8-308-309 ロカモモ

朝練の後、学校にしばらく居残った。
部の用事を済ませていていたら、もう昼時だ。
気付けば、学校前で行われている舗装工事の音も止み、昼休み前の一時の
静けさが満ちている。
昼飯を済ませたら、午後の授業に顔を出さなければいけない。
クラブハウスの戸締りをし、校舎裏に回る。
夏の太陽がぎらぎらと目の奥を刺してくる。
職員用の駐車場には屋根がない。仲沢は少しでも涼しいところへと思った結果、
バイクを学校の敷地添いにある、植え込みの影に隠すように停めている。
そこにほっそりした人影があった。
アスファルトにぽつんと、濃く短い影が落ちている。
どうやらバイクを見ているらしい。
じっとしていた後ろ姿が、なにかを覗き込むように少し俯く。
仲沢はその人物の背中をじっと見つめながら、無意識に尻ポケットに指先を
滑りこませた。
慣れた手触りを指先で探り出す。
それを引っ張り出した瞬間、小さな金属の触れ合って音を立てるのと、
視線の先で、『彼女』が振り返るのが同時だった。

いや、振り返るまで、仲沢にはそれが彼女だとはわからなかった。

つなぎを着て、工事用のヘルメットを被ってバイクを眺めている相手が女性だとは、
瞬時には思いにくい。
振り向いた彼女の両肩には、二つ分けにした長い三つ編みが小さく揺れていた。

あ…れ…? 西浦の…?

夏場の強い日差しに仲沢が目を瞬くと、彼女はぴょこんと頭を下げた。

「勝手に見てて、ごめんなさい」
「いや、いいですよ」

答えながら、さりげなく全身に目をやる。
大きな目。赤く明るい笑みを湛える頬。高い鼻梁とつんと噤まれた口が、
意思の強さを感じさせる。
見知らぬ男に声を掛けられているというのに、怖気付いた素振りもない。

何の気なしに見ていた後ろ姿は、前から見ると体の線を覆うつなぎの下にも、
肉感的な充溢が一目で感じ取れた。
真っ先に目を引くのは、豊かなふくらみを描く胸。
そして丸い柔らかなラインで張り出す腰。
その二つの主張と反するように、ウエストは細くくびれ、つなぎの布地が
あまって、だぶついて大きな皺を描いている。
平らかな腹や、ボディラインこそ見えないけれど腕や足は、よく鍛えられて
いるだろう筋肉の締まりが感じられる。

このプロポーション。間違いようがない。西浦の監督だ。



女だてらに、十人そこそこの部員をまとめあげて、五回戦まで勝ちあがった、
新設野球部の監督。
確かちょっと変わった名前だった。なんと言っただろう、…。
仲沢は西浦のデータを脳内で呼び起こそうとし、同時に相手の足を止める為に
適当な言葉を継いだ。

「熱心に見てましたけど、バイク好きなんですか」
「そうですね。大きいの乗れたら気持ちいいだろうなって」
「ということは、今はあまり大きいのには乗っていない?」
「維持するのも結構大変ですし。今乗ってるのは、単なる移動用です」

ああ、そうだ。確か、ももえ。百枝まりあ。

「バイクにかける時間や労力を、今は西浦野球部にかけてるってことですね」
「え…っ」

百枝が驚きに目を瞠った。
それまでまっすぐに向けられていた視線が、かすかに揺らぐ。
仲沢は口許に穏やかな笑みを浮かべてみせた。

「驚かせてすいません。俺、ここの野球部のコーチなんですよ」
「あ――そうなんですか!」

百枝は頬に差した疑念を一瞬で拭って、にこにこと笑った。
白い歯が赤い唇から零れる。一気に親しみを感じたように笑顔が弾ける。

「夏は色々勉強させてもらいました。ありがとうございました!」

仲沢は向けられた明るい表情に、しばし戸惑った。
あの試合、西浦からすれば、決して納得行く終わりではなかったはずだ。
チームの要だろう捕手が怪我をして、途中退場。
バッテリーは急造にしてはよく持ち堪えたが、結局それ以降、打線もふるわなかった。
どんな負け方だって負けは負けだが、あの負け方で悔しくないわけがない。
半ば試合にならないような状況に追い込まれて、後を引かないわけがないのだ。
なのに、目の前の百枝は、まるでそんなことなかったように笑っている。
整った顔つきだけに、その表情はよけいに作り物めいて映る。
仲沢は目を細めて、眩しいように百枝を見た。

どうして笑っていられるんだろう。
自分は二年経った今でも、まるで昨日のことのようにあの夏のことを生々しく思い出すのに。
あの日の傷が塞がらないまま、血を流して疼いているのに。
どうしてあんたは、平気で笑っていられるんだ。

当事者でないからか。
あんたが女で――、実際に高校球児だったことがないからか。
でも監督なら、現場で一緒に戦っているはずだろう。
なのに、なぜ平気でいられる?

夏の日差しが強くて、陰影に視界がハレーションを起こす。
目の奥がちかちかと痛んで、その不快がじわりと仲沢の中である衝動を呼び起こす。

「お時間があるなら、是非色々ご教授願えませんか。――百枝監督」
最終更新:2008年07月02日 22:39