4-108-113 アベモモ
自分より早く、篠岡が早朝のグラウンドに顔を出すとは思わなかった。
いつもは、選手よりも遅い時間に出てくるので、珍しいなと思いつつ後ろから声をかける。
「おはよ。仕事やり残しかなんか?」
一瞬びくりとして、篠岡が振り返る。
「あ、阿部くんおはよう!」
オレを確認して、にっこり笑う。他の部員はまだ来ていなかった。
「昨日雨だったから、今から洗濯して干しておけば、放課後には乾くと思って」
「1年しかいないんだから、言ってくれれば男でもそれくらいはやるよ」
きょとんとする篠岡。そして、とろけるような笑顔になった。
「阿部くんって優しいね」
ウチのマネジは野球が好きで、気立てが良く働き者だ。
その上、本人のいない時限定で「マネジのレベルなら甲子園も夢じゃねえ」と部員が絶賛する程可愛い。
マネジは憧れの「高校球児」に無償の愛を注ぐのであって、部員個人に特別な好意はないだろう。
判ってても、篠岡の大きな目で見つめられて褒められると動揺した。
感情を殺して、なるべく冗談に聞こえるよう返す。
「そりゃどうも。でも、篠岡には負ける」
「わわわ、私はマネジだから……」
篠岡は顔を赤らめて下を向いてしまった。予想外の反応にオレも固まる。
いつもの篠岡なら、ここは笑うんじゃないか?
いや、オレと篠岡は業務連絡とかモロ事務的な会話しかしないから、普段どういうリアクションするのか判らない。
オレが柄にもないこと言ったから、困ってるのか?
でも、困るようなこと言ってねーよな?
どう声を掛けて良いか迷っていると、後頭部に想像を絶する激痛が走った。
「こら阿部ー! アタシの千代ちゃん口説いてんじゃないわよー!」
「監督!」
殺気をはらんだモモカンが立っていた。指をバキバキと鳴らしてオレを睨む。
思いっきり頭を掴まれた痛みで少しヨロけた。これって体罰じゃないのか?
「口説いてねーよ」
「ま! なんて生意気な態度!」
「監督こそ、いつもオレらを『くん』付けで呼ぶのに…」
「千代ちゃんに近づく馬の骨につける敬称なんてないよ! 怖かったね~千代ちゃん。よしよし」
そう言って篠岡をぎゅうっと抱きしめる。あの胸に押しつぶされたら、死人が出てもおかしくない。
「か、監督、く、るし…」
「うあ。ごめんね!」
羨ましいけどこれも一種の体罰だよなと眺めていると、不敵な笑みの監督と目が合った。
「まあ、阿部くんじゃ無理よね」
「何がっすか?」
「手を握っただけで顔真っ赤だもんね! 可愛らしいったらありゃしない。あっはっはー」
悪魔の高笑い。合宿の夜の話だ。篠岡の前でそれを言うか!
「えーと?」
篠岡が怪訝そうに監督とオレの顔を見比べる。きっとオレの目は泳いでいる。言い訳をしたらますます監督が喜ぶから、どうに
か踏みとどまった。
「んふふ内緒~。千代ちゃん、仕事あるよね?」
「は、はい」
「阿部くんもグラウンド整備!」
「はい!」
ヤケクソで返事する。セクハラだろこれは!
怪訝そうにオレを見つつ、篠岡が遠ざかっていく。きっととんでもない想像をされてるに違いない。
ふと、朝の挨拶をしていないことに気づいて振り返ると、腕組みした監督がニヤニヤしていた。
「私は成績には口出すけど、恋愛には口出さないよ」
「じゃあ、さっきの金剛輪と、誤解を招く発言はなんだったんですかね」
わざとらしく後頭部をさする。
「私に見えるとこでなかったらOKって意味だよー。ほら、誤解だって言っておいで」
「遠慮しときます」
下手な返事はしたくなかった。
この人は、野球をよく知っている。オレたちが理解出来ない練習はしないし、監督という立場を利用して理不尽に押さえつける
ような指導もしない。
いろんなものを犠牲にして、野球部を最優先にしてくれる監督に迷わずついていくし、その先にどんな結果が待っていようと後
悔しないと断言出来るくらい、信頼している。
だけど。
投手に出す指示は全面的にオレに託されていて、試合中は決して子供扱いをしない監督が、篠岡との仲をからかうのにちょっと
傷ついた。
「どうしてー。あんな良い子、今時滅多にいないわよー」
「なんでオレに言うんですか」
「同じ中学出身でしょ」
「妄想のしすぎじゃないっすか」
ここで監督がキレた。
「ちょっと! アタシの千代ちゃんのどこが気に入らないのよ。もう1回、金剛輪やったげようか?」
「あんたこそ言ってることメチャクチャだよ!」
かしゃん、とフェンスのドアが開く音がして、花井たちの挨拶の声が聞こえた。
返事を返して、言い足りなさそうに監督がオレを見る。
「阿部くんはいじり甲斐がなくてつまんないよ。他の子はちょっとつつけばドギマギして面白かったのにー」
あ。オレだけじゃないんだ。花井や田島たちも同じ事言われたんだろうか。
じきに会話が聞こえる圏内に他の部員が入ってくる。その前に、何か言い返してやりたい。
年下だからといって、野球以外のことでおちょくられたまま終るのはプライドが許さねえ。
監督の目をまっすぐ見た。
そのまま、じっと逸らさずに言う。
「今気づいたんですけど……オレ、年上が好きなのかも」
「はあ?」
信じられないことに、監督が耳まで真っ赤になって硬直していた。
やった!
鼻で笑われる覚悟だったけど、コレは有効なんだ。
栄口や泉が「何の話?」と言いながら近づいてきた。
三橋まで気になるらしい。
「あ、阿部くん、カ カントク…?」
キョドりながら首を傾げ、オレと目が合う前に逸らした。
「……変な妄想でもしてんじゃね?」
オレは、監督に仕返しが出来て気分が良かった。
*
その日の練習は今までで1番キツかった。特にオレに対して。
今後、何があろうと監督には絶対服従しようと深く反省した。
最終更新:2008年01月06日 19:50