1-39-42 ミハチヨ1

あめ、すごいね。

ぽつりと呟いた言葉は、千代の耳に入っていないだろう。
それくらい雨の勢いは激しくなってしまっていて、三橋の声を消した。
それに加えて、傘をさしていても全く濡れずに帰ることは無理だろうなあ、と考えていたものだから、
返ってきた声を三橋は、はっきりと聞き取れなかった。
「え」
少しだけ低い位置にある顔を見れば、千代の目と合った。
(篠岡さんは、いつだって俺の目を見て話してくれてる)
けれど、まだ少し慣れない自分は、合った視線をそろりと千代の眉間へとずらしてしまうのだ。
「雨、すごくひどいね」
千代は、三橋が呟いたことと同じことを言って、三橋君ちゃんと帰れる?ともうひとつ続けた。
(どういうことだろう?)
首をかしげながら、うん、と三橋が頷けば、そうじゃなくって、と千代が首を振った。
言い直そうとしているのを、彼女の思考の邪魔にならないように三橋は黙って待つ。
少しだけ千代と三橋の間に流れた沈黙に、ざあざあとふり続ける雨の音がいっそう強くなった気がする。
けれど、また千代が口を開けば、三橋の耳には雨の音は弱く聞こえ、
ずいぶんおかしな耳なんだなあ、と三橋はぼんやり思う。
雨が、三橋に千代の声を聞きやすくしてくれているのか、三橋の耳が千代専用になってしまったのか。
(どっちなんだろう)
分かっているのは、どきどき、と胸が鳴ることだけだ。
「そうじゃなくて、三橋君、濡れずに帰れる?」
「え、と、ムリ、だと 思う…」
「だよね」
「うぉ」
「家帰ったら、誰かいる?」
「きょ うは、いない」
「そっか。じゃあ家まで一緒に行くよ」
「え!」
「三橋君、濡れたとこちゃんと拭かないで放置して、風邪引きそうなんだもん」
事実その通りだと思ったから、三橋は黙った。
でも、千代に言葉を返さなかった本当の理由はそうじゃない。
どきどきと鼓動が早くなった心臓が、三橋にそれを自覚させる。
(うれしい、なんて思ったら、篠岡さんは怒っちゃうかな)


行こ、という千代の声に、ぱんと傘をひろげて三橋は彼女の後に続いた。
そして少しだけ待ってくれている千代の隣りに肩を並べようとして、あ、と声を出してしまった。
「三橋君?どしたの?」
「な、なんでも、 ない、よっ」
ふるふると首をふって、なんでもないよともう一度重ねて笑う。
足元からは、ぴちゃぴちゃと、スニーカーが雨を踏む音がする。
嬉しいという気持ちが、すこしだけ沈んでしまった。
雨を蹴るように前に出した足に、お返しとばかりにじわりと水分がしみこんで、スニーカーが重くなる。
嬉しいのに、なんだか、気分が重い。
二人が傘をさしているせいで、千代との距離がいつもより離れている。
それが、三橋には寂しかった。
(あ あいあいがさ、とか)
ふと、思って三橋はその考えを打ち消すように首をふった。
(そんなこと、言えるわけない よっ)
そっと伺う千代の横顔は何を考えているのか分からなかった。
二人、並んでいるのに、千代の肩が遠い。

「ねえ、三橋君、ちゃんと傘さして、濡れないようにしてね」
「うん」
うん、と素直に頷きながら三橋は雨の降ってくる方とは全然違う方向に傘をまわした。
ひょっとしたら千代は怒るかもしれない。あきれるかもしれない。
(わざ と濡れたりなんかしたら、 でも)
少しでも濡れた面積が大きければ、それだけ、千代が自分を構ってくれる時間が増える。
そんなことを思う三橋の耳に、
しょうがないなあ、と千代が小さく笑ったのが、聞こえた気がした。


豪雨は収まるところを知らず、三橋と千代は駆け込むように三橋の家にたどり着いた。
腕を伝って指先からぼたぼた水を垂らしながら玄関先で立ち止まる。
二人の足元に水滴がじわじわと滲み、丸い絵が描かれていく。
三橋家の玄関に立つ自分たちの姿を見て、
千代は一瞬呆気にとられて、それからくすくす笑い出した。
「やっぱり濡れちゃったね」
「うん」
千代は、濡れて腕に貼り付いた白いカッターシャツを指先でつまみ上げて、
あーあ、と溜息を吐いた。
「水吸ってベスト重くなっちゃってる」
傘をさして濡れるのを凌いでいた二人だが、横殴りに降る雨はもの凄い勢いで衣服を浸食した。
濡れたカッターシャツがぴったりと身体に触れる感触が気持ち悪い。
千代は顔をしかめながらシャツをひっぱり、だけどどうにもできずにまた元に戻した。
ポケットの中からタオルハンカチを出してきて、三橋の髪の毛についた細かい水滴を払う。
「あ りがとっ」
ぽつりと呟いてうつむいた三橋を見て、千代は小さく笑った。
「風邪引かないように、ちゃんと拭いて着替えて、髪も乾かしてね」
「うお」
「寒いようだったらお風呂に入った方がいいかも」
「うん」
「あとは…あ、もう外出ちゃダメだよ」
こくこくと頭を立てに振る三橋に、安心した千代は頷いて微笑んだ。


「じゃあ帰るね、バイバ」
「え!」
千代が三橋に向かって言いかけた声を遮って玄関に三橋の声が響いた。
わんわん、と耳の後ろで反響している気がする。
何がおこったのかと、思わず隣に目を向けると、妙な声を出した三橋がわたわたと動いている。
「か、か、帰るの!?」
「え?うん。三橋君をちゃんと送る使命は果たしたからね」
「で も、篠岡さんも、濡れてる」
「気にしないで、私体強いから、これくらいじゃ風邪も引かないよ。じゃあね」
千代は胸を張って得意げそうに言うと、くるりと体を反転させて玄関を開けた。

「待って!!」

三橋は外に出ようと乗り出した千代の腕をぎゅうと掴んだ。
普段の三橋から想像出来ないくらいの力強さに千代は目を見開く。
首を左右に振り、帰らないで、とふるえる声で呟く。
髪から滴る水がぽたりと玄関に落ちた。
「三橋君、痛いよ」
「し、しっ、篠岡さん、ごめ んなさ」
ぱっと掴んだ腕を離し、どもりながら早くも涙目になっている三橋の手を、千代は優しく握った。
ふるえるその手は、雨に濡れて冷たくなっていた。
「…じゃあ、ちょっとだけお邪魔してもいい?」
「!」
三橋がおずおずと千代の手を握り返した瞬間、千代は確かに、
ああ、私って恋してるんだなあ、なんて実感してジンときた。


続きます。
最終更新:2009年11月01日 02:01