9-130-138 チヨ→アベ3
2月も半ばになり、だんだん日暮れが遅くなってきていることを実感していても
部活を終える時間にはすっかり暗い。
野球部の部室前では着替えをすませた部員たちが
まだ出てこない仲間を待ちながら適当に喋っていた。
吐く息がいくつも白くたちのぼる。
巣山や沖と何やら楽しそうに会話している篠岡の視界から外れたところで
水谷が阿部にそっと声をかけた。
「あべー、しのおかから貰ったチョコ、どんなだった?」
「は? おまえも同じの貰ってるだろ」
「本当に同じやつ? 見せてよー」
「なんでンなこと気にするんだ。ほら」
「ホントだー」
そんな二人のやり取りを横目で見ていた泉が三橋に言った。
「そういえば三橋、結構な数もらってたよな」
「一番多かったのはオレだけどなー!」
「えっ あ、うん、田島君が 一番!」
「三橋ー、食うなとは言わねーけど、食った後はしっかり歯ァ磨けよ!」
「う、うん!」
後ろから不躾に飛んできた阿部の声に背筋を伸ばして答える三橋。
苦笑いしつつ見守る栄口。
いつもの光景だった。
「なー、三橋は好きな子からもらえたか?」
田島からの質問に三橋は頭をウーンウーンとゆっくり回転させて考えてみた。
今日チョコをくれた人はたくさんいたけれどそのほとんどは名前も知らない女の子たちだった。
それでも順番に思い浮かべた中によく知った顔があったのでそのまま口に出した。
「し、篠岡 さんっ、」
誤解されそうな言い方だな、と泉がフォローを入れるより先に田島が大声で叫んだ。
「三橋はしのーかが好きなんだな!」
なんの前触れもなくいきなり炸裂した爆弾発言に驚き振り向いた篠岡は
声の主である田島や当の三橋よりも先に、彼らのすぐ後ろに立っていた阿部と目が合ってしまった。
三橋と付き合うと言いつつ身体を重ねた3ヶ月前のあの日のこと、
はっきりした言葉もないままずるずると関係を続けたそれからの日々のこと。
泣いたこと、笑ったこと。
いろんなことが頭の中を駆け巡ったが、時間にすればほんの3秒ほどだったかもしれない。
先に目を逸らしたのは阿部だった。
「た、た じまくん、ち ちが、ちが……」
部員たちが注視する中、真っ青になって震えていた三橋は
居たたまれなくなり逃げ出そうとしたが、その腕を田島にがしっと捕まえられた。
「しのーか! 今付き合ってるヤツとか好きなヤツいんの?」
今度は篠岡に視線が集まる。
少しだけ目を伏せてから顔を上げ、はっきりと言った。
「どっちもいないよ」
「……ウソだ」
水谷から漏れたつぶやきを聞いたのは隣にいた阿部と栄口の二人だけだった。
「じゃあさー、三橋と付き合わねーか?」
「うん、いいよ!」
「かるっ!」と間髪入れず泉から入ったツッコミに異を唱える者はいない。
教科書貸して、といわれた時と大差ない返事に栄口・巣山・沖は冷や汗を垂らした。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「なんだ、水谷もコクんの?」
「そ、そうじゃなくて……
しのおか、好きなヤツいるよね?」
「……え?」
「オレ、見てたから……わかったんだ」
それは告白してるも同然だろうと幾人かは心の中で涙した。
水谷の発言の真意は計りかねるが、何かを知っているわけでもなさそうな様子に安心した篠岡は
ゆっくり歩を進めながら言葉を選ぶ。
「えーとねー、正直に言うといたよ、好きな人。
でも去年ふられちゃったから、今はいないんだ。
だからなんの問題もないと思うんだけど、ダメかな、三橋くん?」
田島にガッチリ腕を掴まれ逃げられなくて小さくなり泣いている三橋の正面に回り
目線の高さを合わすようにしゃがみこんだ。
やっとおそるおそる顔を上げた三橋に、怖くないよーと笑顔を見せる。
「ダメ、じゃ ない……」
「よかった! じゃあこれから、よろしくね」
篠岡の差し出した右手に三橋がおずおずと右手を重ね握手したかと思うと
「よっ、と」小さなかけ声とともに立ち、つられて三橋も立ち上がる。
「いろいろお話したいから、一緒に帰ろ!
じゃあみんな、また明日。おつかれさまでしたー」
「おー、おつかれ!」
「お、おつかれ~……」
引きずり引きずられ去っていく二人に違和感を覚える者は少なくなかった。
「うまくまとまってよかったじゃん!」
「田島、今のは」
「そうだな」
何かを言いかけた泉の言葉を遮り、阿部は強引に話を終わらせ帰っていった。
場に微妙な空気が流れる中、部室の戸が開いて花井と西広が出てくる。
「おー、待たせて悪かったな、
……ん? どした?」
「べっつにーい?」
「阿部」
一人自転車置き場へと歩く背中に声がかかった。
ちらっと見やると栄口が小走りでやってきて横に並ぶ。後ろには珍しく不機嫌そうな顔の水谷もいた。
「あのさ、……いいの?」
「──何が?」
「いや、ほら、あの二人……」
「いーんじゃね? これで三橋もちったーしっかりするだろ」
「違うよ、篠岡だよ!
……その、阿部、篠岡と付き合ってるだろ?」
「はあ!? 付き合ってねェよ」
「え? アレ? 違った?」
「なわけねーだろ」
「そっかあ。最近いい雰囲気してたから隠れて付き合ってんだと思ったのになー」
「……」
「……いいの?」
「だから何がだよ。好きなヤツいたっつってたじゃん。オレには関係ねーよ」
「それ……おまえだろ?」
後ろから刺さってきた言葉に足を止め振り返る。
水谷は悔しそうに眉をひそめ阿部を見据えながらもう一度言った。
「篠岡が好きなのって阿部だろ」
「何バカなこと言ってんだよ。ねーっつの」
「──本気で気付いてなかったのか? おまえといる時だけ顔が違うこと……!」
「知るかよ、何か言われたことだってねェし……
……あ?」
阿部は過去の自分の発言と篠岡の反応とを隈無くさらい出す。
顎に手をあて考え込む姿を見て水谷の顔がくしゃりと歪んだ。
栄口が二人の交際を疑うようになったきっかけは、阿部の家の近くで篠岡を見かけたことだった。
元々同中だった篠岡がその辺りにいたところで不思議はない。
それに特別二人でいるようになったり会話が増えたりしている様子もない。
けれどどことなく二人を取り巻く空気が変わっていった。
ゆっくりの微妙な変化だったから巧妙に隠してるなと思ったし
自分以外に気付く者がいるとも思えなかった。
でも水谷は篠岡の想いを知っていた。
きっと、ずっと真剣に見つめていたんだろう。
篠岡のことを。
「し、篠岡さん……?」
突然三橋の声がした。
すぐそこの校舎の角を曲がったところにある自転車置き場からのようで姿は見えない。
三人は思わず息を止めた。
「ご、めんなんでもないよ」
篠岡の声は微かに震えていた。
「……っ、」
「……私、さっきふられたって言ったでしょ。本当はまだちょっと引きずってたんだよね。
でももう吹っ切れた気がする。ありがとう、三橋君!」
「オ オレ は 何も」
「へへっ。それでもいいの。帰ろっか」
「う、うん」
遠ざかる二人の気配が完全に消えてからやっと動き出した阿部は自転車に跨がって独りごちた。
「切られたのはオレの方か?
ま、もうどーでもいーけどな」
吐き捨てるように言った阿部の表情は見えない。
「なんだよそれ! もう諦めんのかよ!
──バカはおまえだ、ばかやろーっ!」
水谷の叫びは夜の闇に吸い込まれていった。
「しのおかも、誰でもいいのかよ、ばかやろう……」
……チ。
全速力で自転車をこいでも頭から冷水を浴びても腹いっぱい飯を食べても阿部のイライラは治まらなかった。
もう寝てやるとベッドに入れば、乱れた格好でココに横たわっていた篠岡が目蓋に浮かぶ。
「クソッ」
観念して起き上がり、3分で日課をこなしてとりあえず一息ついた。
水谷が言っていた篠岡が自分のことを好きだったという話は多分本当だろう。
今なら、実感としてわかる。
愛だの恋だのといった甘い言葉のない体だけの関係だったとしても
互いに求めていたから一度きりで終わらなかった。
回を重ねるごとに大胆になり、練習後の真っ暗な教室で強引に繋がったこともあった。
もしあれが教師に見つかりでもしたら累は野球部にまで及ぶだろう。
このまま流されていくわけにはいかない。ちょうどいい潮時だったってことだ。
篠岡に、本当に好きなヤツができたのなら祝福だってしてやる。
でもそうじゃないかもしれない。
甲子園に行くために三橋をしっかりさせるとかまだ言ってんじゃねェだろうな。
そりゃあ最初に言い出したのはオレだけど、三橋をなんだと思ってんだ。
──というよりもしかして、それを オレ が望んだからか?
嫌な汗がどっと噴き出した。
無意識に目を逸らしていた罪状を突きつけられ、足元が揺らぐ。
盗塁するランナーを刺したと思ったのに刺されたランナーは自分だったなんて、そんな馬鹿な話あるか。
篠岡の暴走を止めなければ──
目を閉じ思案しているとケータイのメール着信音が鳴る。
差出人は三橋だった。
本文にひとこと、『ごめんなさい』。
もう夜遅い時間だったが阿部はすぐさま三橋に電話をかけた。
「どうした、何かあったのか!?」
『あっ、あべ、君……
……ごめ、んなさ い……っ』
「だからどうしたっつってんだろ!」
『ゴ……ッ あ の、し、篠岡、さんっ
阿部君 篠 岡さん、ス、スキなの知って たのに あんなコト……に、』
一瞬ふうっと気が遠くなるのを感じた。
自分ですら今日やっとぼんやり自覚したことをどうして、それも三橋が知っているのか。
「オレァ別に篠岡のこと、なんとも思ってねェから気にすんなよ」
『わかる、よっ、栄口君 シューチャク、なくなってきた て』
「……オレがおまえに執着しなくなったって栄口が言ったのか?」
『うん! オレ……き、嫌われたと思ったけど、ちがう、イイコトだって。
どうしてか見てたら 阿部君、篠岡さん、いつも 見てた……』
「……チ。まー万が一そうだと仮定しても! 篠岡が選んだのはおまえだよ」
『ち、ち、ちがくて、あの 篠岡さん スキなの、たぶん
オレじゃ……ない』
消え入る語尾に三橋の傷を見た気がする。
そもそもあんなことを言い出さなければ付かなかったはずの。
「わり……。
全部オレの責任だ。お前は悪くない。
──明日、篠岡とちょっと話をしてみる」
『うん! がんばって、ね!』
「何をだよ。いーからおまえはすぐ寝ろ。明日遅刻すんじゃねェぞ」
4時限目の終了を告げるチャイムが鳴り、1年7組の生徒は三々五々理科室を後にした。
黒板を消す日直の篠岡をしばらくじっと眺めていた阿部は
大方の生徒がいなくなった頃合いを見計らって教卓を挟んで話しかけた。
「おい」
篠岡は手を休めることなく、黒板に向かったままのんきな声で答える。
「はぁいー?」
「ちょっと聞きてェことがあんだけど」
「なにー?」
話しかけられてるのにこちらを向こうともしない篠岡は初めてだった。
顔を見るのも嫌ってことか。
阿部は腕を組みじっと待った。
残念だったな、待つのは慣らされてんだよ。
黒板はきれいになりチョークも揃い、することのなくなった篠岡は仕方なく振り返った。
教室内にまだクラスメイトが数人残っているのを見てほっとした色が見て取れる。
人目があれば話がおかしな方向へ流れることもないだろうと安心したか。
阿部の表情は声のトーンに違わず厳しい。
「前にオレが言ったこと、真に受けてんじゃねーだろうな」
「……阿部君はそういうことには無頓着な人だと思ってたんだけどな」
「おまえがオレをどーゆー人間だと思ってんだか知らねェが
返答次第では力ずくでも止めさしてもらう」
「止めない場合もあるんだ」
「本気であいつの未来を背負うつもりなら止めねーよ」
「野球部の未来は?」
やっぱり、そっちか。
阿部は眉間の皺を一層深くし、はーっとため息をついた。
傍目にもわかる険悪な雰囲気で対峙する両名を不安そうに見つめる女子生徒たちを
水谷はそっと理科室の外へと連れ出した。
「ちょっと部の方針について話し合ってるだけだから心配ないよ!」
得意のニッコリスマイルで廊下の角を曲がるまで見送り、他にはもう誰もいない中へと戻った。
篠岡は唇をきつく引き結んで少し泣きそうな顔で阿部を鋭く見つめていた。
それを居丈高に眺める阿部。
どうしてこんな男がいいんだよ。どうしてこいつの前でだけそんな顔をするの。
「野球部の未来なんて誰かが背負うモンじゃねェ。
中途半端な気持ちなら三橋から手を引け!」
「……っ!」
出入り口を塞ぐようにして立つ水谷の背後に人の気配がした。
「阿部、と篠岡? 何があったんだ」
「しのーかー? 大丈夫かー?」
いつの間にか花井をはじめとした野球部員が全員集合していた。
にらみ合う阿部と篠岡はそれに気が付いているのかいないのか。
「……私にできることがあるならどんなことでもしたい。支えになりたいの」
「おまえはもうマネジの仕事を充分にやってるだろ」
「もっともっとがんばりたいの!」
「なんのためにだよ。自分や人の気持ち無視してまでやることかよ!」
「阿部君にそんなこと言われたくない!」
篠岡の大きな瞳から涙が一粒零れ落ちた。
頬を紅潮させ怒りを露にする彼女に一同は息を呑んだ。
ここまで負の感情をむき出しにする篠岡など見たことがない。
女子の涙に免疫のない阿部はひたすら焦るばかりだった。
「~~わ、悪かった。謝るから、泣くな……」
「泣いてない!」
「チ、どー見たって泣いてんだろ……あ。」
「……なに?」
「イヤ、前も見たけど確かにこうじゃなかったな」
仲裁に入るタイミングを伺っていた花井たちの頭にハテナが浮かんだ。
「前にも?」
「篠岡が泣いたの見たことある?」
「ないない」
顔を見合わせた一同が再び篠岡に視線を戻すと
彼女はあり得ないくらい真っ赤になって震えていた。
「……どうして今そんなこと言うの!?
阿部君のえっち!!!」
篠岡の渾身の叫びに数人が半歩後ずさり、阿部はがっくりと肩を落とした。
「おまえな~~今のリアクションでバレたぞ」
「へ? え?」
篠岡は周りを見渡して初めて野球部員が勢揃いしていることに気付いた。
誰も彼女と目を合わせようとしない。
「いや~~~~~~~~!!」
目にもとまらぬ早さで走って理科室を飛び出していってしまった。
深くため息をつく阿部に花井が言った。
「話が全く見えねーんだが……」
「まとめると、阿部が、みんなのマネジに三橋と付き合うよう勧めてるうちに
エッチと罵られることをして泣かせて、今日また更に泣かせたということだね」
「~~そこまで言うかよ西広……
三橋には悪いことをしたと反省してる。ごめん」
阿部は深々と頭を下げた。
「あ、べ君……」
「阿部はしのーかのことが好きなのか?」
「あー、たぶん。でも付き合いたいとかそーゆーのは思わねーし
篠岡が誰と付き合おうと勝手だけど、いい加減な気持ちで引っ掻き回されるのは迷惑だ」
「痴話喧嘩かよ、クダラネー。オレは帰るぜ」
泉が退室するのを受けて巣山・沖・西広も出て行った。水谷は既にいなかった。
「チ、勝手に来といて何言ってんだあいつ」
「なんだよー、取っ組み合いの喧嘩してるっつーから飛んできたんだぞ!」と9組の田島。
「オレは野球部内戦勃発って聞いた」これは7組の花井。
「うちは野球部解散の危機だと」1組は栄口。
「ちょっと喋ってただけだっつうの……」
苦虫を噛み潰したような顔をして唸る阿部に田島が鋭い視線を投げ掛ける。
「でもしのーか泣かしたのはホントだ。どうすんだ、このまま放っとくのか?」
「オレが追いかけるわけにいかねーだろ」
バツの悪そうな阿部と目が合うと三橋はぱちぱちっと数回瞬きをした。
……オレですか?と背後に文字が書いてあるように見えた。
「オ オレ 篠岡さん スキじゃ、ない」
「はあ!? 昨日好きだっつったろ」
「ス、スキだっ」
「どっちだよ!」
「阿部、落ち着けって」
「オレの スキ……田島君 花井君 栄口君、篠岡さん ほかのみんな
同じ スキ だから 阿部君とちがう。
篠岡さん、スキなのも オレ じゃないカラ……最初から何も ないんだ! よ!」
「~~ンだよそれ!」
脱力してへたり込む阿部に栄口が笑った。
「行きなよ、阿部」
「どこにいるかもわかんねーのに?」
「もう見つけてるんじゃないかな」
栄口はケイタイを取り出した。
低い雲から小雪のちらつく中、第二グラウンドまで走ると泉・巣山・沖・西広がたむろしていた。
「篠岡いた?」
栄口の質問に巣山は黙って少し離れたところにあるベンチを示す。
両手で顔を覆い座る篠岡を水谷が必死になだめていた。
「し、篠岡さん……」
降ってきた声に顔をあげた篠岡の顔は涙でグチャグチャだった。
「三橋君、ごめんなさい、本当にごめん、なさい……」
「篠岡さん、があや、あやまることない よ!
オレ、大丈夫! みんな、みんながオレのこと 大事に思ってくれてるって わかってる」
「三橋君……ごめんなさい」
「悪いことしたってわかってんならもういーよ」
冷たく言い放たれた阿部の言葉に篠岡は身を固くする。
阿部はうつむいたままの篠岡の肩にかけられたガーディガンを剥がし水谷に投げつけて
無言で自分のセーターを脱ぎ、頭から乱暴に被せた。
「わっ。阿部君……?」
そのまま何も言わずどっかと隣に腰を下ろす。
色々言ってやりたくて仕方のない水谷だったが敢えて呑み込み、三橋を連れてベンチを離れた。
「おかえり、水谷。おっつかれさん」
「さかえぐちぃ、すやまぁ。オレ泣いていーかな~」
「おう、泣け泣け!」
「三橋! 大丈夫か?」
「それでいいのか?」
「うん!!」
篠岡は項垂れ阿部は天を仰ぎ。ベンチは静寂に支配されていた。
向こうでバカ騒ぎしている部員たちの声が聞こえる。
「……さ、寒いでしょ。これ、」
「着とけ。いーから」
篠岡は黙ってセーターに袖を通すと身体を包み込む阿部の体温を感じて目を細めた。
「あのな、オレは篠岡のことが好きだ。
でも、付き合ったりすることはできねー。理由はわかるよな?」
「うん、たぶん……」
「今は野球に集中したい。っつーか──自分があんなに見境なくなると思わなかった」
「……本当にごめんなさい……」
「ちげえよ!!」
思わず出してしまった大声に篠岡はきゅっと肩をすくませた。
さっと注目されたのがわかったので手の平を見せて侵入を阻止しておく。
やっぱ監視、されてんだよな。信用ねーなオレ。
ま、無理もねーか。
みんな篠岡のことが心配なんだ。大事な仲間泣かしたら怒るのも当たり前だ。
「……わり。責めてるわけじゃなくて──自分にイラついてんだよ。
それに、謝んならオレの方だろ。最初にバカなこと言い出したのはオレだ」
「でも私はそれを利用、したよ」
「利用されてることを利用した。そこはお互いさまだ。
もし全部終わって──……イヤ、やめとくか。
篠岡は彼氏作れよ。本当に好きな男見つけてさ」
「無理だよ。私ずーっと前から阿部君のことが好きだったんだもん」
憑き物が落ちたようにリラックスして笑う篠岡が眩しい。
「そっか」
「もしかして知ってた? 私の気持ち」
「んー、まーな。ずっとってのは初耳だけど。
つかそういや最初の日に言ってたじゃん、ココで」
阿部は自分の耳をトントンと指してニィッと意地悪な笑みを漏らした。
「う、うそ……」
「あん時の篠岡はかわいかったな、スゲー緊張してたし」
「お、お、お願いだから忘れて、阿部君!」
涙目の篠岡が身を乗り出して懇願してくると阿部の余裕もなくなってくる。
何しろ真っ赤な頬と潤んだ瞳はあの時の劣情を否応無しに引き寄せるのだ。
改めて意識し始めるとどんどん感情の波が溢れてくる。
ヤベー。好きだ。
阿部が手をのばして篠岡に触れようとすると、気配を察したのか
彼女はぱっと立ち上がって離れた。
「だめだよー」
にこおっといつものマネジスマイルが少し恨めしい。
イヤイヤ、もーしねーって決めたんだから!
頭を振って立ち上がると篠岡が素軽く近寄って小声で言った。
「アレ、どうして持ってたか教えてあげよーか」
アレって、アレか。篠岡が持ってたゴム。
「監督がくれたんだよ! 自分の身体は自分で守りなさいって」
「マジでか!
あの人は~~~~どこまで知ってんだ……」
「さあ。もしかして全部知ってたりしてね。あははっ」
教え子のことは総て把握してそうなカントクも怖いがそんな話を屈託なく笑いながらする篠岡もコエー。
遠巻きにベンチを見守っていたチームメイトは、来た時とは打って変わった明るい表情で戻ってきた二人に
ほっと胸をなで下ろした。
「あの、今日はいろいろ迷惑かけて本当にごめんなさい! それと心配してくれて、ありがとう」
男物のセーターを着た篠岡が見慣れない女の子の顔で笑うので少し寂しい気分になったのは秘密だ。
「お、おう、仲直りしたのか?」
「仲直りっつーか……まーそっかな。元に戻ったわけだから」
「付き合うんじゃないの?」
「な暇ねーよ。甲子園行くんだぜ?」
「おお、そーだな!」
「こ、甲子園!」
「……なんなんだよそれええ阿部ー!!」
「コレで付き合ってねーとかよく言うぜ……」
「したいことするのに形式にこだわる必要はないよ」
「西広今日何気にキツくないか?」
「女の子を泣かせる男は許せないらしいよ」
授業5分前を知らせるチャイムが広いグラウンドに鳴り渡った。
いつの間にか青空が見えていた。
「お、予鈴か。走るぞ!」
「おおっ!!」
野球部員は元気に駆け出した。
4人が7組の教室に駆け込むともう一度チャイムが鳴った。
「ぎりぎりセーフ!」
「さっさと座れ野球部! 授業始めるぞ!」
「はい!!!!」
すぐ後ろからやって来た教師の声に慌てて席に着くと、何故か篠岡が周りの女子の注目を集めていた。
篠岡の前の席の子が振り向き、人差し指をピッと向けて小声で詰問する。
「どういうこと、ソレ!」
どれ?と篠岡が自分の胸に手を当てると遠くの席で阿部が教室中に響き渡るくしゃみをした。
最終更新:2009年10月22日 22:15