8-642-246 スヤチヨ(続手フェチ)2
『しのーか、あんたホントに彼氏いないの?』
元ソフトボール部の先輩は、連絡をしてくる度、同じことを訊く。
実際いないのだから、何度聴かれても、いないとしか答えようがない。
すると先輩は納得がいかないというように、必ずこう続ける。
『でも好きな人くらい、いるんでしょ。誰? どのポジションの子?』
飽きもせず繰り返される追及に、篠岡はすっかり呆れている。
野球部の皆は、同じ目標を追う仲間だ。
篠岡自身はグラウンドに立つことは出来ないけれど、自分も一緒に戦っていると思っている。
彼等の目標を実現できるよう、一番近くで彼等をサポートする。
それがマネージャーとしての、篠岡の仕事だ。
少しでも役に立ちたい。そう思っていると、やるべきことは尽きない。
毎日野球のことだけで忙しなく過ぎていく。
恋愛にアンテナを立てる余裕なんか、あるはずがない。
あるはずがない、と思っていた。
*
『しのーか。ホントは好きな人、いるんでしょ?』
耳慣れた問いに、篠岡は一瞬胸がぎゅっと引きつれて、咄嗟に言葉が出なかった。
胸の奥が竦んだことに、驚いて目を瞬いた。
『お。今日は『いませんよ~』って即答しないんだ?』
「…言い飽きちゃっただけです。先輩しつこいんですもん」
おどけて、笑った振りをした。
声がたどたどしい緊張を帯びたことに、先輩は気付いただろうか。
篠岡は全身を強張らせるように、携帯の向こうに神経を尖らせた。
『あーあ、つまんない! 一体いつになったら、しのーかの恋愛話が聞けるやら』
「たとえそんな話があっても、先輩にだけは喋りません」
『なにおう! 先輩が折角相談に乗ってやろうって言ってんのに!』
先輩の相変わらずの応答に、篠岡は少し安堵して笑みが浮かんだ。
先輩から電話が掛かってきたのは、そろそろ寝ようと思っていた矢先のことだ。
部屋の主照明は既に落としてあり、ベッドサイドのライトが間近で眩しい。
篠岡は寝転んだまま腕を伸ばし、ライトの角度をいじる。
指先を光にかざし、篠岡は、また、胸の奥がずきんと竦むのを感じた。
右手の指先、中指の腹から第一関節にかけて、一筋の小さな傷跡が残っている。
もう完全にふさがった傷跡は、けれど触れると、ピリリと電気が走るような気がする。
『しのーか?』
「…先輩。先輩は今付き合ってる彼氏、なんで好きになったんですか?」
『なに、突然』
「別にどうもしませんけど。ただどうなのかなぁって」
『そうだなぁ。…そうやって改めて訊かれると、なんでかなぁ』
一瞬落ちた沈黙に、篠岡は聞き耳を立てた。携帯の向こうから照れを隠した声音が返る。
『まあ馬鹿で考えなしだけど、困ったことに憎めないイイ奴なんだよ。優しいしさ』
「優しいんだ」
『ちょっと、しのーか。あんた今日やっぱり変だわ。
ホントに誰か好きな人出来たんじゃないの? 正直に教えな!』
「いても教えませんって!」
即答して、いつも通りを装う。
共通の友人の話や近況に話をすり替え、他愛ない遣り取りをする。
しばらく話して、話し好きの先輩が満足した頃、通話を切った。
篠岡は携帯を放り出し、もう一度、右手の中指の傷跡をゆっくりと確かめた。
その傷は、しばらく前のものだ。
グラウンド脇のベンチが傷んでいて、知らずにヒビに指を取られてしまった。
大した怪我ではなかったが、それを見た巣山は篠岡を強引に保健室へと引っ張った。
そして、傷口を舐めたのだ。
掌に唇を付け、乾きかけた血の跡を舐め、
指の付け根にたまった血を舌先で掬い。
指を這い上がってきて、篠岡の指を口内へ引き入れた。
舌全体で指を包み、尖らせた舌先が傷口を抉ってくる。
痛みと共に襲う眩暈に、篠岡は最初、殆ど声も出なかった。
濡れされていく肌に伝わる、ざらりとした舌。
時折、粘膜の立てる、いやらしいかすかな水音。
あたたかい口内の、ぬめるような触感に、篠岡は体中が震え、頭が真っ白になった。
やめて、という言葉は、我ながらうわ言のようで、巣山の耳には届かない。
巣山の手から逃れられたのは、もがいた拍子に半ば引っ掻くように巣山の頬を叩いたからだ。
それまで呆然としていた篠岡は、はっとした。
混乱したまま、謝らなくちゃと思った。
けれど、口を突いたのは、嵐のように襲う疑問だった。
――どうして、こんな…
篠岡の問いに、巣山はやっと篠岡の手を離した。
――おかしいんだよ、オレは。
――もうずっと、おかしかったんだ。篠岡。
低く、今にも震えそうな声で。
痛みを堪えたような表情を湛えて。
――哂えよ。
巣山は、篠岡に向かって、小さく、笑った。
そんな巣山を初めて見た。
かすかに歪んだ頬が、引き攣るように尖った目元が、篠岡を捉えて離さない。
篠岡は魅入られたように言葉も出ず、体の重心を失ってその場に蹲った。
あの時、偶然遅れてグラウンドに来た栄口が、遠くから声をかけてくれなかったら。
自分はどうしていただろう。考えるのは怖い。
巣山は栄口が自転車でやってくるのを待たず、篠岡を保健室へ送ってくれと声をかけた。
「いいけど、どうしたの」
栄口は言いながら、すぐ自転車を降りてくる。
巣山は篠岡を振り返ろうともせず、自転車のカゴから栄口の鞄を引っぱりながら言う。
「ちょっと手、切って。チャリで送ってって」
「わかった。篠岡、大丈夫? …血見て貧血起こしちゃったかな」
栄口が覗き込んでくる。篠岡は俯いて首を振った。
右手をぎゅっと握る。左手で胸元に隠すようにして立ち上がった。
栄口の手がそっと背に添えられる。
「大丈夫。なんでもないよ」
自分に言い聞かせるように答えた。
自身の内に波立つ動揺を、悟られたくなかった。
怪我はなんでもなかった。
なんでもなくなかったのは、心の動揺の方だ。
あの時のことを思うと、今でも中指の先が熱く痺れる。
今ではかさぶたも取れ、肌にかすかな跡を残しているだけの傷跡なのに、どうして。
篠岡は息を吐いた。
あれ以来、巣山とは口を利いていない。
元々、巣山は無口な方で、篠岡とも特に親しいという訳ではなかった。
けれど、ここまでではなかったはずだ。
以前なら、当たり前に視線は合ったし、それなりに話はできた。
でも今は、視線も合わない。
巣山はあれ以来、完全に篠岡を避けている。
周囲にそれとわかるような避け方こそしないが、それとなく篠岡の近くから離れ、
篠岡の視線からふいと逃れていく。
あの時の行為の意味を聞きたかった。
そして意図的でなかったとはいえ、頬を叩いたことを謝りたいとも思った。
けれど、巣山を見ていると、距離を置かれていることすら、篠岡の勘違いのような気がしてくる。
巣山は終始、平静を貫いている。
部の練習も相変わらず集中していて、特に変化がある様子も見つけられない。
巣山はいつも通りで、なにごともなかったようにそっけなかった。
その横顔はまるで、あの時の行為を意識している篠岡の方が、よほどおかしいと言っているようだ。
篠岡はかすかに残った傷跡を、爪の先でそっと撫でた。
くすぐったいような感覚に、篠岡はゆっくりと目を閉じる。
あの時。
巣山の手が、自分の掌をどう掴まえ、どう引き寄せたか。
落とされた唇がどのように自分に触れ、指先まで這い上がったか。
濡れた口内のあたたかさ、かすかに触れた歯の硬さ。
そして纏いつくように触れた舌の腹の柔らかさと、なにより尖らせた舌先の蠢きを、
篠岡は今でも鮮明に覚えている。
というより、時が経てば経つほど、その記憶は鮮明に蘇り、篠岡を困惑させた。
『しのーか。ホントは好きな人、いるんでしょ?』
さっき携帯越しに先輩に聴かれた言葉を思い出す。
無意識に屈めた右手を口許に寄せて、篠岡はそっと中指の先に口付けた。
先輩は付き合っている相手のことを、憎めないいい奴だと言った。
『馬鹿で考えなしだけど、優しい』。
好きというのは、きっとそういうことだろう。
多少不満があったとしても、優しいとか、尊敬できるとか、思えるから好きになる。
篠岡は唇を離し、もう一度、中指の傷跡を爪先でなぞる。
あの時のことを何度思い出してみても、篠岡の内に湧き上がるのは、困惑と、
あの時感じたわけのわからない恐怖だけだ。
だから、これは、「好き」じゃない。
「好き」ではないはずだ。なのに。
どうしてこんなに身体が熱くなるの――?
篠岡はぎゅっと目を閉じて、中指の傷跡をきつく噛んだ。
あの日、巣山がしたように、柔らかい掌の皮膚に唇を落とす。
今は無い赤い跡を、唇で掠めるように軽く吸い、血の溜まっていた指の付け根に舌先を捻じ込む。
強弱を付け吸い、濡れた音を立てて舐められた感覚が過ぎり、頬が紅潮するのを感じる。
篠岡の羞恥は、急き立てられるように脳裏に追いやられていく。
いやらしく舌を出し、舌全体で指を這い上がる。
中指の先に辿り着き、舌を尖らせて傷跡を舐める。
前歯で軽く甘噛みすると、身体の奥がじんと痺れた。
「ふ……」
甘い息が洩れる。
指を口に咥え、強く吸う。
震えに似た感覚が、徐々に身体中に広がってゆく。
切なさが膨れ上がり、胸がいっぱいになる。
篠岡は思わず胸を押さえた。
胸のふくらみはささやかで、掌に納まってしまう。
躊躇いながら、布地越しにかすかに指を這わせると、身体は敏感に反応し始めた。
苦しいような感覚を追って、篠岡は更に手を動かした。
弱い吐息が零れる。
柔らかいふくらみは、指を埋め、掌の中で形を変える。
胸の突起は主張するようにしこり、引っ掻くように触れると、篠岡の身体はひくりと震えた。
身体中が、どうしようもなく甘い波に襲われてゆく。
「ん…っ、は…ぁ」
全身が熱くなっていく。
はしたない。恥ずかしいと思いながら、止められない。
服の下に掌を差し入れ、直接肌に触れた。くすぐり、官能を煽る。
無意識に膝の内側を揺するように擦り合わせて、篠岡はいつしか奥底から溢れてくる快感を追っていた。
太腿の内側をゆっくりと撫でてゆく。
膝がしらず開いて、早くとその先をねだって腰が揺らめいた。
「んん…っ」
下着のすき間から、ゆっくりとそこに手をしのばせる。
少し触れただけで指が、くちゅ…と、いやらしい音が立った。
「は…」
躊躇いの残る指先は、濡れたそこに滑るように誘い込まれる。
あたたかい中に触れるのは、少し怖い。
指の先でぬめりを掬い、隠された突起を掠めると、身体がびくんと跳ねた。
「あ…っ、ぁ」
足元から頭の先まで快感が這い上がる。
全身が粟立って、篠岡は身震いした。
「んん…っ、ぁ…」
身体中が熱い。
浅ましく快楽を求めようとする自分が恥ずかしくて、堪えなければと脳裏では思っている。
けれど襲う官能と、もどかしさは篠岡を支配して、ただ何度も身体を捩らせる。
思考が奪われて、ただただこの先が欲しくて、仕方ない。
「はぁ、あ…、ん…」
掌は篠岡の意思を奪うように触れていく。
首。胸。腹。くびれた細い腰。足の柔らかい内側。
かたくなって敏感に反応を返す小さな芯。
そして、誰にも触れさせたことのない、柔らかく濡れた最奥。
篠岡の身体のあらゆる場所を、指先は這い回る。
まるであの時、巣山が掌に触れ、吸い、舐め、愛撫したように。
奪われる思考と反比例するように、官能は次第に昂ぶり、篠岡は自らを追い上げ、上り詰めていく。
「や…、あぁ、あ、あ…」
吐息を零す喉も、愛撫する手指も、がくがくと震えて止まらない。
真っ白になる思考に、不意に巣山の声が蘇る。
――おかしいんだよ、オレは。
鼓膜を溶かすような囁き。
まるで狂気に誘われるように篠岡の快楽は頂上に達し、びくんと爆ぜた。
「あぁ…、――っ」
*
あの時。痛くて、怖くて。どんな顔をしていいのか、どんな風に接していいかわからなくて。
頭の中がめちゃくちゃになった。
それなのに、篠岡は気が付けば、あの時のことばかり思い出している。
怖くて、思い出すのも今でも震えそうなのに。
巣山のことばっかり考えてる。
どうして、あの時、巣山くんはあんなことをしたのだろう。
巣山はなにもなかったように、平然としている。
自分ばかりが、今になっても、ぐちゃぐちゃにかき乱されている。
あの時のことを思い出して怖いと思いながら、訳がわからないと思いながら、
巣山の手が、唇が触れてくる想像をやめられない。
いやらしい行為を、また繰り返してしまう。
「…おかしいのは、私の方だよ…」
まだ整わない息を苦しそうに肩で継いで、篠岡は両腕で顔を覆った。
最終更新:2008年10月28日 22:32