8-247-250 スヤチヨ
駅までの道に篠岡を発見した。
向こうでもこちらに気付いたらしい。道の向こうから伸び上がって大きく手を振り、ぱたぱたと駆けてくる。
「お疲れさまー。巣山くん、これからどこか出掛けるの?」
練習帰りでないのは荷物の有無でわかったのだろう。
「友達のとこ。篠岡は? 今日、結構早くにあがったよな」
「うん。そうなんだけど、帰り、偶然友達と会って、さっきまで一緒だったんだ」
冬休みに入った今時期は、部の練習時間もまちまちだ。
今日はシガポが臨時の出張だというので、午後は練習が休みになった。
「あ。よかったら、これ食べる? ちょっと冷えちゃったかもだけど」
コンビニで買ったらしい唐揚げを差し出してくる。
ちょっと豪華な買い食いだ。腹が空いているので、遠慮なく貰った。言葉どおり、さほど熱くはない。
大方、友人と一緒にコンビニに寄り、唐揚げを買って、いつの間にか長話になって冷めてしまったというところだろう。
「うま。チーズ?」
「そう、チーズ味。好きなんだー」
篠岡はにこにこと笑った。
いつもは部員全員に向けられるそれが、今は自分だけに向いている。
たまたま今ここに、自分しかいないから、そうなっているだけなのに。
たったそれだけのことなのに、一瞬でも篠岡を独り占めしたような気持ちになってしまう。
特別に思ってしまう自分の浅ましさ、愚かしさったらない。
勿論わかってる。篠岡は別に自分に好意があるわけじゃない。
巣山は自分に言い聞かせるように思った。
好意がない相手にでもこうやって親切で、優しくて、分け隔てなく笑顔を向けてくれるからこそ、
篠岡に特別な感情を抱いたんじゃないか。
巣山が一口で放り込んで、一瞬で食べ終わった唐揚げを、篠岡は二口に齧ってゆっくりと食べた。
爪楊枝を使って食べていたが、手に油が付いたらしい。
最後の一つを食べ終わると、篠岡は指先を口許に運んだ。
油に濡れた唇を指先ですっと拭った後、人差し指の腹を唇にそっと押し当てる。
なんのためらいもなく見せられた仕草。
瞼が自然に伏せられ、まるで静かにキスでも落とすようだ。
唇の先で優しく吸うように舐め、親指の汚れも同じように、きれいに舐め取る。
舌先も見えない、ごく遠慮げな遣り方だ。
決して指先を咥えて舐めるような、露骨な遣り方ではなかったのに、巣山の身体にはビリビリと電流が流れたような感覚が走った。
赤い舌がぺろりと覗き、白く細い指先を辿る。
そのかすかな濡れた音を聞いたような気がして、巣山は不意に身体の奥がじんと痺れた。
やべ。
脳内に今の篠岡の仕草が鮮明に残る。
変なスイッチが入りそうで、無意識に眉根を寄せて口内で舌先を噛んだ瞬間、篠岡がはっとしたように声を上げた。
「あ……、ごめんなさい! 行儀悪かったよね」
篠岡の白い頬がみるみる赤らむ。
巣山が無意識に凝視し、顔を顰めたのを、別の意味に取ったらしかった。
「あ、いや」
慌てて言ったが、篠岡は恥ずかしいことしちゃった、と小さく呟いて俯いた。
二人の間に、不自然な沈黙が下りた。
巣山にとって篠岡のその仕草は、周囲を憚りながら、それでも半分無意識に出たといった様子が
かえって屈託なくかわいらしく映った。
だからこそ、それ以上の意味を勝手に想像して、一瞬悶々としたくらいだ。
けれど誤解を解くために、自分が顔を顰めた理由を篠岡に正直に告白するわけにもいかない。
参ったな、と思った。
篠岡の細い指先に触れるのを、自分は何度思い描いただろう。
巣山が篠岡を考える時、そのきっかけはいつだって、この指先だ。
手を絡めて、その指先の一つ一つに唇を落とす。
それから捕らえた手首をゆっくりと引き寄せて、その肌を堪能するのだ。
脳裏に浮かぶ篠岡の姿態に、何度欲情した?
もう正確に数えあげることもできない。
それほど絶えず、繰り返し、くりかえし。
この手を、指を、腕を、足を。
胸を、腹を、腰を、そしてその最奥を、汚して。
巣山の意識の全てを、篠岡が支配している。無意識に絡め取ったまま離さない。
胸の頂きを舌先で舐って。腰に掌を這わせて。
日に焼けないままの真っ白な太腿の、柔らかい内側をじっくり堪能する。
やがて濡れていくだろうそこは、きっと熱いだろう。
花芯をつまみ、中を指の腹で擦り上げるとき。
篠岡はどんな顔をするだろう。どんな風に恥らうだろう。
愛撫に声をあげるだろうか。喘ぐよりも泣くかもしれない。
でも篠岡の涙はきっと、もっと自分を煽るに違いない。
猛った自身を持て余して、狭い中を穿ったら、もう本当に歯止めは効かない。
見境なく何度も突き、奥を抉って、果てるまで止まらないだろう。
その時、篠岡の手は、冷えているだろうか。熱くなって肌を汗ばませているだろうか。
腕全体でまといつくのか。それとも突き放すように突っ張らせている?
縋りついて爪を立てられる痛みも、きっと下腹に甘く響くだろう。
けれど篠岡の手が自分の体に触れるところを、巣山はうまく想像できない。
巣山はこれまで一度として、篠岡の指先に触れたことはない。
部員全員で手を繋いで行われるイメトレは、いつもそれとなく篠岡の傍を離れて、
決して隣り合わないように細心の注意をしている。
手を繋ぎたくないわけじゃない。
でも手を繋いでしまって、自分の中のみだらな欲望を悟られるのが怖い。
なにかの拍子に、この感情が篠岡に伝わってしまったら。
それを思うと、イメトレどころではない。
平常心でいられる自信がないから、巣山はいつも少し離れたところから、篠岡を、そのきれいな、よく動く指先を見つめる。
この指先に、触れられたら。――巣山はごくりと乾いた咽喉を鳴らした。
でも、そんな時はきっと来ない。
篠岡は野球部員にも他の誰にも優しくて、かわいくて人気もあるだろうから。
自分はただ、こうして見ているだけでいい。
巣山はぎゅっと掌をきつく握り締めた。
なにげない話をぎこちなく振ってくれながら、篠岡はしばらく足元ばかり見て歩いていた。
よほど気まずかったのだろう。なんとなく居心地悪そうに軽く握った指先を擦り合わせる仕草。
寒そうに赤く染まった手指が忙しなく動いている。
巣山は、今日はすぐ近くにあるその指先を、飽かず見つめている。
俯いた拍子にサイドの髪が流れて、マフラーの奥の項を露わにしている。
白くて細い首。思えば、いつも明るく前を向いて歩いている篠岡が、こんな風に長く俯いていることは滅多ない。
「篠岡は手、きれいだな」
「えっ?」
驚いたように篠岡が目を上げた。普段から大きな目が、今は零れ落ちそうだ。
「指も細いし。爪の形も整ってるし」
「そんなことないよ」
言いながら篠岡は照れたように掌をぎゅっと握り、胸元に引き寄せた。
「水仕事とかも多いのに、全然荒れてないし。すごい気ィ使ってる手だ」
篠岡が顔を上げる。
しかし巣山は、まっすぐなその目と視線を合わせるのに不意に怖気付いた。
卑怯だと自覚しながら、遠くでしたバイクの音に気を取られた振りを装って、目を逸らす。
視線を外して、やっと言った。
「俺は、好きだよ」
「……え……?」
篠岡がぼんやりとした声で呟き、その場に立ち尽くした。
数瞬遅れて、ぎこちなく笑う。
「ああ、あはは。褒められちゃった。どうしよう、嬉しい」
篠岡が遅れた数歩分の距離を小走りに追いかけてくる。
「あのね、いつもハンドクリーム持ち歩いてて、練習後に必ず塗ってるんだよ」
自分を見上げる位置から、篠岡が掌を広げて少しだけ得意気に言った。
微笑ましい自慢だ。口許の辺りに掌を合わせて笑う篠岡がかわいくて、巣山は心の内でそっと呟く。
――そんなの、知ってるよ。ずっとその篠岡を見てたんだから。
その指先がどれだけ自分を惹き付けるか。
その指先がどれだけ自分の欲情をかきたてるか。
そんなことを、きっと篠岡はずっと知らないままだろう。
巣山は身内に湧いた自嘲を打ち消して、篠岡に静かな笑みを返した。
終わり。
最終更新:2008年06月09日 00:34