1-76-79 ミハチヨ2

「た、タオル持ってくるから、部屋、上がってていい よー」
「うん、お邪魔しまーす」
水でべちゃべちゃになった靴下とベストは、乾燥機を使わせてもらうことにした。
わたわたと動き回る三橋に一言断って、千代は先に三橋の部屋へと足を踏み入れる。
(モノが少ないなー)
ベットと机、それから床に転がっている幾つもの白球に、三橋の野球への思いが見て取れて、小さな笑みが漏れる。
三橋廉という人は、卑屈でおどおどしていて、泣くとくしゃりと顔がくずれるくせに、
マウンドにあがるとひどく綺麗な目をして球を投げる人だった。
千代はそのことを知っている。
(西浦は皆かっこいいけど、三橋君が一番かっこいいよ)
ボロボロと大粒の涙をこぼす三橋も好きだと思ってしまうのは、千代の惚れた欲目だろうか。
「おっ、おまたせー」
ドタドタと階段を上る足音が聞こえたかと思うと、部屋着に着替えた三橋がバスタオルを脇に抱え、
お盆にカップとポットをのせて戻ってきた。
「これ、使って!よ よくふいて ねっ」
「ありがとう」
「さ、寒くない?喉は?かわく?紅茶あるんだけどっ」
「大丈夫、だから三橋君も座ってて」
「うおお」
落ち着かないように捲し立てる三橋を見て、千代は緩んだ頬がまた緩み、眉が少しだけ下がったのが自ら分かる。
その時三橋の腕の中で、母親の趣味であろう花柄のカップとポットが不安定にぐらぐらと揺れた。
「あ」
ぶないよ、と千代が注意しようとした瞬間、派手な音を立ててカップが落ちた。
「ヒェっ!?」
カチャン、と破片が飛ぶと、三橋はがっちり固まって毛を逆立たせてしまったネコのようになってしまった。
目にあっという間に涙がたまっていく。
「ケガしてない!?」
「おおおお母さん、が 気に入ってた、の割った…」
千代は三橋との間に転がる割れたカップを慎重に拾い集めた。
机の上にひとつの破片をのせる。
「大丈夫、直せるよ」
「ふぇえ?!」
びくりと三橋の肩がはねる。まるで警戒しまくっているネコみたいだ。
ふふふと千代はおかしくなって笑ってしまう。 それにまた三橋が反応して、新しい涙が生まれた。
「大丈夫、取っ手が割れただけだから、接着剤でくっつければ直るよ」
今度は三橋に向けて千代は同じ台詞を繰り返した。
だから泣かないで、そう言って千代はふわりと微笑んだ。


その姿に、三橋は思わず息を呑む。
三橋の心臓は、千代の笑みが動力作動の合図かのように早打ちし始める。
暑くもないのに汗が滲んで止まらなかった。
意識し始めてしまうと、もう前にしか進めなくて。
「三橋君?」
私、何か変なこと言った?訊けば、ぶるぶると頭が大袈裟に揺れた。
「お、お、オレ、ッ」
「ん?」
三橋が何かを言いたそうだったので、千代はぐっと顔を近付けた。
近付いたほうが彼の小さな声を聞き取りやすいかと思ったのだが、別にそんなことはなかった。
むしろ、三橋には逆効果だったみたいだ。
赤い顔がもっと赤くなって、ぎゅっと眉が寄る。
三橋は唐突に立ち止まったかと思ったら、千代の顔をたっぷり一分は見つめて、
「あー」とか「うー」とかわけの分からぬ声を出して、そのうち意を決したように大きな声で、
「し、篠岡さんにさあ!」
と言った後は、だんだん声も小さくなって自信なさそうに俯いて、最後の方はよく聞こえないくらいだった。
それだけでもう、千代には彼がどんなにこの言葉を言うのに悩んだのか、迷ったのかが、手にとるように分かってしまう。
俯いた三橋がどんな表情をしているのか千代には見えないけれど、いつものように泣きそうな顔をしているに違いない。
そして、二人の間の空気が静まっていることに居た堪れなくて、顔を上げるタイミングがつかめずに、三橋は俯いたままなのだ。
千代は三橋の腕を握って引っ張って座らせる。細い印象に反して、がっちりと固い肉のついた腕だった。
ついでに、手首から彼の手へと指を移動すると、びくりと三橋の体が強張った。
だからといって離す気もなくて、握ったままでいると、ぼそぼそと小さな声で三橋が呟くのが耳に入った。
声は途切れて聞きずらいけれど、耳を寄せなければならない程じゃない。
「したいん だ」

「篠岡さんにキス、したい」
ちりちりと肌が総毛立つ。すぐ目の前に座っている三橋から目をそらせない。
こういうときに、三橋君も男の子なんだなァと改めて思うのはどうなんだろう。
ぼんやりと三橋の顔を眺めながら千代は思った。
三橋の口はそこにある。もう、近付きすぎでおぼろげな位置にある。
三橋が少し前に乗り出して千代の唇に、その熱い唇を押し付けた。


触れ合った唇は音もたてずに離れた。
ぎゅっと固く結んだ唇に、ぬくもりが掠めたかと思った瞬間、離れていってしまったので
千代にはそれが三橋の唇なのかどうか本当のところは分からない。
けれど、ぱちりと瞬いた視線の先、恥ずかしそうに顔をそむけている三橋が千代に答えを教えてくれた。
(ああ、三橋君と私、キスしたんだ)

改めて頭の中で整理すると、途端にカッと全身が熱くなって千代は慌てた。
「あ、あのさ」
「えっ!?」
「もういっかい…」
三橋の言葉にぱちりと目を瞬かせるその顔を見て、離れたばかりの唇を再び千代へと寄せた。
熱い口付けは言葉よりも雄弁に三橋の気持ちを伝えてくる。
背筋にはしるぞくぞくとした感覚に流されないよう、
掴んだ三橋の腕をよりいっそう強く握りしめて千代は唇と唇の隙間から切ない声を漏らした。
苦しい。息が出来なくて苦しい。
でも千代は唇を離してほしいとは思わなかった。
三橋の熱い舌がぬるぬると千代の歯列をなぞっている。
それから奥でちぢこまっていた千代の舌をひっぱりだして、
くすぐったり絡めたりと、好きに動き始めた。
(三橋君に食べられそう…)
千代の知っているキスといったら、唇と唇を押し付けあうような稚拙なもので、
こんな風に心と一緒に体も熱くなるような体験は初めてだった。
千代は三橋の腕を掴んでいた手をそっと離すと、そのまま三橋の背中へと移動させた。
両腕で三橋の体をぎゅっと抱きしめる。
応えるように三橋の腕も千代の体を強く抱きしめた。
最終更新:2009年10月31日 18:02