8-69-72ミハチヨ  ◆HfmxcJU/6Q


4月に入り、三橋にとって初めて経験するイベントがあった。
今までの三橋の学校生活では縁がなく、二重の意味でカルチャーショックだった。
田島の嬉しそうな笑顔、田島に呆れた泉の顔、栄口の気にかけてくれる優しい顔。
花井は呆れていて、阿部はいつも怒ってるから普段通り。
今日は「そーいう日」、だ。
練習の休憩時間に、三橋はみんなの顔と、田島の言葉を思い出していた。
(オレ、も)
一瞬、三橋はそう考えたが、なにも思いつかなかった。

   * * * * * 

春休みとはいえ、入学を前に熱心な新1年生が3人、既に野球部に顔を出していた。
さすがにマネジはまだだったが、代わりに篠岡の手伝いを覚え始めている。
自転車にジャグを乗せて押しながら、少しだけ西浦高校野球部の空気になれた生徒たちが、
篠岡を「優しい先輩」と認識して、気軽に話をする。
「で、本当のところ、どの先輩なんですか」
唐突な1人の生徒の質問に、他の生徒も興味深そうに頷く。意味が判らない篠岡は質問で返した。
「なにが?」
「彼氏ですよ」
「ああ、そーいうのはナイの、ウチは」
嘘だろぉ、と驚きの声が上がった。
「しのーか先輩かわいーのに、ありえねえって」
「本当は彼氏いんですよね?別の部ですか?」
「高校生にもなって、先輩たちどっかおかしいんじゃねーの?」
と、どんどんエスカレートしていく。
それを受け流すか、先輩として注意するか篠岡が迷っていると、
「あ、三橋先輩だ」
部員の1人が、フェンス沿いをふらふらと歩いて行く三橋に気づいた。

「阿部先輩は花井主将より偉そう」「田島先輩は話しやすい」「栄口先輩は優しそう」等、
大雑把な認識は、既に彼らの中には既に根付いていた。
が、この三橋先輩は全くの未知数なのだ。
挙動不審で繊細そうなのに、投手としては凄い選手らしい。
今はまだ仮入部の新入りに、本当は気が短いのに猫を被っている可能性もある。
馴れ馴れしく話しかけ、入部届を提出したとたん豹変するその確立すら読めない、扱いに困るタイプだった。
「どーしたの、三橋くん」
篠岡が声をかける。
三橋は篠岡の声に顔を上げ、周りに複数の部員がいるのに気づき、比喩でなく本当に飛び上がってビビった。
「お水?ああ、水道行くんだ。ドリンクが遅れてごめんね」
三橋は頭がもげるんじゃないかという勢いで、首を左右に振りまくった。
いつ見ても、行動が怪しすぎる……。
それにしても、なんで篠岡先輩は、この宇宙人みたいな生き物と、ごく当たり前のように
コミュニケーションが取れてんだろう?
「あの……。三橋先輩、喋ってないっすよね?」
「なんで判るんですか?」
不気味そうに部員たちは三橋と篠岡を見比べる。
「判るよー。マネジだもん」
「そんなの理由になんないっすよ」
だって、単語すらないんだよ?落ち着き無いし、俺らの目も見れてないし。
1人の生徒が、ぽつりと呟いた。
「もしかして、しのーか先輩の彼氏って……?」
他の生徒が凍りつく。
いや、それはナイって。だって、この人明らかに変だし。
でも、三橋先輩は逃げないし、篠岡先輩とは会話が成立している。
「三橋先輩?」
「へっ」
「篠岡先輩と、付き合ってんですか?」
その場の全員に注目されて、三橋の目と口が大きく開く。
冷や汗を流しながらキョロキョロと忙しなく目線が彷徨い、口がぱくぱくする。
聞いた俺らが悪かった、ぜってーありえねえ。
そんな空気が流れた。
が。
三橋は震えが治まると、意を決したように息を呑み込み、こくんと頷いた。
「は、いぃぃ?」
満場一致。驚きの声が上がった。
「なんで、よりによってこの人ー?」
責めるような回りの視線に篠岡はにっこり笑って、
「一緒に野球やれば、判るよ」
と、穏やかに答えた。
「そーいう訳で、私をからかうと三橋くんが怒るからね」
そんな風に言われたら、見かけによらず三橋先輩は想像を絶するキレ方をするんじゃないかと、
怖いイメージが膨らんでしまい、それ以上何も言えなくなってしまった。

青ざめながらこくこくと下級生らは頷き、ジャグを運びながら離れて行った。
首をかしげ、チラチラ振り返るその姿を2人で見送りながら、篠岡は満足そうに笑う。
「三橋くん、ありがとう」
「ふ、ひ」
達成感で三橋も興奮していた。
頷いただけだけど、上手くいったのだから、成功だ。
「最初はちょっと驚いちゃったけど……。今日が、4月1日だからだよね?」
篠岡の問いに、嬉しそうに三橋は何度も頷く。
数時間前、田島に「今日午後から雪降るってさ」と小学生のような嘘をつかれ本気で
信じてしまうという、「エイプリルフール」を三橋は初めて経験したのだ。
今日は嘘をついて良い日。だから、三橋もやってみたかった。
でも、嘘は良くない。みんなを騙してしまった。
急に反省して俯く三橋に、心配して篠岡が声をかけた。
「三橋くん、迷惑でしょ。あとで、みんなに訂正しとかないとね」
「うへ」
深く考えずに頷いてしまい、三橋は慌てた。
「しのお、かさん、は」
悪くない。自分さえ嘘をつかなければ、篠岡も嘘をつくことはなかったのだから。
謝りたい気持ちでいっぱいで、三橋は懸命に首を左右に振る。
その様子を見て、篠岡が目を見開いて、三橋を見つめた。
「迷惑じゃ、ないの?」
「……?」
少し間を置いて、三橋は頷いた。
なにについて聞かれたのかは判らなかったが、迷惑をかけたのは自分で、篠岡ではないから。
たっぷり1分ほどそうして緊張まじりにお互いを見ていたが、篠岡がふっと笑顔になったので
三橋はホッとする。
「じゃあ、本当にしちゃおうか?」
「う、ひ?」
会話に頭がついていかない三橋は、ただ篠岡の言葉に頷き、その後で意味を考える。
だから、篠岡が自分に歩み寄り、困ったような顔をして見上げ、ほっぺにキスをされた時も、
一体なにが起こったのか全く理解が出来なかった。
(???)
急激に体温が下がり、冷や汗が流れる。かと思えば、頭が熱くなってぼーっとしてきた。
力が抜けて、へなへなと座り込んでしまう。
「み、三橋くん、大丈夫?」
篠岡もしゃがんで、三橋の顔を覗き込んだ。
「ダイジョウ、ブ……」

条件反射のように、三橋は頷いた。これ以上みっともない自分を見せるのは嫌だから。
三橋は、篠岡は怖くない。
篠岡は三橋にとって、おいしいおにぎりを作ってくれる、ジュースもくれる優しい人だ。
なんとなく、自分の嘘に、忠実に篠岡が合わせてくれたのだということだけは判った。
(い、いい人……)
心の中が、ほんわかと暖かくなる。
そこに、遠くから三橋の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「三橋!……って、篠岡まで。マジだったのか」
阿部の顔が引きつっている。それを押しのけるように、田島が叫ぶ。
「しのーかー!三橋と付き合ってるってホントかー?」
その後ろから、他の同級生の興味深そうな顔もちらほらと見えた。
ドリンクを受け取った際に下級生たちから聞かされたのだろう。
「ホントだよー。三橋くんが、嘘つく訳ないでしょー?」
篠岡が答えて、ね、と三橋に笑いかける。
(しのおか、さん、わらってる)
三橋はふひっと、息を吐いた。
じゃあ、きっとそれで良いのだ。驚いたけど、さっきのは、自分もちょっと嬉しかったし。
右手でほっぺのその場所に触れると、篠岡が小声で言った。
「嘘じゃないって証拠に、明日から、三橋くんから出来る?」
三橋は即座に頷いて、その後に意味を考えようとした矢先に田島の声に驚き、思わずそっちを見て、
間違えて阿部と目が合ってしまった。
みんながこっちに来るのが見えて、三橋は思わず立ち上がる。
「あ。テメー、なに逃げよーとしてんだ!」
「みはぁしー、なんで教えてくれなかったんだよーっ」
阿部や田島に捕まり、ウメボシをされたり髪をぐしゃぐしゃにされたりする。
こんなことになったのは、嘘をついたせいだという思いだけはあった。
だから、約束は守らなきゃ、と三橋は心に決める。嘘はよくない。
(あ、した……)
自分から。三橋の心の中で、何かが弾ける。
笑顔の篠岡と目が合って、三橋も思わず笑顔になっていた。
最終更新:2008年04月19日 17:02