8-48-54 ハルスズ(303氏)アルコールと誤解4
涼音からの最後の電話をもらって十日後の夜――。
榛名は本拠地の町にある選手寮の自室にいた。なにをするということもなく、ベッドに寝そべって怠惰な時間を過ごし
ている。
割り切らなければならない。榛名はそう自分へと言い聞かせてマウンドに上った。ところが結果は。
一回すらもたずの七失点で屈辱的なノックアウト。自分が惨めで情けなくて、なにをする気にもなれずにいた。
あれから涼音からはなにもない。本当ならできることなら、すぐにでも涼音のもとへと出向いて誤解を解かねばならな
かった。だが、榛名はもう社会人の一人であるのだから、職場放棄などできようはずがなかった。
本拠地のある町へと戻ってきて地元での登板で、先月までとはまるで人が変わったようにして失態を演じてしまい、
ファンからも痛烈な野次をもらってしまった。
それなら電話をすればいいとなるのだが。しかし、また涼音をあの日と同じようにして泣かせてしまうのではないかと
考えてしまい、どうしてもできなかった。
それに今度こそ完全に拒絶されでもしたら……。切り替えなければならない。それに次の登板はすぐそこまでやってき
ている。だが、涼音とのことがやはり気になってしまう。
同じような思考が延々とループしていき、榛名は完全に行き詰ってしまっていた。
「っ!? ……ふぅ」
枕元に置いてある携帯が着信を告げてくる。一瞬、涼音からかと思ったものの、それなら専用の着信メロディーが鳴り
響くはずだ。今かしましく音を立てているのは通常のものだった。
ディスプレイを見て相手を確認した。
秋丸恭平だ。榛名とバッテリーを組んで武蔵野第一の甲子園初出場に大きく貢献した秋丸は、現在、地元である埼玉の
私立大学へと進学して、そこでも野球部に所属している。
今でも二人は連絡を取り合って、お互いの近況報告などをしている。
先日は、今年の春のリーグ戦からレギュラー捕手として、マスクを被ることになったという話を聞いたんだったと榛名
は思い出した。
榛名は耳に当てて通話ボタンを押して電話に出た。
「おお、秋丸かよ」
『うん。久しぶり』
「悪い。今のオレ、あまり話したい気分じゃないんだ。また今度オレから……」
『待てよ。大事な話なんだ。それに切ると絶対後悔するぞ』
いつもの穏やかな話ぶりとは違い、どこか緊張感を漂わせてきていた。榛名は怪訝に思いながら上体を起こして、ベッ
ドの上であぐらをかいた。
『おまえさ、なにしたの? 宮下先輩から相談に乗ってほしいって電話がきて、今日会って喫茶店で話を聞くことに
なったんだ。だけど、先輩は店で突然泣き出しちゃって……』
「えっ」
『結局、まともに話できなくて相談に乗ってあげることはできなかった。オレに持ちかけてくるような話だったら、
おまえ絡みのやつしかないだろ? なにをしでかしたのか正直に話せ』
「泣いてた……のか。悪い。長くなるけど、聞いてくれるか? オレもどうすればいいのかわからなくなってて」
秋丸から了承をもらって榛名は、涼音の涙の原因――あの日のことを包み隠さず正直に打ち明けていった。
『……つまり、合コンにおまえが行ったってのは事実で、先輩もそれを知ってる。で、おまえはその日の昼に交わした
約束のことが頭にあって、とっさに嘘をついてしまった。だけど、先輩が疑っているようなことは一切なかった。
これでいいのか?』
秋丸からの確認に短く肯定を返した。電話口からは、うーんとなにごとかを考えているらしく、うなり声が聞こえて
きた。
『榛名、おまえはどうしたいの? 宮下先輩のことはもうどうでもよくなったのか?』
「いいわけねーだろ……ッ!? ずっとずっと片思いやってて、やっと振り向いてくれた人なんだぞ……。すぐにで
も埼玉に帰って涼音さんに会って謝って許してほしいよ。だけど、試合があるから。それはできねーんだよ……」
『だよな。おまえって先輩にベタ惚れだったもんな。あっ、今でもか。オレはおまえの言うことを信じるよ』
「えっ」
『おまえが何人もの女の子と同時に付き合っているってのはさ、どう考えても無理があるからな。だって、おまえは
宮下先輩が初めてできた彼女で、そういう経験に乏しい。それに、おまえが初対面の女の子といきなり親しくできる
はずがない。せいぜい困惑気味のぎこちない笑顔作って、たどたどしく相槌をうてるぐらいだ』
「…………」
悔しいが言い返せなかった。あの合コンでの榛名の行動を見事なまでに言い当ててきているからだ。それも酒の力を
借りて、なんとか合わせることができたという体たらくぶりだったのだから。
『まあ、おまえの性格をわかってるつもりだから、こんなこと言えるんだけどな。そんな器用な人間じゃないもんな、
おまえって。ぶっきらぼうで言葉足らずになって誤解されてしまって、なんとかしようとしても空回っちまって更に
ややこしいことにしてしまう。そういう不器用な人間だもんな』
「……うるせーよ」
いつもなら強く反発していただろう秋丸の言葉。けれども、やはり親友は自分のことを理解してくれていた。それが
素直に嬉しかった。
『オレが思ったことなんだけど、宮下先輩もおまえのことがまだ好きなんだよ、たぶん。じゃないと、誰かに相談し
ようとかは考えないだろうからな。おまえのことが好きだけど、でも、おまえのことがわからなくなっちゃってさ。
それでも、やっぱり好きなんだろうな。おまえのことを考えると、人前でも突然泣き出しちゃうほどにさ』
「…………」
『わかったよ。オレがフォローしとく。この電話切ったら、先輩にメール……じゃないな。電話するわ。それで誤解
なんだってことを説明してみるよ』
「マジか!?」
『正直な話、おまえらには幸せになってほしいから。おまえってプロに入ったら変わるかと思ったけど、なにも変わ
らずに先輩のことを大事にし続けてきてさ。もう二年近くも上手くいってたわけだろ。それなのに、こんなつまらな
いことなんかで終わってほしくないからな。
それに、オレはおまえらの恋のキューピッドだし、最後まで面倒見るよ』
榛名と涼音が付き合うきっかけとなったメールのことを、榛名に教えたのは秋丸だった。このことがなければ、二人
は付き合うことがなかったかもしれない。
そのことを思い出して榛名は心のなかで感謝しつつも、軽口を叩く。気の置けない友人にだからこそできることだっ
た。
『ぶっちゃけ、おまえが女子アナやタレントとかとくっ付くのはムカつくしなー』
「そんな出会いはねーよ。うちは露出が少ないからな。それに」
『涼音さん以外は興味ない、だろ?』
「…………」
無言の榛名の反応を受けて、電話の向こう側の秋丸は遠慮なく爆笑しているらしかった。自分の予想通りであったの
で、それもそのまますぎだったのがツボに入ってしまったようだ。
『……さてと。じゃあ、これから先輩に電話してみるわ。それじゃ』
「あっ、待てって!」
『わかってる。話が終わり次第おまえには、そうだな。もう夜も遅いからメールにするわ。それじゃ、切るな』
回線が遮断されたことで、榛名は携帯を閉じて親友からの報告を待つことにした。
それも真剣な表情を作って。そして、なぜか正座で。
約一時間後。秋丸からのメールが榛名のもとへと到着した。そろそろ消灯時間が迫りつつあったため、非常に落ち着き
なくそわそわしていた榛名は、すぐさまに確認をした。
メールの内容は、
『宮下先輩にちゃんと話した。完全に納得してくれたってわけじゃないみたいだけど。もう少し自分で頭のなかを整理
して考えてみるって話だ。
ここからオレの提案なんだけど、おまえは先輩にしばらくの間電話するな。お互いに冷却期間を作ったほうがいいと
思うから。それにうかつに先輩を刺激して泥沼ってことにもなりかねないだろうし。女の子の嫉妬って怖いからな。
一日に一通だけメールを送ることにしろ、っていうかそれで我慢しろ。返事はないかもしれないけど、誠意を持って
接してればわかってくれるよ。きっとな。
まあ、仕事も恋も頑張れ』
メールを読み終わると、遠い地元にいる友人へと榛名は深く感謝した。短いお礼の返信を送って眠りについていった。
六月も終わり、七月に入った。
プロ野球はオールスター戦を間近に控えるこの時期。前半戦の山場となる頃合である。このあたりになると、そろそろ
優勝戦線に踏み止まれるチームと、それから脱落して下位に甘んじてしまうチームとに分かれていく。
そんな時期である。
榛名元希が所属する球団は、今年も後者のほうであった。残念ながら。それでも球場へと応援に来てくれるファンがい
る限りは、勝利と少しでも上の順位を目指して戦い続けるのがプロというもの。
梅雨の晴れ間ということもあり、榛名のチームは本拠地の球場にて、久々に顔を出した太陽の下で練習を行っていた。
優勝は絶望的だというのに、それでも思いのほかに明るい。威勢の良い若手が、積極的に声を出して盛り上げているか
らであった。首脳陣が我慢に我慢を重ねて起用してきた若手選手たちが、ぽつぽつと結果を出し始めてきた。
それによりチームが、少しずつ少しずつと明るい方向へと進みだしているのを誰もが感じ取っていた。
榛名は他の先輩投手たちと、野手陣との合同で投内連携をこなしている。
榛名の成績は相変わらずであった。あの一件以来、未だに勝ち星はついていない。それにより白星は黒星に並ばれてし
まい、とうとう黒星先行となり借金を背負うことになってしまった。
それによりマスコミの論調は厳しいものへとシフトしつつあるのだが、首脳陣の評価は変わっていなかった。もともと
今年は、経験を積ませるという方針で先発ローテーションへと抜擢をした。それは、近い将来に投手陣の柱へと成長させ
るためにという意味合いでの起用である。
だから、我慢をする。
例え結果が出なくてもだ。勝てない日というもの。それはスランプということでもある。自分の力で乗り越えていくし
かないことなので、榛名が聞いてこない限りは必要最小限のアドバイスを送るぐらいに留められていた。
もっとも、降板直後と試合後での説教……もとい、ミーティングの時間は確実に伸びているようであったのだが。
六月当初の大乱調は酷すぎたものの、榛名が投げる試合は全部が全部ダメだったというわけではない。榛名が抑えた
ときは、後続の救援陣が打ち込まれてリリーフに失敗して榛名の白星を消すという試合もあった。
エースを張る先輩からは、
『ツキがないときってのは突然やってくるもんだ。どれだけ我慢強く辛抱してやっていけるかがカギだぞ。頑張れ』
と、励まされたりして、以前と比べて精神的にもかなり楽になっている。
一塁手から送られてきたボールを、ベースカバーに入った榛名がキャッチして一塁ベース踏み、打者走者はアウト。
夏の太陽に照らされた榛名の表情は明るいものだった。これには理由がある。
オールスター戦での休みを利用して地元へと帰る。それで涼音に会って謝る。ダメだったらもう諦めよう。諦められな
いかもしれない。そう簡単に忘れることはできないだろう。
だが、前に進まないといけない。いつまでもチームに迷惑を掛けるわけにはいかない。
ずっと涼音からの連絡はないから、もうダメになっているのかもしれない。それならそれでいい。とにかく、直接会っ
て話して決着をつける。
一ヶ月と少しの間に渡って悩み、苦しみ、そして悪戦苦闘してきた榛名が出した答えがそれだった。
覚悟を決めて一皮剥けた男の姿がそこにはあった。
「ヘイヘイ! そこでミスしてたらまた勝てねーぞ!?」
「高校生じゃねーんだから、しっかりしやがれ」
「ピッチャー、今日もお粗末だねぇ」
「……はぁ」
送られてきたボールをグラブの土手に当てて弾いてしまい、落球した榛名に対しての先輩たちから飛んでくる野次と
上司の嘆息。榛名は今日も弄られ役であった。
七月も中旬となって、宮下涼音の通う大学では前期試験が迫りつつあった。
夕方になって涼音は散歩に行くことにした。目的地は近所の公園なため財布は持たずに、携帯電話だけをジーンズの
ポケットに入れて自宅を出た。
暑さも随分と厳しくなってきて、正に夏本番という日が続いていた。先ほどまで降っていた夕立のおかげもあってか、
今に限ってはそこまで暑さは感じられなかった。
五分ほど歩いただろうか。目的地の児童公園へと到着した。小さいころによく遊んでいた場所で、大きくなってきて
からは考え事をしたくなったときに度々訪れている。
また、ここは榛名から告白されたところでもあり、涼音にとっては大切な思い出の場所である。
近頃は毎日ここへ通っている。それは涼音が思い悩んでいるから。
涼音は敷地内をそのまま進み、少々錆びてきてしまっているブランコのところで足を止めた。
手にしていたハンドタオルで座るところを拭いて、夕立の雨水を取り除いてから腰を下ろしていった。
家を出てきてからというものの、暗い表情のままである涼音。
来週から始まる試験が憂鬱だから――というわけではない。大学の講義は毎回休まずに出席しているし、帰宅したら
復習をちゃんとしている。それに、一年時、二年時と成績優秀者として表彰されていることもあり、涼音は今時珍しい
真面目な学生であった。このぶんだったら、三年生つまりは今年で卒業単位を満たすことが可能だろう。
そういうわけで、学校関係のことで悩んでいるのではない。
「はあ……」
ポケットから携帯電話を取り出して開いて、ディスプレイへとじっと見入っていた涼音はため息を漏らした。
涼音の肩を抱いて照れくさそうにしつつも、笑っている榛名元希の写真がそこを飾っていた。
あの日――涼音が嫉妬心と怒りに囚われて榛名を罵った日。榛名から裏切られたとそう解釈をした涼音は、電話を切
ったあと、自室のベッドの上で泣き暮れていた。
それからしばらくの間の涼音は、正直なにも手につかないというような状態であった。大学に行っては、違う講義の
教科書とレジメを持ってきてしまったり、アルバイト先では以前なら考えられないようなミスを連発してしまう。
それも全て榛名が悪いのだと責任を転嫁した。それと同時に、どうしても榛名のことを考えてしまう自分がいることに
気付いた。
涼音は自分がわからなくなりはじめていた。
そしてやってきた榛名の登板日。
どうしようかと思い迷ったものの、涼音は今までと同じようにして、スコアブックを持ってきてリビングのテレビへと
向かい、試合を観戦することにした。
涼音が目にしたのは、早々に打ち込まれしまって一回すらも投げきることができずに、強制的にマウンドから降ろされ
てしまった榛名の姿であった。
最初から違和感のようなものがあった。いつも不敵な面構えで傲慢にさえ見える強気な投球を展開するはずの榛名が、
そこにはいない。顔色悪く、自信なさげなその様子。対戦チームからあっという間に飲み込まれてしまい、初回すら投げ
きることができずにベンチへと引っ込められてしまった。
なにかが、おかしい。そう、なにかが。
言葉では上手く表現できないが、涼音の胸のなかでは得体の知れない感覚が生じてきていた。
悩みに悩んだ末に涼音は、後輩にして榛名の親友である秋丸恭平に連絡を取って、相談をしてみることにした。
その席で泣き出してしまったことは、涼音本人も予想外のことであった。それと同時に思い至ることができた。
やっぱり榛名が好きなんだ。現実はやはり、あのときに涼音が榛名に向けて罵倒した言葉通りのことなのかもしれない。
けれども、この二年近く一緒に過ごしてきたときのことを頭に回想していくと、そうでないのではと思う。
でも、やっぱり自分は弄ばれていただけなのかもしれない。
思考がぐるぐると堂々巡りをしてしまい、そして人前で突然泣き出してしまったのだ。
その日の夜に秋丸からもたらされた電話によって、事態が少しずつわかりはじめてきた。だが、榛名に言い含められた
秋丸がそのようにしてきただけなのかもしれない。涼音は自分でもそんなことを考えるなんてイヤな女だと思うが、どう
しても一度芽生えた不信感を、そう簡単に拭い去ることはできなかった。
更に数日後。涼音は大学であの合コンに誘ってきた友人を捕まえて、あの夜の詳細を聞くことにした。
わかったことは、はっきりしたことは単純に一つ。榛名は涼音を裏切っていなかったということだった。
先輩投手に半ば騙されるようにしてその場へと来てしまったこと。携帯電話の番号とメールアドレスの交換を女の子た
ちから持ちかけられても、
『ここにオレが来たのは、ただの人数合わせのためなんです。それに、オレにはもう高校生のころから真剣に付き合っ
ている人がいるんです。その人に悪いですから、すみません』
聞かれるたびにこうやって丁寧に断っていたらしい。
飲み会の途中からは、同じようにして居心地悪そうにしていた既婚の先輩たちのグループと一緒にいたとのことだった。
それも野球のディープな話題を重ねて、女子大生たちが入っていきにくいような空気を作っていたそうだ。
あまり多く話しかけられないようにということだったのだろう。
これらのことを知って安堵した。そして愕然とした。
榛名は誠実だった。だが、それに対して涼音はなにをしたのか。目先のことに囚われて嫉妬と憤りにとりつかれて、口
汚い言葉を連発して一方的に罵り倒してしまった。
確かに榛名は涼音に対して嘘をついてしまった。だが、これは情状酌量の余地があると解するべきだろう。昼間に約束
していたということもあるし、それにバカ正直に合コンに行ってました……などと告げられるはずがない。
顔を赤くしてデレデレしているように涼音には見えたが、よくよく考えてみれば、榛名は初めての飲酒なのだから適量
というものがわからなくて当然。単純に呑みすぎてしまったのだろう。それに顔に出やすいタイプなのかもしれない。
涼音は自分が榛名にとって、初めてできた彼女だという話を榛名本人から聞かされていた。それなら、女の扱いには慣
れていないと考えて間違いない。
そのような男が、とっかえひっかえての女遊びができるだろうか。答えは否だ。
自分が浅はかだった。
勝手に誤解して酷いことを言ってしまって。榛名よりも年上なのに、なぜ浅慮になって釈明を聞いてあげることもし
なかったのか。
あとに残ったのは、強烈な後悔の念ばかりであった。
「わたし、すごいバカだ……」
ひっそりと静まり返った公園で涼音が呟いていく。
「わたしが誤解して、酷いこと言っちゃって。なんとかしなきゃって考えても、今更どの面下げて寄りを戻してほし
いって言えないよって思って……臆病になってなにもできなくて。もう、メールももらえなくなっちゃった……」
一日一通だけ送信されてきていた榛名からのメール。それはいつの間にか涼音のもとへと届かなくなっていた。
じっと見詰めていた液晶画面がぼやけてきた。涼音の瞳に涙がじわっと浮かび上がってきたからだった。
「もう、イヤになっちゃったんだよね。こんな嫉妬深くて人の話を聞かないヒステリックな女は面倒だって、イヤに
なっちゃったんだよね……。ごめん、ごめんなさい……。でも、やっぱり好き……大好きなの」
涙腺が決壊し、熱い雫が携帯ディスプレイへと落ちていった。
自分以外に誰もいない公園で、遠い地にいる榛名へと許しを請うために懺悔の台詞を吐いて、そして嗚咽を漏らす。
それが涼音の日課となってしまったことであった。
「……っ!」
すぐ近くから足音が聞こえてきた。涼音は、握り締めていたハンドタオルでさっと目元を拭った。一人で泣いている
――痛いやつだと思われるのはイヤだからだ。
「隣、いいですか?」
(……えっ?)
涼音は自分の耳を疑っていた。それは聞き慣れた声だが、最近はそれを聞くことができなくて。夢にしか出てきてく
れなくなっていた人物のものだった。
涼音の返事を待たず、声を掛けてきた男は隣のブランコに座っていった。恐る恐るながら視線を上げて様子を窺って
いく。そこにはよく日に焼けた涼音の彼氏がいた。
「えっと、お久しぶりです」
「は、はい。お久しぶりです」
なぜか敬語で返してしまった涼音。その反応を受けて榛名はやや面食らったような顔を見せたものの、穏やかな表情
を依然として保っていた。
「話、聞いてもらえますか?」
「は、はい」
「あのときのオレは、確かに涼音さんに嘘をついてました。でも、疑われるようなことは一切していませんし、した
こともありません。だけど、嘘をついたのは事実です。すみませんでした」
ボストンバッグを肩に掛けた榛名は立ち上がって、涼音へとすっと頭を下げていった。実に十秒近くもそうしていた
榛名は、顔を上げると更に真剣な表情を作って切り出した。
「もう一回チャンスもらえませんか? その、オレとやり直してもらえませんか? やっぱりオレ、涼音さんが好き
なんです。もし、涼音さんがオレのことを本当にイヤになったんなら、諦めます。簡単には諦められないと思うけど、
諦めるようにします。ダメ、ですか……?」
「…………」
声にならなかった。榛名がやってきて復縁しようと言ってきてくれている。あんなに酷い態度を取ってしまったのに。
それでもやり直そうと手を差し伸べてきてくれた。
涼音が立ち上がったことによって、彼女が乗っていたブランコの鎖はジャラッと音を立て、座席は僅かに前後へと揺
れ動いている。
そのまま榛名の目と鼻の先まで歩いて止まり、見上げてじっと顔を覗き込んでいった。
(……な、なんかオレ、まずったのか? 家に行こうと思ったはいいものの、しり込みしちまって偶然ここで見つけて、
でもなに言ってるのかわかんなくて。泣き出しちゃったところで思わず飛び出してきちまったけど、まずかったか……?
もしかしてビンタが飛んでくるのか……!?)
冷や汗が背筋を伝っていくのを感じる。涼音は変わらずに瞬きをほとんどせずにして、榛名を食い入るようにして見詰
め続けていた。
いわゆる、ガン見というやつだ。
そして、高二の夏に食らったあの痛烈な平手打ちが脳裏を過ぎっていく。諦めるとか潔い台詞をつい口にしてしまった
が、あれをまたかまされて完全な別れを告げられたら、もう立ち直れないかもしれない。
「……許して、くれるの?」
「えっ」
「わたし、あんなに酷いこと言っちゃったのに……。許してくれるの?」
「原因はオレですから。それもこれも全部水に流して、やり直してもらえませんか?」
「……っ」
手にしていた携帯とハンドタオルを手放した。夕立のせいで湿り気を帯びた黒土の地面へと、放ってしまった。
けれど、そんなことはどうでもよくて。涼音は榛名へと抱きついて胸に顔を埋めて、ただ泣いていた。
「ご、ごめん、なさい……。ホント、に、ごめん、なさ、い……っ」
自分の胸へとすがり付いて謝罪してきてくれる涼音を榛名は抱きしめる。久方ぶりに味わう温もりをかみ締めながら、
ひたすらに優しく涼音の頭を撫でていっていた。
最終更新:2008年03月15日 23:56