2-399-402 サカチヨ(マザコン)

よく雨の降る日のことだった。
千代は、マネージャーの日課としている炊き出し用のオニギリの製作にとりかかっていた。
「ちわっ」
「ちわー。あ、栄口君」
いつも炊き出し用の炊飯器を置いてある数学準備室に、制服姿の栄口が入ってきた。
雨のおかげでグランドが使用できず、今日は休養にあてることになったのを伝えにきたようだ。
「あ、でも、握り飯はみんなで食うぞ。篠岡、俺にも手伝わしてよ」
マネージャーの仕事を選手に手伝わせることに躊躇していた。しかし、栄口は楽しむように炊き出しを手伝い始め、千代と並んで握り飯を作り始めた。
「栄口君、器用ねぇ」
「そんなことねぇよ。でも、俺、握り飯好きだから。よく弟とかに作ってやるんだ」
同じ三角形の握り飯が栄口の前に次々と作られていく。千代は内心、自分よりうまい、と隠れた実力者に感心していた。
「すごく上手だよ。ひょっとしてお母さんに教えてもらっているの?」
「ううん。うちはオフクロいないから」
千代は、あっと息を呑んだ。
栄口の家族構成は、父、姉、勇人、弟。母親とは死別していた。
「ごめんなさい。嫌な思いした?」
「べつに。ただ、もしかしたら、握り飯が俺にとってのオフクロの味なのかもしんねぇな」
栄口も特に意に介さず、手を動かすことに集中していた。
千代の家も、帰ったら母親が出迎えてくれている。だが、栄口の家は、それがないのだ。
ひょっとしたら、自分たちの知らないところで、悲惨な思いも味わっていたのかもしれない。千代は栄口のことを心配していた。



「うまそう」
「いただきます」
食事前の儀式を済ませると、野球部員は握り飯に殺到した。ちなみに、トップ賞には、天むすが贈られた。
「いつも、握り飯ありがとな」
「は?」
おむすびをほうばった栄口に謝辞を告げられると、千代は顔を真っ赤になってしまった。
「突然、変なこと言わないでよ。……私のはどうせ形が悪いし」
バツが悪くなったようで、千代はスゴスゴと向こう側の連中に配りに行った。
もちろん、栄口にとっては本心から出た言葉だった。
栄口の母親の料理は、あまり記憶になかった。唯一、強烈に記憶していたのは、小学校の遠足でつくってくれた海苔をつけたおむすび。栄口にとって、この炊き出しがでる時が、母親の記憶を蘇らせることができた。
握り飯が、千代への恋心の始まりだった。

「いやー、やっぱ、しのーかの作るメシはうまいぜ!」
「田島、それ、俺が握ったやつだ」
「テメエッ!?ちゃんとオナニーした手、洗っただろうなっ!?」
「アホゥ!食事中だぞ」
田島がいつものように空気を読まないので、花井が白むすびを口につっこんで封をした。
栄口は、千代のことを思う度に考える。
はたして、千代には好きな男がいるのだろうか?
栄口は、もしかしたら、篠岡は田島のことが好きなのかもしれない、そう思っていた。
実際、田島は女子に人気があった。頭は悪いが、運動神経は抜群。常ににぎやかで派手好きであり、誰よりも目立っていた。
そして何より、田島は部員の中で、一番の野球センスをもっていた。
千代は相当の野球通である。田島への憧れが、そのまま恋心へ移らないともかぎらないだろう。
「はい、はい。食事中、食事中」
千代が田島に話しかける時、栄口の内心は複雑だった。

別の大雨の日、栄口は数学準備室にいる千代に会いに行った。
「ちわっす。篠岡、雨で練しゅう……」
部屋に入った栄口は、不思議な感覚を感じた。炊飯器のふたが開きっぱなしだった。
ふたを閉めてやり、部屋の中を見渡してみた。黒板の下で呆けたように座っている千代を発見した。
「し、篠岡?」
「……あ」
ようやく自分に気がついたようで、千代は立ち上がると握り飯の準備の続きにとりかかった。
「ごめんなさい。つい、ボーっとしちゃった」
「どうしたんだ?」
「ううん。別に、何もないよ。さっき田島君が来ただけだし」
田島の名前がでてピンときた。栄口は不安になって、千代の隣に近づいてみた。
「田島と何か、あったんだな?」
「えっ?何にもないよ。ちょっと他愛のない話しただけだし。オニギリの具とか。ホントだよ」
千代の顔が、段々とこわばり始めてきた。大きく丸い瞳が自分を避けるように合わせようとしない。
「顔、私の顔に……」
押し出されてくる感情にこらえきれず、千代は栄口の胸にすがって泣いた。



たまたま顔を出しに来た田島に、千代は意中の人の有無を尋ねてみた。
「ん〜〜〜、俺、そういうの苦手だな。ホラ、女と付き合うとメンドーだし。野球やってる方がオモロイしな」
そういって別れたらしい。
「……私、今日、思い切って、田島君に言ってみようと思ったんだ」
「田島のこと、好きだったのか?」
胸の中でうなずかれた。
「私って、馬鹿だよね。一人で舞い上がって、最初から相手にされていなくて……」
栄口も目をつぶった。悪い予感が的中してしまった。やはり篠岡は、田島に思いを寄せていた。結果的に二人は両思いにならなかった。だが、これは俺にとってラッキーなんだろうか?
ちがう、と栄口は思った。俺は篠岡の悲しむ顔を見たくなかった、そうひとり心地をした。
「…あ、ごめんなさい。服を汚しちゃって」
千代はハンカチを取り出すと、胸のシミをふき取りだした。
「…篠岡」
「…はい」
「田島のどういうところが好きだったんだ?」
「それは……その……」
「打撃のうまさか?足の速いところか?」
「えっ?」
栄口は休まずにしゃべり続ける。少し感情を高ぶらせながら。
「性格が良いのか?ひょっとして顔か?……いや、そんなこといいか」
千代は栄口の意図をはかりかねたので、無言でいた。
「俺、近いうちに、田島以上の野球選手になってやる。お前の好きな男になってやるからさ」
「栄口君……」
栄口は千代の両腕をつかむと、自分の方へ引き寄せた。
「俺、お前のことが、好きだ」
そういって口づけをした。千代は、目を大きく見開いたまま固まってしまい、ハンカチを床に落としてしまった。



——秋。
野球部のグランドでは、西浦野球部は、他校と練習試合を行っていた。
相手は、県内の公立西革口高校。
九回の裏、3対3の同点。バッターは2番セカンド栄口。2アウトの満塁。
試合の行方は、ピッチャーと栄口の勝負にかかっていた。

前打者の泉が満塁策で一塁へ歩いたので、栄口はネクストサークルでひと伸びをした後、審判にタイムを要求した。
滑り止めのスプレーが切れたので、代わりのものをベンチに求めた。
「はい。これです」
千代が側へとやってきた。
「なぁ、篠岡」
「なに?」
「この試合、もし俺が決めたら、お前のキモチを聞かせてもらえないか?」
千代も栄口の質問の意味にきづいたので、少しの間、無言でいた。
「……ええっと、『サードランナー』」
「あっ!『サードランナー』」
栄口は千代の手を握って瞑想をした。手のひらから伝わってくる人肌の温かさが、栄口を緊張から解きほぐしてくれる。
よしっ、と気合を入れると、栄口は打席へ向かった。

ここまでの栄口の成績は、4打席2犠打2三振。相手エースは、右投げ130前後のストレートと、打席間際で曲がるスライダーを得意としていた。
西浦の打点内容は、田島の左中間1点、花井の犠飛1点、巣山のスクイズ1点。スライダーを攻略できているのは、田島だけだった。
(正直言って、あのスライダーとストレートの見分けがつかない。俺は、どっちを狙う?)

カウントは2−2になった。配球は、スライダー、スライダー、ストレート、ストレート。
モモカンからの指示は、
「スライダーをヒッティング」
だった。栄口も次はスライダーで決めに来ると踏んだ。
モモカンに了解の合図を出すと、後ろに控えていた千代が見えた。
ふと、目が合う。千代は、栄口に向かって、はじめてうなずいた。

栄口は一旦構えを解いた後、ひと伸びをしてからボックスに入る。そして、いつものように、バットを後ろに引いて待つのではなく、顔の横に置いてタイミングをはかりだした。
「構えが変わった?まるで田島君のようなフォーム……」
モモカンは栄口の変化に気がついた。力みがまったくなく、自然体の構え。栄口は、投手の投げる球だけに集中していた。
そして、この日一番のスライダーがきた。



(あたれっ)
カッ
バットを振り抜くと打球はボールの上を叩き、ワンバウンドをして三塁手の頭を越えた。
ホームはすでに8番手阿部がスライ済み。遊撃手が打球を処理して、すばやく一塁へ送球した。
(まにあえっ)
全力で疾走した栄口は、ベースに向かってヘッドスライディングをした。
ファーストミットに収まった音と栄口が触れたのは同時だった。

「セーフ!セーーーフ!」
栄口がサヨナラを決めて、西浦高校が勝利を収めた。
全員から手荒い祝福をうけるなか、栄口は、千代に向かって満面の笑みをみせた。

夕方、グランド整備の後、栄口は千代とグランドから離れた物陰で向かい合っていた。
「今日、かっこ良かったよ」
「ああ。ありがと」
どこか二人とも恥ずかしげで。どこか二人とも言いにくそうで。
「あのさ……、アレだけど」
「うん……」
千代は落ち着きが無さそうに、手をモジモジとさせている。
「あんなボテボテの当たりじゃ、とても田島と比べられねぇ」
栄口は照れながら頭をかいた。
「だからさ、答えは保留ってことでいいか?」
「……うん」
少し安堵したように、千代は息を吐き出した。
「待って」
栄口の話が終わって、その場から立ち去ろうとすると、千代から呼び止められた。
「あの……せっかく栄口君も頑張ったから、その……ご褒美。目をつぶってください」
よく意味が解らなかったが、言われたとおりに目をつぶった。
すると、右手をつかまれ、そのまま千代のシャツの中に手を入れられた。
「えっ」
「……は、恥ずかしいから、じっとしていて」
千代はそのまま近づいていき、後ろを向きながら栄口に体を預けた。あたかも、男が後ろから抱きしめている格好になった。鼻腔にシャンプーの香りが入ってくる。
「篠岡……」
「ごくろうさま。勇ちゃん」
その呼び方で呼ばれるのも久しぶりだった。なぜなら、もう呼んでくれた人は居ないから。
栄口は、右手で乳房の温もりを感じながら、好きな人のことを考えていた。


最終更新:2009年11月07日 15:05