9-96-118 ミハモモ(モモミハ?)[sage]
店を出るとあたりはすでにこの街の夜特有の猥雑な空気に満ちていた。
少し辟易しながら駅に向かう細い道を歩いていると、サングラスをした中年の男に突然肩をつかまれる。
「おねえちゃん、色っぽいねえ、芸能界とか興味ない?すぐに売れっ子間違いなしだよ!」
この手の勧誘には慣れていた。
体の良いことを言って大抵がアダルトビデオやその類だ。
百枝は慣れた笑顔で男を振り向くと、呼びかけを無視してそのまま歩き出した。
しかし、予想外に後ろから肘をつかまれ、引っ張られて行く手を阻まれてしまう。
「ちょっと~無視はないんじゃないのお?おじちゃん怒っちゃうよ?」
そういう男の目は笑っておらず、百枝は思わずぞっとした。
そのとき前方に停めてあったワゴン車から似た風情の若い男が出てきて、サングラスの男と目配せするのが見えた。
車にはスモークが貼られている。
それを目の端でとらえた瞬間、背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
(さすがに二人じゃ勝ち目がないわ)
そのときだった。
「カ ントク!」とあたり一面に大声が響き、ぎょっとした男が百枝の腕を放した。
大声の主は、すごいスピードで百枝のそばまで駆けつけてくると、その手をとって全速力で走り出す。
とっさのことに、男たちは反応しきれなかったらしく、追いかけてくる気配はない。
二人は手をつないだまま夜の街を走りぬけ、駅のそばまで来てようやく立ち止まると、
ぜいぜい言いながらその場にひざをついた。
「あ、り、がと・・・」
百枝が苦しい息の中から礼を述べ、たった今までつないでいた手の主を見上げると、
驚いたことに彼は腕で涙をぬぐっていた。
「ちょっ、三橋くん、どうしたの!?」
百枝を助けてくれたのは三橋だった。
こんな時間のこんな場所に三橋が居合わせたこと自体驚きだったが、
それよりもここで泣かれることの意味がさっぱりわからない。
(なんで泣くのよ!)
しかし百枝は辛抱強く待った。
(私もだいぶ気が長くなったもんだわ、3年は長かったってことね)
「よ、よかっ・・・」
「ん?」
「あ、か、かん とく が、つ、つれ てかれなくて、」
(なるほど)
どうやらこれは安堵の涙らしい。合点がいった百枝はにっこり微笑んでぽんと三橋の頭を撫でた。
3年間に開いた身長差のせいで少し撫でにくかったが三橋は落ち着いたようだった。
「三橋くんのおかげよ。さすがの私もいっぺんに二人は無理だわ、相手、車持ってたしね」
「く るま・・・?」
「気づいてなかったの?たぶん三橋くんが来てくれなかったらあそこにとまってた車に連れ込まれてたわね」
「ええ!」
三橋の顔色がさあっと青く染まる。ショックのあまり二の句が告げないらしい。
「カ、」
「か?」
「かん とくは、何で夜 に、」
「バイトよ。割が良いバイトが見つかったからミーティングの日に入れることにしたのよね」
「わ、わり・・・」
そう言って三橋は青い顔をさらに青くした。
百枝はすぐに三橋の考えを読み取って、三橋の頭をぎゅっと握り締める。
「何考えてたのか言ってみなさい!私が野球部つぶすようなことすると思う!?」
「いっ、い、いたっ、いい、あ、ご、ごめ、なさ」
「質問に答える!」
「う、し、しません、オ、オレ、わか」
「わかったらよし!」
にっこり笑って手を離すと、三橋は頭を抱えてうずくまった。
三橋はしばらく声もなく悶えていたが、百枝が声をかけるとよろよろと立ち上がった。
「大丈夫?」
「う、大丈夫、です」
「あなたこそどうしてこんな時間に外にいるの?」
「オ レは、予備校 で」
「ああ、試験もうすぐだもんね」
「オレ、は毎週あって、か、カントク は」
「私も週1、ミーティングの日だけよ」
「じゃ、じゃあ!」
「オレ、ら、来週 も、い、い、一緒に・・・」
百枝は思わず三橋をじっと見つめた。
高潮した頬、真剣な瞳、熱のこもった声。
はたから見たら年上の女性を口説いている少年の図にしか見えなかったが、
これは使命感にかられたときの三橋特有の口調だと百枝は知っていた。
「大丈夫よ、次からは気をつけるわ。今日は隙をつかれたけど」
「だ、だめ、です。カントクに何かあったら、オ、オレ 」
その声の真剣な調子に思わずドキリとしたが、すぐに我に返って盛大に突っ込みを入れる。
(なに今の!相手は生徒よ!?ていうか三橋くんなのよ!?)
三橋は百枝の動揺には少しも気づかずに、たどたどしく言葉を続けた。
「部の皆に、お、怒られ ます。た、たぶん阿部くんに、な、殴られる とおも」
(ああ、そういうこと)
心なしか少しがっかりしたような気がしたが、いやいやありえないって!とさらに自己つっこみをしていると、いつのまにか電車は最寄り駅に着いていた。
ちょっとした虚脱状態に陥っていた百枝は、なんとなく三橋と約束したようなかたちになったまま、結局そこで彼と別れたのだった。
翌週、バイトを終えて店を出ると、本当に三橋は百枝を待っていた。
夜の街の中で、居心地悪そうにしている姿がなんとなく微笑ましい。
本来なら教育者としては、こんなところにいてはいけない、早く家に帰りなさいと諭すべきところだろう。
それはわかっていたし、三橋を見かけるまではそうするつもりだったが、
なんとなく最初にそれを言うのはためらわれた。
(だってせっかく心配してくれてるんだし。
最初に叱るのはかわいそうよね。)
「三橋くん」
呼びかけると、ぱっと三橋の表情が明るくなる。
その表情の変化に胸をつかれ、百枝は自分がいい大人であることを意識した。
少しも己の感情を隠そうとしないてらいのなさは、百枝のまわりからはとうに失われたものだった。
(まあ、三橋くんだからね)
なんとなく彼はこのまま、大人になるような気がした。
裸の感情を隠すためのあらゆるパターンの表情や仕草、そういうものを身につける気がないように見えた。
それはときに人をいらつかせるが、ある意味そこまでよろわずにいられる強さはたいしたものである。
その強さに百枝も、3年間ずいぶん支えられたと思う。
花井や阿部のようにチームメイトを率先してリードするタイプではなかったが、
三橋はまごうかたなき西浦のエースであり、常にチームの柱だった。
「か、カントク、は やく」
帰りましょう、と促され、百枝は三橋の横を歩き出す。
(まあいいか)
どうやら本当に予備校が百枝のバイト先のすぐそばらしいし、もうすぐ巣立ってしまう生徒と、こうしたひと時を過ごすのも悪くはないだろう。
横を歩く三橋はほとんどしゃべらない。
接客業につかれた百枝には、三橋の無口さが心地良かった。
三橋は県内の野球好きの間ではちょっと名の知れた存在だった。
正確無比のコントロールと緩急をつけた独自のストレートに変化球。
職人的な投球自体の魅力もあったが、投手らしからぬ容姿と挙動がおもしろがられた一番の原因だった。
そんな元エースと若く美しい女監督の組み合わせが、人々の好奇心を刺激したのは無理からぬことだった。
「まりあちゃん、今日も廉くん来る?」
「さあ、別に約束してるわけじゃないですから」
「じゃあ彼が勝手に待ってるわけ?すごいねえ、熱いなあ高校生は」
店一野球好きのシェフの言葉に百枝は腰に手を当ててきっぱりと言い放った。
「いーい加減にしてください!私は生徒に手を出したりしません!」
「でももう引退したんでしょ?」
「だからって何言われるかわかったもんじゃないでしょ」
「まーねえ、へたしたら犯罪だしな」
「でもさあ、よく続くよね」
そう言ったのはこの店のオーナーだ。百枝の高校時代の友人であり大の高校野球ファンでもある。
ただの厨房手伝いで破格のバイト代をもらえるのも百枝の監督業を応援する彼女のはからいによるものだ。
「だからついでなのよ。角曲がったとこにある予備校に行ってるんだから」
「ばっかね~、違うわよ!私が言ってるのはあんたよ、まりあ。」
「はあ?」
「だってさ、あんたの一番嫌いそうなことじゃん。夜道が危ないから送っていくとかさ。
大体あんたそこらの男より強いでしょ。高校のときだっていっつもそういうの怒ってたじゃん」
彼女の言葉に百枝はぐっと言葉に詰まった。
確かに彼女の言うとおり、女だから弱い、と決めつけられるのも、守ってやるなんて言われるのも百枝は好きじゃない。
そういうのはなんだか押しつけがましい気がした。
「…三橋くんは違うのよ」
「へーえ、何が?」
百枝の困惑を見透かしたようなにやにや笑いにむっとして眉を寄せると、オーナーは笑って手をあげた。
「怒らないでよ。あの子はあんたのそのたっかいプライドを傷つけないでそばにいられるのね。
それって理想ぴったりじゃない。懐の広い男じゃないとなかなかね。
私は応援するわよ、高野連がなんていうかは知らないけど」
「廉くんはああ見えて根性あるしなあ」
「勝手に話すすめないでよ。これでも色々苦労してるんだからね。甘夏つぶして見せたりとかさ」
「あんたじゃなきゃできない技ねえ」
オーナーがそう言うと店員たちは、百枝がいかに怪力かという話題でひとしきり盛り上がった。
百枝は話題が流れたことにどこかほっとして、後はバイトが終わる時間まで皿洗いに没頭した。
実際に自分の見た目が男たちにどのような印象を与えるか、百枝は嫌というほど知っていた。
だからこそ男子高生を統率する立場として生徒になめられないよう注意してきたのだし、
実際西浦の生徒たちは百枝を監督として評価もし、尊敬もしていると実感できる。
せっかく3年間かけて今の関係を築いたのだ。恋愛なんて冗談ではない。
(三橋くんは違うっていうのはそういう意味よ)
彼は大切な生徒だ。間違っても「男」ではない。
この関係も彼が自分を「監督」として大切にしているからこそ、その気持ちからの行動だとわかっているからこそ、許容できているのだと思う。
横を歩く三橋をちらりと眺めると、三橋は何を思ったか、おびえた様子で目をそらした。
(相変わらず挙動不審ねえ)
なんだかばかばかしくなって、怒ったのではないことを伝えようと百枝が口を開きかけたときだった。
「彼女、きれいだねえ!店探してるならうちにどう?ちゃんと二人きりになれるよ!」
チンピラ風の客引きに声をかけられたのである。
どうやら「店」とはラブホテルに近いものらしく、聞きもしないのにペラペラと男は店の素晴らしさを並べ立てた。
いわく、風呂が広いだの、コスプレができるだの、そういうことをだ。
「お、い、い、い、いりませ」
狼狽しつつも断る三橋に男は、馴れ馴れしく言い寄った。
「かたいこと言わないでさ~、彼女すっごい巨乳だねえ、相当良い思いしてるんじゃないのお?」
それを聞いた瞬間、さっきまでおどおどしてたのが嘘のように三橋がはっきりと「やめろ!」と叫んだ。
それから、唖然とする男には目もくれずに、百枝の腕をとると、ずんずんと歩き出す。
あっけにとられたのは百枝も同じで、なんとなくその手を振りほどくことができないでいた。
繁華街の終点まで来ると、三橋はくるりと百枝を振り返って、「す、すみま せん」と謝った。
その目には涙がたまっており、百枝はぎょっとする。
(からかわれて嫌だったのかしら。すごい純情ねえ)
「三橋くんが謝ること無いわよ」
「うっ、で、でもっ、オレ のせい、だからっ」
「はあ?」
「オレ といたから。カ、カントク は、ああいうの、イヤ だって、オ、レ、知ってて。
な のに、オレ、心配 で。カントク に、何かあったら、ってこわ くて」
腕で涙をぬぐいながら三橋は繰り返し謝罪した。
(何よ)
(私のために泣いてるっていうの?)
三橋はなかなか泣きやまなかった。
「いい加減にしなさい!私は気にしてないわよ」
「う、は、はい」
歩き出しながら百枝は、三橋の言葉を反芻する。
三橋は言った。百枝がいやなことを知っていると。
きっと、今日のようなことが起こらないように今まで細心の注意を払ってきたのだ。
そうとは知らせずに、百枝のことを守ろうと。
思い返せば予備校のある日の三橋は、いつも必ず制服を着ていた。制服姿ならば誤解を招くことは少ない。
(三橋くんって本当に)
―――――優しい。
百枝は初めて意識した。自分が女であり、三橋が男であるということを。
「あんたの理想ぴったりじゃない。」
そう言ったのは高校以来の親友。誰よりも百枝のことをよく理解している。
(困ったことになったわね)
できれば気付きたくなかった。なぜよりによって三橋なのか。
初めての教え子。百枝にすばらしい野球を体験させてくれた。
不安定な身分で監督の務めを全うすることはやはりそれなりに大変なことだった。
これからも、いくらでも苦しいことが待ち受けている。でも、三橋たちのことを思えば乗り越えていけるだろう、彼はそういう存在だった。
百枝は彼らとの思い出をできるだけきれいな形で持ち続けたいと願っていた。
恋とか、そんなあやふやなもののために、壊してしまっていいものではないはずなのだ。
それに、幸いにも三橋が百枝のことを女性として意識している素振りはない。
(大丈夫、まだ好きになったわけじゃない)
百枝はコントロールできると思った。これでもだてに年を重ねたわけじゃないのだ。
見込みもない恋愛に身を投じるなんてばかばかしいと自分の心をなだめるくらい、そんなに難しい事じゃあないはず。
このとき百枝は知らなかった。
人の心を思い通りにすることはできない。たとえ、それが自分のものであろうとも。
その日二人が乗った電車はいつも以上に混んでいた。
遅い時間の電車はいつもそこそこ混んでいたが、雨のせいかその日はほとんどすし詰め状態というくらいだった。
自然、百枝と三橋は普段ならありえないというくらい密着して、電車が駅に着くまでの時間を過ごすことになった。
百枝の大きな胸が三橋の腕のあたりに当たっていたが、三橋は特に表情を変えることもなくいつもどおり何を考えているかわからないような顔をしている。
百枝は三橋と目を合わせないようにしながらも、ほんの少しも自分を意識してなさそうなその姿が少し淋しいような気もした。
でも、これでいいのだと自分に言い聞かせる。もう少しして電車が駅に着いたら、こんな複雑な感情ともおさらばだ。
(にしても可愛くないわね。もしかしてすごい細いのが好みとか?千代ちゃんが好きとかありえそうよね)
しかし、電車がガタン、と大きな音を立てて揺れたとき、三橋の方に倒れそうになりながら、百枝は、三橋が決して見た目通りの状態でないことに気付いた。
(今のは…?)
体勢を立て直した後、少しだけ足を動かして確かめると、やはり三橋は勃起していた。
制服のズボンの股間が固く張りつめているのが感じられる。
百枝は何食わぬ表情を装いながら、そのまま柔らかいふとももを三橋の股間に押し当て、電車の揺れに合わせて揺するように動かしてみた。
後から考えると、なぜそんなことをしたのかわからないが、その日はオーナーに付き合って飲んでいたために自制の糸が緩んでいたのかもしれないし、あるいは叶わない思いをぶつけたかったのかもしれなかった。
下から三橋を窺い見ると、さっきまでの無表情とはうって変わって、真っ赤になって目をぎゅっとつぶっている。
百枝は、その反応に気を良くして、今度はできるだけ自然に胸を三橋の体に押し付けた。もちろん、足で揺するのも止めない。
「三橋くん」
可愛さあまって憎さ百倍とでも言おうか、意地悪心がむくむくとわいてきて、百枝はわざと三橋に声を掛けた。
「…っは、はい」
「どうしたの?汗かいてるみたいだけど、混雑で気分が悪くなった?」
「あっ、やっ、だ、大丈夫、です」
(取り繕えるなんて、まだ余裕があるのね)
百枝は、足に込める力をほんの少し強くする。
三橋の目元に涙がにじみ、それを目にした百枝は自分がひどく興奮しているのを感じた。
三橋は段々と荒くなる息を懸命に抑えようとしているようだったが、百枝が、「辛いなら肩にもたれてもいいわよ」と告げると、百枝の背中に両腕を回し、その体にぎゅっとしがみついてきた。
百枝は初めて抱かれる三橋の胸の感触に陶然となったが、同時に、強く動揺して思わず三橋の顔を見上げてしまう。
すると、三橋もまっすぐに百枝の目を見つめ返してきた。
二人の視線が交錯し、百枝がいたたまれなさに目を伏せるよりも早く、
三橋は百枝の耳元に顔を寄せ、震える声で「スキ だ、」と告げた。
三橋に強く抱きしめられ、百枝は体中の血が沸き返るような激しい熱とめまいを感じた。
しかし、三橋の告白が意味を持ったものとして立ち上ってくるにつれ、
肉体の衝動を裏切るように頭の芯は冷えてゆく。
咄嗟に三橋にしがみつこうと上げかけていた腕を下ろし、百枝はぎりっと唇を噛んだ。
今自分はきっとひどい顔をしている。
教え子に見せるにはふさわしくないような。
しかし、三橋は容赦なく百枝のあごを捉え、彼女の顔を上向かせた。
三橋の瞳は涙に濡れ、懇願するようなまなざしに百枝の胸は灼かれそうに痛んだ。
(私は…!)
なんてことをしてしまったんだろう。
このまま恋におちてしまうわけにはいかない。
自分にとっても、彼にとっても、失うものはきっと大きい。
3年間かけて積み上げてきたものを、
よりによって自分が壊してしまうわけにはいかないのだ。
必死に見つめる三橋から目をそらすこともできず、
しかし決定的な一言を言うこともできずにいると、
電車の扉が開き、出口を目指す乗客の流れに三橋の拘束が一瞬緩んだ。
百枝は、普段の彼女らしくもなく、逃げるように三橋の手を振りほどくと、
電車から飛び降り、一目散に外へと走った。
(最低)
きっと三橋の心を深く傷つけた。
彼のことだ、失恋そのものの痛手もさることながら、
百枝を困惑させたと思い悩むのに違いない。
本当に責められるべきは自分なのに。
百枝は駅を出ても、走るスピードを緩めないまま、
知らない景色が流れる中をぐんぐん走っていった。
そうして体を動かしてないと胸の痛みに負けて二度とは動けなくなってしまいそうだった。
三橋が自分を好いているという可能性をこれっぽっちも考えたことがなかった。
だからあんないたずらができたのだ。
それがこんな結果を招くことになるなんて。
三橋はもう店には来ないだろうが、次に顔を合わせたらはっきり言わねばならない。
百枝の本当の気持ちを決してさとられないように。
生徒を気遣う指導者らしいもっともらしさで三橋をふる自分を思い描くと、
さすがに胸が悪くなった。
それでも、三橋の前でただの女になって、いつの日かその深い信頼を損なうよりはずっと、その選択はましに思える。
走りながら百枝は唐突に気付いた。
自分の心は最初から決まっていたのに、その場で三橋にそれを告げず、走り出してしまったのは。
失恋の瞬間を少しでも引き延ばしたかったからだ。
いつのまにか自分で思っていたよりもずっと、彼のことを好きになっていたのだ。
気付いてしまうと涙がこみ上げて、百枝はようやく走るのを止め、
道ばたに座り込むと深く息をついた。
「カントク!」
膝を折り曲げて泣いていた百枝が自分を呼ぶ声にぎょっとして振り向くと、
走って追いかけてきたらしい三橋が肩で息をしながら、百枝のすぐ横にかがんでためらいなくその手を握った。
百枝は泣き顔を見られないように顔をひざのあたりに伏せ、手を引き抜こうとしたが、
三橋は思いの外強い力でそれを押しとどめ、百枝の手を離そうとしない。
「はなしなさい!」
「イヤ だ!」
(どうして!)
百枝は怒りが込み上げるのをこらえ、キっと三橋にらんだ。
三橋は一瞬ひるんだように後じさったが、きゅっと唇を引き結ぶと、
震える声で「…どうして!」と言った。
「どう して、カントクが、泣く んだ」
百枝ははっとして手で顔をぬぐったが、時すでに遅しで、三橋はみたび「どうして…?」と聞いてくる。
先ほどの決意が百枝の胸をよぎる。
「ショックだったのよ。あなたがそんなふうに私を見てたなんて。
あなたの気持ちに応えることはできないわ。
生徒と恋愛する気はないの。」
思っていたよりもずっと冷えた声が出た。
三橋のことを思うと苦しかったが、これで終わりに出来るとどこかで安堵してもいた。
しかし、予想外に、三橋はそれでも百枝の手を離さなかった。
「カントクは、オレのこと、キ、キライ です か」
「好きとかきらいとかそういう問題じゃないわ。
教え子と恋愛するつもりはない。
それが私の答えよ。」
「オレ は、カントクが 好き です。
きらいなら、そう、言って くだ さ」
「だから!」
そういう問題ではないのだと、百枝が三橋に言い聞かせようとすると、
三橋は握っていた百枝の手に顔を寄せ、ぎゅっと目をつむると、また「スキだ、」と言った。
「スキ です」
好きだと繰り返しながら、三橋は片腕で百枝を抱き寄せ、肩口にすがりついてくる。
シャツの上に、三橋の涙がにじむのを感じた。
(あったかい)
今まさにあふれ出ている涙は、熱帯雨林に降り注ぐ暖かい雨のように、かたくなになった百枝の心を溶かしていく。
もうどうにもならないとはわかっていたが、それでもこの瞬間百枝の心は穏やかに凪いでいた。
こうして触れ合うのは最後かもしれなかったが、やはり三橋のことが好きだと思った。
三橋はしばらくの間肩を震わせていたが、ふと泣きやむと顔をあげた。
驚いたように見開かれた目で見上げられ、百枝は不思議に思い三橋を見つめ返す。
「手が…」
(手?)
「…あったかくなってる」
そう言って握りしめていた百枝の手を、三橋は百枝の目の前にかざして見せた。
(…!)
百枝は手を引こうとしたが、投手の握力にかなうはずもない。
まるで隠していた心の内を探り当てられたかのようにどぎまぎして、百枝は体温が上昇するのを感じた。
たぶん、さっきよりもずっと、手の温度は熱くなってる。
「オレ は、スキ ですけど、カ、カントクは…」
何故か三橋は真っ赤になりながらそう言って、百枝の目をじっと見つめた。
「それは…さっき言ったでしょう」
「ま、まだ 聞いて ませ」
百枝は観念した。
本当のことを言わないと彼はきっとこの手を離さない。
もちろん、己の恋心を露見させるつもりはなかったが。
「いやなのよ」
「えっ…」
言ったとたんに三橋の顔が青ざめる。
百枝はため息をついて続けた。
「こういうのは困るのよ。
私がたとえば、たとえばよ?
三橋くんのことを好きだったとしても恋愛はしたくないの。
この意味がわかる?」
三橋は首を横に振った。
盛大なはてなマークが見えそうなわけのわかっていないときの表情。
「恋愛になったら色々見たくないことも見えるかもしれない。
私は、3年間あなた達と一緒に野球ができて本当に良かったと思ってる。
私にとってはそれがすべてなの。
その良かったっていう気持ちを他の何かと引き替えに失いたくないのよ。
そしてなにより、あなたにそれを失わせたくない」
そこまで言ってもなお、三橋は表情を変えることはなかった。
頭の回転が速くないのは知っていたが、ここまではっきり言ってもわからないものだろうか。
百枝は一瞬、状況も忘れて、本気でこの元教え子の大学受験を心配したが、
次の瞬間、三橋の言葉にその気持ちもかき消えた。
「何も」
「?」
「な、何 も、なくす とか、ない、です」
「え?」
「な、なにがあっても、カントク と野球、できて、それがなく なる、なんて、絶対…
オレ、オレは!
カントクに会えなかったら、野球、たぶん やめ てて、
3年間、すごく 嬉しくて、カ、カントクのおかげ だから、
どんなこと があっても、オレは…!」
三橋は強い調子で言うと、百枝の手を引き寄せてそこに口づけた。
それは衝動に任せた行為かもしれなかったが、約束のしるしのようにも見え、
百枝の決意をぐらつかせる。
本当に三橋の言うようなことが可能だろうか。
それは、まだ男女の付き合いを知らない少年の幼い決意に過ぎないものであるのに、
三橋の言葉は真実であると百枝には感じられた。
なぜなら、百枝はずっと見てきたのだ。
三橋の強さ、その優しさ。
どんなに苦しいときでも彼は一番大切なものはちゃんと守り抜いた。
一人きりの3年間を経ても野球への愛情を失わず、
苦しい試合のさなかにも決してチームメイトを責めない投手だった。
「で、も、め、迷惑 なら、オレ、ちゃんと、あ、あきらめ ます」
三橋はそう言い切ると新しくにじんできた涙を肘でぐいとぬぐった。
その見慣れた仕草に、愛しさが募る。
その愛しさはあきらめに似た、けれどそれよりはもっと心地よい気持ちを運んできた。
全く以て三橋くんには負ける。
今までもずっとそうだったけれど。
「迷惑じゃないわ、三橋くん、」
「う、は、はい」
「この続きはあなたが卒業したら言うわ。今はそれでいいわね?」
百枝の言葉に三橋はしばらくぽかんとしていたが、
すぐさまその意味を察したらしくぶんぶんと首を振って頷く。
百枝は少し笑って、「遅くなったわね、早く帰りましょう」と三橋を促し、
そこでまだ手を握られたままなのに気付いた。
「三橋くん、手を離して」
そう言うと三橋は真っ赤になって、もごもごと口の中で何事かつぶやいた。
百枝が片眉を上げて先を促すと、ビクっと肩をすくめる。
そして。
「あ、の!キ」
(き?)
「…スしても、」
いいです か、と消え入りそうな声で言ったのだった。
(ああキスね、キス…えええ!?)
百枝は三橋の言葉にぎょっとしたが、
きっと不安なのだろうと、それくらいは許してもいいかと考えた。
(さっきの罪滅ぼしもあるしね)
三橋はうつむいて百枝の返事を待っていたが、
「いいわよ」
と言うとぱっと顔をあげた。
「じゃ、じゃあ」
し、します、とわざわざ宣告され、微妙な気持ちになりながら、百枝は目をつぶる。
しばらく何の動きもなく、百枝が焦れて目を開けると、思いの外近くに三橋の顔があった。
まっすぐ見つめる瞳に心をさらわれそうになり、思わず目をつぶると、
そのタイミングで口づけられる。
それは一瞬の、触れるだけの口づけだったが、
本当に三橋とキスしたのだと思うと、
する前には感じなかった恥ずかしさが込み上げてきて、
百枝は顔を見られないように三橋の胸に押し付けた。
早鐘のような心臓の音が聞こえ、三橋も緊張しているのだとわかる。
三橋は片手を百枝の背中に回すと、もう片方の手でその長い髪をすいた。
その気持ちよさにうっとりしながら、百枝は三橋の腕の力強い感触を堪能する。
本当はいつまでもそうしていたかったが、
相手は高校生なのだからあまり遅くなってはまずいと、百枝は三橋の体を離した。
今度は三橋も抵抗せず、素直に百枝の行動に従う。
帰り道を並んで歩きながら百枝はふと胸をついた疑問を口にする。
「三橋くんはどうして私のことを好きなの?」
百枝は男性のそうした視線には敏感なほうだと思っていたが、
三橋から異性としての好意を向けられていると感じたことは一度もなかった。
どちらかというと他の部員に比べても格段に自分を恐れていると思っていた。
それが自分に恋しているというのだからわからないものである。
「カ、カントク は、こわい、」
(やっぱり)
「け、ど、いつも、それ は、野球 か、オレらのため で、
い つも、かっこよくて、オ、オレあこがれ て」
(格好良くてそれに憧れて?)
それは、三橋が尊敬する投手に抱く気持ちとあまり変わらないような気がする。
少なくとも女性を好きになる気持ちとしてはあまり一般的ではないのではないだろうか。
「そ、それに、か、可愛い、です」
「はあ?」
なんというか前後の脈絡がまったく伝わってこない言いようである。
(可愛いのは三橋くんでしょうに)
「…無理しなくてもいいのよ?」
三橋がお世辞を言うとも思えないが、一応釘を刺しておくと、三橋は青ざめて首を横に振った。
「いつも、元気 で、楽しそう、で、そ れがか、可愛いって、オ、オレ」
「三橋くんストップ!」
「は、は」
「もういいわ。ずいぶん遅くなったわね。早く帰りましょう、
このままだと大学落ちるかもしれないわよ」
「うっ」
「さ、行くわよ」
「は、はいい!」
百枝は三橋を振り返らずに足を速めた。
三橋が後ろから百枝の手を握りしめたが、今度は百枝は否とは言わなかった。
最終更新:2008年04月27日 01:48