっ?」
 意識せずに眉間に皺が寄っていく。以前の涼音は地元の球団を応援していた。しかし榛名が、彼が所属する球団に指名
されてからはそこへと鞍替えをした。

 『ほら、今売り出し中で評判のイケメンエースも来てるんだよ。えっと、なんて言ったかな……左投手のは、は……』
 「榛名、元希……?」
 『そうそう、ハルナさん! もう一番人気ですごいんだって。それに今日は相手方の奢り……』
 「ねえ、その合コン……どこでやってるの?」
 『おっ、お堅い涼音もその気になった?』
 「――いいから早く教えなさい」
 冷淡な涼音の声を聞いて友人はそれに恐れつつも、会場である店の住所をメールで送ると話した。電話を切ってほどなく
して、そのメールが届いた。
 さっとチェックすると、来た道を引き返すことにする。
 なにかの冗談だ。きっと友人が勘違いしているだけなのだ。榛名は先輩たちと呑んでいるはずだと言い聞かせながらに、
涼音は車をさっきよりも速いスピードで走らせていった。

 件の店に着くと出迎えてくれた友人から案内されて奥の座敷席へと向かった。お手洗いに行ってくるからと言い、友人に
先にそこへと入らせた。
 (そんなはずないよね? うん、いるはずがないよ。だってお昼に約束してくれたもん。浮気はしないって……)
 扉をほんの少しだけ開けて室内を見る。榛名がいないことを祈って、胸の動悸が激しくなるのを感じながら。
 「……ぁっ」
 宴席のなかに涼音の彼氏はいた。それも顔を紅潮させて両脇に女子大生を侍らせて――。

 どうやって家に帰ってきたのか、涼音は思い出せない。気付いたら自分の部屋でベッドに上がって天井を見詰めていた。
 「なにかの間違いだよね、うん……わたしの見間違いかな……」
 力なく呟く。涼音の視力は小さい頃から少しも落ちたことはない。両目ともに2.0だ。だから見間違いなどではない。
 それに、彼氏の姿を見間違えるわけがない。
 わたしたちは付き合っているのではなかったか。
 わたしは榛名元希の彼女ではないのか。
 わたしは、なんなのだろう? 彼女ではないのか。もしかして、彼が付き合っている大勢の女のなかの一人なのか?
 一人目の彼女? それとも二人目の彼女? 三人目の彼女? それともそれとも……。
 「そうだ。今夜、電話してくれるって……。なにかの間違いだったんだよ。ううん。もし浮気でも正直に話してくれれば、
 一回だけなら……」
 ようやく室内灯を点して部屋が明るくなった。身体を起こして携帯を持つと、涼音は榛名からの電話を待った。

 しかし、夜中になっても日付が変わっても明け方近くになっても、携帯が着信メロディーを奏でることはなかった。


 初めての飲酒は散々なものに終わった。群がってくる女子大生を相手にするにはアルコールの力を借りるしかなく、
結果的に過剰に摂取したことにより、強烈な二日酔い特有の頭痛を感じての目覚めであった。
 日付が変わる前に先輩に肩を貸してもらって宿舎の部屋へと戻ると、ベッドにダウン。そして、すさまじい痛みを
感じて飛び起きたのが先ほどのことだった。
 痛む頭を抱えて階下のレストランに行くと、居合わせたマネージャーに呼び止められた。榛名が理由を話すと、ため息
ながらに二日酔いの薬を差し出してくれた。
 これを服用してどうにかマシになってきたと思う。それでも頭は断続的に痛むし、胃がムカムカしてきて食事を受け付け
ることを拒否してくる。
 だが、朝食は大事だ。それに、今日から練習は再開となっており次回の登板日に備えなければならない。箸を苦労して
つけていき、なんとか食事を進めていった。

 練習に出てきた顔色が悪い榛名に気付いた上司――投手コーチは、呆れつつも酒を呑みすぎた翌日はとにかく走り込むこと。
そうすればアルコールは抜けると助言してくれた。
 その言葉に榛名は素直に従って、球場近くにある陸上競技場のトラックで普段の倍となる距離を精力的に走り込んだ。
 それが終わると、いつもは打撃投手をしている裏方さん相手に遠投をしていく。フォームを意識しながらのものだ。
 仕上げに短距離ダッシュ――三十メートルダッシュを三十本こなして、陸上トレは終了となった。
 そして仕上げに室内練習場でウエートトレを軽く行う。
 全てを終えると昼が近くなっていた。ほんの少しだが二日酔いもマシになってきたように思う。

 榛名は宿舎に帰ると大浴場へと行き汗を流して部屋へと戻った。ベッドに腰掛けて寝そべっていく。
 「酒ってきついな……。でもこれからも付き合わされるだろうし、どうなるんだよ。オレ……」
 睡眠不足であったため、瞼が重くなってくるのを感じる。昼食はパスして昼寝でもしようかと考えていく。やがてほど
なくして訪れてきた心地よい眠気へと身を委ねようとしたところ。
 「ん……電話か?」
 脇に放っておかれていた携帯が着信を知らせてきた。専用のメロディーのため、相手が誰だかすぐにわかった。
 涼音だ。
 そういえば、昨晩は電話をすると言っていたのにしなかった。そのことを謝らなければと思いつつ、榛名は電話へと出る。
 『…………』
 「もしもし、涼音さん? 昨夜はすみませんでした。宿舎に戻るとそのまま寝ちゃって……」
 『…………』
 先手必勝と謝罪の言葉を舌に乗せていったのだが、涼音から反応はない。
 「涼音さん?」
 『……ねえ。昨夜はどこに行っていたの?』
 それは感情のない、抑揚がない言葉だった。思わず榛名は戸惑ってしまう。
 榛名は一瞬迷った。迷った。迷ってごまかすことにした。合コンに行っていましたなどと馬鹿正直に言えるはずがない
のだから。
 「先輩たちと呑んでましたよ。昨日話したましたよね? 酒は呑んでも呑まれるなって話が身に染みてますよ。
 今、二日酔いでスゲーきついです」
 『……そう。ねえ、本当に先輩たちと呑みに行っていたの?』
 「えっ、はい」
 『……き』
 聞き取れなかった榛名は、携帯を耳から離して電波を確認した。ここは都心にあるホテルだ。当然ながら三本とも
しっかりと立っている。
 「涼音さん。今なんて」
 『嘘つきって言ったのよ……ッ! ねえ、なんで嘘つくの? どうして嘘をつくの?』
 「……えっ」
 言葉にならなかった。涼音が合コンに行っていたことを知っている。状況はまだ把握しきれないが、これは間違いない。
 『わたし、知ってるんだから。昨夜に元希たちが女子大生と合コンやってたってことを。ねえ、わたしは元希の彼女
 じゃなかったの? わたしたちは付き合っているんじゃなかったの?』
 「…………」
 なにを話せばいいのかわからなくて、榛名は言葉に詰まってしまっていた。それが涼音の神経を逆撫でていく。
 『そういえば、電話してくれなかったよね。元希から約束してくれたのに……』
 「そ、それは宿舎で寝てて……。本当に」
 『それも嘘なんでしょ? 女の子たちの誰かをお持ち帰りってやつをして、いやらしいことしていたんじゃないの?
 一人? それとも二人相手に?」
 「一人で宿舎で寝てました……。本当です!」
 『最低だよ、元希。わたし、信じてたのに。離れていてもずっと仲良くやっていけるって思ってたのに。昨日のお昼に
 浮気しないでって言って約束してくれたのに。それなのに、わたしを裏切るの? ほんのちょっとだけしか時間は経って
 いないのに。ああ、そう。そうなんだ。わかったよ。わたしは元希にとって都合のいい女ってことなんだね……』

「えっ……」
 『こっちに戻ってきたときのセックスフレンドってやつ? それも、大勢いるなかの一人にしか過ぎないってこと
 なんでしょ? わたしは真剣に付き合っていると思っていたけど、心のなかでは笑ってバカにしてたんでしょ? 
 セフレのくせにって』
 「…………」
 取り返しのつかないことになってしまった。ベッドから飛び降りて、床へと額を擦りつけて土下座をして許しを請う。
 「すみませんでした! 確かに昨夜は合コンに行ってました。でも、涼音さんの言うようなことはなにも……」
 『遅い、遅いよ……元希。嘘をつかないで最初からちゃんと正直に話してくれれば、水に流してあげるつもりだった
 のにね……。平気で嘘をついて裏切るような人は、わたしはもう信じられない」
 「すずね、さん……」
 『わたしのことは、もういいでしょ? 昨日の合コンで新しいセックスフレンドができたんじゃないの? わたしは、
 もうそういうことはしたくない。身体だけを目当てにされる――弄ばれるだけの付き合いなんてできない』
 「だから、それは……っ」
 『わたしはもう騙されないから。さようなら……』
 そして、電話は切れてしまった。
 さっさとリダイヤルして釈明しなければならない。いや、涼音の家に出向いて土下座でもなんでもして許しを請わな
ければならない。
 だけれども、なにがなんだかわからなくなってしまっていた。
 榛名はふと窓へと目を向ける。昨日までの快晴はまるでなかったかのようにして、激しい土砂降りの雨粒がアスファルト
へとぶつかっていっていた。

 突然の大雨。それは榛名の今の心情を表現しているかのようでもあった。
最終更新:2008年03月15日 23:43