8-630-636 スヤチヨ(続手フェチ)1

初めて会った頃から、きっと気になっていたと思う。
明るくて、優しくて、いつも笑顔で気安く話しかけてくる。
こちらが舌を巻くほどの野球好きで、対戦相手のデータ作りなんて面倒で大変な仕事も、
嫌な顔一つせずこなしてくれる、一生懸命なマネージャー。
きっかけは、思い出せない。
ただ、いつからか毎日のように思い描くようになった。

篠岡の細い体を抱きすくめ、その温もりを確かめたい。
胸も腹も腰も、その体のずっと奥も、篠岡のすべてを触れてみたい。
いつもそう思っていた。
けれど巣山は特別な好意を覚えて以来、実際の篠岡に一度も触れたことはない。
頭の中で何度も堪能した、細く表情豊かな指先を掠めることすら避けてきた。

篠岡の、温もりに触れたい。

その感情が大きく膨れ上がるほど、自分自身の感情に強く蓋をした。
一度でも触れてしまえば、多分、自分の感情を隠し切れなくなる。
もっと、もっととその先が欲しくなる。
付き合うとか、そんなこと飛び越えたもっと先。
体の奥から焦がれるような切実な情動、突き上げるような欲求に抗えなくなる。
それがわかっているから、決して近づかなくなった。
無意識に篠岡を追おうとする視線を、なにげなく逸らして。
距離を置いていることに気付かれないよう、あくまでさりげなく。
自然に、なにも他意はないという振りをして。

――だけど、自制もそろそろ限界だ。


       *


練習の始まる少し前。グラウンドに、小さな声が響いた。
「痛…」
声のした方に反射で振り向くと、篠岡がベンチの間に立っていた。
「どうした篠岡」
俯いた背が動かないのに、花井が軽く腰を浮かせる。
篠岡は、はっと気付いたように振り向いて、小さく首を振った。
「あ、ごめん。なんでもないの!」
「なんでもないって声じゃなかったぞ」
「えっと、虫がいたから驚いて。ちょっと手ぶつけちゃって、それだけ」
照れたように笑うと、篠岡は開いた左手をひらひらと振った。
「どれ」
「平気。もうどっか行っちゃったし。ありがとう」
篠岡の笑みには少しも陰りはない。
訝しげに首を傾げていた花井は、なんでもないと重ねて言われて納得したらしい。
「驚かせてごめんね」
篠岡は話を打ち切ると、ぱたぱたとベンチ脇の用具倉庫に走って行った。

少し離れたところでストレッチしていた巣山は、部員の輪の外から、皆の様子をさりげなく確かめた。
部員の意識は既に篠岡から離れている。
巣山はそっと篠岡に視線を遣った。


篠岡はこちらに背を向けたまま、なにか探しものをしているらしい。
左手をカゴの中に無造作に突っ込んで、覗き込んでいる。
右手は、きゅっと小さく握られたまま、カゴの縁に乗せられている。
片手だけでの探しものは、どこかぎこちなかった。

ぎこちなく見えるのは、多分、それが左手だからだ。
篠岡の利き手は右手だったはずだ。だから酷く不自然に映るのだろう。
なんてことのない仕草だったが、巣山は知らず表情が渋った。

握られた篠岡の右手を後ろから凝視する。
それが不自然に強張って見えるのは、多分自分が篠岡の手を篠岡以上に気にしているからだ。
だから不自然に見えるのは――怪我をしたと思うのは、多分気のせいなんだろう。
過敏なほど神経質になる自分を、巣山は充分自覚していた。
けれど、もし気のせいでなかったら?

あの指先が傷むのは、許せない気がした。

白く細い指。薄い手の甲。
整った爪や、ほんのりと桜色に色付く指先。
かすかに節だった関節はなめらかな動き、いつだって軽やかに巣山の目を奪う。
あの指先が、自分の知らないところで傷付き、汚れていくのは、想像するのも不快に感じる。
自分でも正体のわからない、苛立ちのような強い感情が、腹の底で渦巻く。
こんなのは、異常だ。わかっている。けれど。
巣山はそっと立ち上がった。


「手、見して」
いきなり呼びかけると、篠岡は驚いて振り向いた。
元々大きな目が、更に大きく見開かれている。
「え、巣山くん? なに?」
「手の怪我。さっきぶつけたって言ったろ。見して」
「ああ、あれは大丈夫…」
答えながら、篠岡は右手を胸元に隠すようにした。
巣山はその手を追うように手を伸ばした。
「大丈夫なら見せられるだろ」
真っ直ぐに目を見て言い切る。
篠岡がこころなし目を伏せた。自分から視線を外すのは珍しい。
巣山は不意に奇妙な意地悪さが滲んできそうになるのを、かろうじて堪える。
それを抑えようとして、いつも以上にぶっきらぼうになっていく。
黙って篠岡に近寄ると、腕をぐいと引っ張った。
篠岡は唐突なことで、よろけながら立ち上がった。

バランスを失った篠岡を、そっと受け止めて支える。
軽い身体、手首の細さを初めて知った。
自身の意識とは無関係に、なにか特別な情動が湧き起こる。
力を入れたら壊れそうな頼りない手応えだと、他人事のように思う。
握られた拳も小さく、自分の掌の中に簡単に納まってしまう。
怯えたように縮こまり、きつく折り曲げられた指。
巣山は強引に開かせて、掌に広がる赤い色に溜め息を吐いた。
右手の中指の先に赤い傷口がある。
流れたらしい血が他の指や掌のあちこちに付いて、瞬間ぎょっとするほど手全体が真っ赤に染まっていた。
ここまでとは思わなかった。驚くよりは呆れた。

「…これのどこが『大丈夫』」
「ちょっと切れただけだから、ほんとに大したことないし」

確かに傷口自体は、さほど大きいものではないようだ。
けれど、痛いのを堪えて。手当てもせず。
つまらない嘘を吐いて、一体どうしたかったのだろう。
巣山の中に、苛立ちに似たものが沸々と泡のように次から次と湧き上がる。

「……」
「大丈夫だよ?」

口許に笑みを湛える篠岡に、かえって苛々とした。
洩れそうになった舌打ちをぐっと堪えると、篠岡を乱暴に引っ張った。

       *


「待って。巣山くん」

肩越しに、保健室に連れて行ってくると言うと、巣山はグラウンドを出た。
篠岡本人の了承も、他の誰の返事も待たず、本校舎への細い道をどんどん歩いていく。
篠岡は後ろから、手当てならここで自分で出来ると言う。
けれど巣山は篠岡の腕を取って、前だけを睨んで進んだ。
自分の利き手を自分で手当てするのは、多分難しい。
後ろを気にする素振りもない巣山に、篠岡は殆ど小走りで付いて来た。

「ねえ。もうわかった。引っ張らなくても行くから、だから、手」
「……」
「巣山くん。…手、痛い…から」

巣山ははっとしたように立ち止まった。
悪い、と小さく呟いて、やっと手を解く。
篠岡は握られていた手首を、左手で撫でた。
傍目に見てもはっきりと、指の跡が残っていた。

「あそこのベンチ、古いから背の部分が少しヒビ入ってるんだね」
「あれに引っ掛けたのか」
「うん。虫に驚いて。慌てて手を突いたら、ちょうどヒビのところで…」

言い掛けて、突然、篠岡が足を止めた。

「あ、大変! 私、みんなにベンチのこと注意してって言ってない!」
「必要ない。部員はもう皆知ってるから」
「え。知ってて放っておいたの?」
「悪い」
「ううん。これまで誰も怪我しなくてよかったぁ…」

ベンチのヒビのことを篠岡が知らないなんて、思いもよらなかった。
部員は当たり前のように知っていることだ。
なんとかしないとと、以前から皆言いながら、日々の練習の忙しさに取り紛れて、放っておいた。
それで、篠岡がこんな風な怪我をするなんて。

「…平気にしてたつもりなんだけど。どうして、わかっちゃったんだろう」

ひとりごちるように言うから、巣山は内心で自嘲を浮かべた。
あれだけ篠岡のことばかり考えて、意識していれば、嫌でも気付く。
視線を逸らしたまま呟いた。

「どうしてもなにも。バレバレだ」
「そっか…」

篠岡は俯いて、ゆっくりと右手を開いて見せた。
緩く結んでいた右手の指先。
傷口から指の付け根の方まで血が伝って、赤い線が伸びていた。
掌や指の付け根に付いた血は、少しずつ乾いていたが、指先はまだ赤い色が鮮やかで、巣山は思わず顔を顰めた。

巣山は噛み締めた歯の間から、重い息を押し出した。
口中に苦いもの感じる巣山に、篠岡は場凌ぎに照れ笑いを浮かべた。
――そのふわりとした表情に、気を取られる。
腹の底で熱い、強い、大きく荒れた感情が込み上げて、巣山は奥歯で舌をきつく噛んだ。
その痛みが、どこか他人事のように遠い。

感情を殺そうと、篠岡から意識を背けようとするのに、どうしても目が動かない。
篠岡の細い指、白い肌と赤い血のコントラストが、視線を縫いとめたように捉えている。
巣山の付けた指の跡に、自分の指先を合わせている篠岡が、まるで子供のように無邪気で苛々する。
おそらくなに一つ深く考えられていないだろう仕草に苛々する。
なにげない仕草のはずなのに、巣山の意識を誘って根こそぎ奪っていこうとするようで苛々する。
どうして。
どうして、こんなに苛々するんだ。
自分のことがわからなくなる。

「巣山くん?」
「…なにが、大丈夫なんだ」

巣山は自分でも無意識のうちに篠岡の右手を取り、自分の目線まで引き上げる。
わずかに屈められた指先を、強引に開かせる。
指先にぬるりとした感触が伝う。
自分の親指を染める赤い色。
頭の芯が篠岡の血の色に塗込められていくようだ。
熱い。眩暈のしそうな、強い感情が襲う。
――これは、なんだ。
自分の思考を確かめるように、乾ききらない傷口を指の腹で強くゆっくりと辿る。

「痛…っ」

篠岡の小さな悲鳴。
傷口が開いたらしく、また新しい血が滲んでくるのがわかる。
止めなければ。
手を離さなければ。
わかっている。けれど。
篠岡の指先に絡めた手が、それを嫌がる。
まるで別の生き物のように、巣山の手は篠岡の指先を求めて絡みついていく。
自身を強く惹き付ける衝動に、しかし巣山は抗って、ようやく強く掴んだ篠岡の手を離した。

「巣山くん…?」

ごめんと謝って、なんでもない顔で笑えばいい。
行こうと、当たり前みたいに歩き出せば、今なら篠岡は、この違和感をいずれ忘れるだろう。

けれど、それがどうしてもできなかった。

視線を合わせられず、そっぽを向いたまま、ゆるゆると下ろした自分の掌を見る。
指先を擦り合わせると、少しずつ乾き始めた部分の血が、徐々にその色を褪せさせて、かすかにごわごわとした。
傷口を強く辿った親指の腹だけは、まだ乾かない。
べったりと付着した血液が、未だ生々しい赤色をしている。
濡れて、目に痛いような赤い鮮やかな照り。
ぬるぬるとした、その触感。
巣山は目を閉じる。
瞼の裏に差す、篠岡の血の色。
神経が甘く痺れる。

篠岡の傷口に、もし口付けたとしたら。

そんな仮定が脳裏に一瞬過ぎる。
乾きかけた赤い血の跡に、唇を押し付けるようにして舐めたら。
さっきまで手の中にあった、篠岡のさらりとした肌の触感と温度。
口の中に広がる鈍い鉄の味を思って、巣山は足元を睨んだまま小さく瞬いた。

オレはいつから、こんなにおかしくなった?
軋むほど握り締めた掌が、その思考のように徐々に重く痺れる。
…いや。最初から、真っ当じゃないのか。
思わず醜い自嘲が湧いて、冷たい笑みがかすかに口許を覆った。

「篠岡」
呼ぶと、篠岡はぱっと顔を上げた。
少し不思議そうな表情が、上目遣いでこちらを見上げる。

そう。この表情を、オレはいつからかずっと、歪ませてみたいと思ってきたのだ。
巣山は堪えてきたものが全て消し飛んで、強引に篠岡を引き寄せる。
腕を掴まれて、篠岡は戸惑ったように視線を揺らした。

「な…に…」

突然のことに逃れることもできず、篠岡は小さく身じろぐ。
咄嗟に胸元に寄せた腕を、巣山は苦もなく捉えた。
さっきと同じように、切り傷のある指先をもう一度開かせる。

「痛…いよ。巣山くん」

いやに喉が渇く。
無理やりに唾を飲むと、ごくりと喉が卑しく鳴る。
頭一つ近く低い篠岡に俯いて顔を寄せ、その掌にそっと唇を落とす。
一瞬、篠岡が息を飲んだのが、至近でした呼気で伝わった。
唇で優しく覆うように、口内に篠岡の指先を閉じ込める。
最初は舌先で、指の付け根の血の跡を舐めた。

「や…っ」

白い肌から染みを拭うように、傷から伝った血の跡に舌を這わせる。
それから徐々に傷に近付き、やがて舌全体でゆっくりと傷口を舐めた。
ぴちゃ。
水音に、篠岡は我に返ったのか小さく首を振って嫌がった。
舌の先を尖らせて、傷口をぐいと抉る。

「いっ…た…」

腕を引こうとするのを更に強い力で制す。
細い指の節を口腔全体で包むようにして、ゆっくりと舌で辿りながら唇から離した。
また水音が立った。
ごくかすかなのに、耳の奥まで届いて、鼓膜を内からとろかすような音だ。
今度は爪の形を辿る。
小さな爪はきれいなピンク色で、唾液にまみれて薄曇りの空の下で光る。
卑猥さに全身が粟立ちそうになる。
またすっぽりと指を口内に誘い入れ、傷口をそっとこじるように歯を当てる。
下顎を軽く揺らすと、篠岡がその顔を歪める。

「痛い…っ やめて…!」

口全体をすぼめるようにして、指を吸った。
血の味が巣山の意識をますます侵していく。
全身の熱が一点に集中していく。

「や…めて…っ」

篠岡はもがくが、腕を捉えられていて、わずかしかその身を離せない。
巣山の脳裏で、赤い色がシグナルのように明滅している。
奔流のような衝動。
今更、押し留められない。

「巣山くんっ!」

今にも泣き出しそうな声と共に、頬に鋭い痛みが走った。
篠岡が闇雲に拘束を逃れようとして、その手が巣山の頬を叩いたのだ。
二人は一瞬、驚いたように動きを止めた。
やがて肩で息をするように篠岡が呟く。

「どうして、こんな…」

巣山は篠岡の手を唇からゆるゆると解放する。

「こんなの、おかしいよ」
「ああ。そうだな」

巣山は静かに肯定する。目の前が暗くなる。
篠岡の血の色が、巣山の押し隠してきた理性を剥奪してしまった。
たかが指先の先に出来た、小さな傷。
大して深くもない傷口一つに、こんなにも弄ばれてしまうなんて。
――欲情するなんて。

「おかしいんだよ、オレは」

巣山の指先が、柔らかい手首の肌に一層きつく食い込んだ。
篠岡の瞳の奥が音もなく竦む。
巣山はそれらを他人事のように見つめる。

「…すやま…くん」
「もうずっと、おかしかったんだ。篠岡」

その告白は、巣山自身の耳朶にも言い知れない情感を巻き起こした。
吐き出した息がみっともなく震える。うまく息が継げない。
目を閉じて、篠岡の肩口に縋るように額を付ける。
懸命に最後の理性を呼び起こして、巣山は篠岡の手を繋ぐ腕の力を緩めた。

いっそ汚いものでも見る軽蔑の目で、非難の言葉を投げつけられる方が救われる。
篠岡にかけられた巣山の手は、今はここになにかを繋ぎ止めるような力はなく、静かに触れているだけだ。
しかし篠岡は巣山の腕から逃れず、凍りついたように、その場にじっと立ち尽くしていた。



一体なにをしているんだろう。オレは。
巣山は急激に冷めていく自身に、また自嘲を覚える。
それまで煮えたぎるような熱にうかされていたのが、まるで嘘のようだ。
今は全身の血が足元から地面に流れ出した後みたいに、体中が冷えている。

一度、堰を切ったこの感情を、どうやって殺せばいい。
もしこの感情を押し留める方法があるなら、教えてくれ。篠岡。
自分が隠し続けてきた、篠岡への醜い感情も。
篠岡にした、この行為も。
もう、見て見ぬ振りも、なかったことにもできない。

もう、オレにもどうすればいいかわからないんだ。

自分の欲望を剥き出しにして、一方的に押し付けて。
この、みっともない自分を。

「――哂えよ」

胸が押し潰されたように痛んで、今はただ、苦しかった。
最終更新:2008年10月28日 22:30