2-418-422 レンルリ
「今日、お母さん帰ってくるの、遅いよ?」
「う、うん」
……知ってるよ。
「リューも遅くまで部活あるし」
「……う、ん」
それも、知ってる、よ。おじさんがいつも仕事で遅いのも知ってるし。
だったら、オレは何で、わざわざ今日来たんだ? そこまで考えて、廉はルリが淹れてくれた紅茶のカップを持つ手を、はたと止めた。
お母さん忙しいから、群馬の三橋の家まで届けてね。近いうちでいーからね。都合のいい日、おばさんに聞いてみてねって言われてたのに……。
おばさんいなくても、ルリはいるの? だ、だったら、オレ、明日しか行けない、から……明日行くよ、と半ば強引に来てしまった。
「ご、ご馳走さま」
廉はテーブルの向かいに座ったルリの顔をチラリと見た。廉の視線に気づいて、ルリは絶妙のタイミングでさりげなく視線を外す。
廉はしょんぼりとうなだれた。
最近、ルリはすぐに視線を逸らす。
オレが目を合わせないのはいつものことかもしれないけれど、ルリはいつだってまっすぐにオレを見ていてくれたのに。
一緒に住んでいた頃には、オレと同じ年なのに「レンレーン、早くしないと置いていくよ」とか「もうっ、こぼしちゃダメっ!」とか、
保護者みたく口うるさく言って、オレが少しでも文句を言うと「もうっ、レンレンのクセにっ!」とか「ナマイキっ!」と口を尖らせてぷんすか怒った。
元気で、よく喋って、よく笑うルリ。太陽が輝くように明るく笑いかけてくれるルリという存在が、暗く、寂しかった廉の中学時代の3年間をどれほど明るく照らしてくれたことか。
なのに、心なしかその笑顔も減ってしまったように感じて、廉の胸はズキンと痛んだ。
もしかして、キラワレタ?
怖すぎる想像を振り払うように、廉はふるふると頭を振った。
「レンレン?……レンレンってば?」
「…………はぅあっ!?」
自分の名を呼びながら、覗き込むように自分を見ているルリに驚いて、廉はハッと顔を上げた。
わたわたと、持っていたカップを落としそうになって、心臓がバクバク早鐘を打つ。赤い顔で目を丸くする廉の様子を眺めて、ルリはおかしそうにくすくす笑った。
「久しぶりだねって言ったんだよ?」
「ふへっ? ひ、久し、ぶり?」
「うん、そう。2人っきりで、こんなゆっくり話しするのって、すごく久しぶり」
レンレンがうちにいたとき以来かな? そう言って、ルリは少しはにかんで小首をかしげた。ルリの笑顔にドキ!と再び、廉の鼓動が跳ね上がる。
そうだ。強引にやって来た理由はそれだ。ルリに会いたかった。ルリと一緒にいたかった。
廉が西浦高校へと進学して、2人の暮らす距離は遠くなった。たとえ廉が三星の高等部へ進学していたとしても、
その場合は寮暮らしをしていたはずだろうから、中学の頃のように一つ屋根の下で暮らして、毎日顔を合わせるようなことはなかっただろうとは思う。
だがしかし、今ではさすがに何かあったらすぐに会えるという距離ではなくなった。
「学校、楽しい?」
「う、うん……」
「野球部のみんなと仲良し?」
「うん! み、みんな、すごくいい人っ」
そっか、よかったねと言ってルリは微笑んだ。
電話もメールもある。何か困ることがあるわけではない。
西浦に進学したことは、一生懸命よく考えて自分で選んだ選択肢だ。
後悔はしていないし、むしろ、西浦に進学してよかったと心の底から思っている。
でも、やっぱり……。
廉の思考は暗く沈む。
寂しい。
でも、寂しいと思っているのは、たぶん自分だけで。
ルリのほうはきっと……そんな風に思ってないに違いない。
だって、たぶんオレは……キラワレてしまったんだ。
あんなにいつも守ってくれたのに、オレは三星を捨ててしまった。キラワレても当然だ。
いや、キラワレてしまったんじゃないかも、しれない。
でも、もともと、ルリにとってオレは従兄弟なだけで……
いつまで経っても頼りない従兄弟の『レンレン』のままで……。
急にうつむいて押し黙ってしまった廉を心配して、ルリは廉の名前を何度も呼んだ。
「レンレン、どうしたの? レンレーン!? もうっ、レンレンってばっ!!」
『レンレン』に反応して、廉は顔を上げると、ルリの顔をきっと見すえた。
「……レ、レンレン って、ゆ ー な っ !!」
廉の叫びが大きく部屋にこだまする。
急な廉の大声にルリは大きく目を見開いた。それからムッと顔をしかめて椅子から立ち上がった。
「なっ……何よっ!! 心配して声かけてあげたのに。
だ、だって、レンレンは昔からずっとレンレンだもんっ。
なのに、どーしてレンレンって呼んだらいけないのよっ!!」
いつもなら「あー、はいはい」と流してしまえる廉の言葉なのに、怒鳴りつけられたせいでルリのほうも意地になって『レンレン』をやめない。
一気に言葉を吐き出して一息つく。
ルリを見据えたまま、廉は椅子から立ち上がって、ルリのいるほうへと詰め寄った。
20cm足らずの距離まで近寄られて、ルリはうろたえて廉を見上げた。
いつにない廉の迫力に負けて、じりじりと壁のほうへと後ずさる。
同じ年なのに、気弱でよく泣くレンレンなのに、何よ、何なのよ、これ……?
久しぶりにじっとよく見た従兄弟の顔は、自分が思っていたよりも幾分男らしく精悍に感じられて、ルリの鼓動が早くなる。
「レンレンって、ゆーな。
オ、オレはっ……廉っ だっ!!」
だって、と言うよりも先に、ぐっと強く体を抱きしめられた。
隙間なくぴったりと合わされた廉の体が熱くて、服の隙間から直接触れ合う素肌がもっと熱くて、ルリは居心地悪く身じろぎした。
両の手に力をこめて隙間を作ろうと廉の胸をぐいっと押す。
わずかの隙間ができて、ようやくルリは廉の顔を見上げた。
息がかかるほどの近い距離に、見下ろす熱を含んだ瞳があった。
頬が赤く染まっている。
心臓がうるさいほどに音を刻むが、それが自分のものなのか廉のものなのか、ルリにはよくわからなかった。
ただ、薄く開いた廉の唇に目が引き付けられて離れない。
ゴクリと唾を飲み込んで小さな吐息を一つ吐き出すと、ゆっくりとその唇が近づいて来そうになって、ルリはぎゅっと目をつぶった。
「ダ、ダメっ!! こんなの……だ、誰か来たら……」
「誰も、来ない、よー?」
かすれる廉の間延びした声がやけに落ち着いて聞こえて、そう思えば思うほどルリの心はざわついて冷静ではいられなくなる。
ぐいっと圧しかかられて一歩後ずさると、そこにはもう壁しかなくて、ルリの逃げ場はなくなった。
そっと頬に触れた廉の指先がひんやりと冷たくて、ルリはふるっと小さく震えた。
「それとも、誰か、来たほうが いい? 叶君、とか」
突然出てきた『叶』という名前に、ルリははじかれたように顔を上げて、廉の瞳を覗き込んだ。
「ちょ……っ、何でそこで叶の名前が出てくるのよ?」
だって、と言って不貞腐れたように廉はそっぽを向く。
何かを考えるようにじっと遠くを見つめて、それからチラリと横目でルリを眺める。
「オレは、オトコだから、わかるんだよ」
だから、不安……なんだ、と最後はモゴモゴと口ごもって、廉はぐっとルリを抱く腕に力をこめた。
オレは、西浦を選んだ。ここから逃げた。ルリを、置いて。
どうせそばにいても、オレじゃ、ダメなの、わかってるから。
オレなんか、より……叶君のほうがふさわしい。
なのに、やっぱり、どうしても、諦め切れなくて……。
叶君に、譲りたくない。負けたくない。
だから……だ、から……。
唇が近づいてぴたりと重なる。
ぎゅっと唇を引き結んでいても、触れる唇の熱さに頭がくらくらする。
口付けの合間に、自分の名を呼ぶ上ずった廉の声が頭の隅っこに引っかかって、ルリは薄く目を開けた。
至近距離の紅潮した頬と、きゅっと眉を寄せて辛そうなレンの顔。
何で? 何で辛そうなの? レンのほうが、してるのに?
だけど、一つだけわかることがある。
泣き虫で、リューと同じ弟みたいで、守ってあげないといけないと思っていたあの『レンレン』の中に、今はもう、自分の知らない『レン』がいるってこと。
たぶん今も、よく泣いて、オドオドと気弱なのはかわりない。
でも……『レン』は、オトコノコ、なんだ。
再び唇を塞がれて段々と息苦しくなってきて、ルリは廉の腕の中から逃れようと抵抗する。
だが、逃げようとするルリの頭を廉の手が捕らえて離さない。
「……んっ……んぅっ……」
もがけばもがくほどきつく抱き締められて、さらに息苦しくなって、ルリが酸素を求めて大きくあえぐと、開いた唇の間から廉の舌が進入してきた。
「んんっ……や、やだっ!」
ドンッと渾身の力で廉の体を押しやって、ルリは肩で大きく息をする。
息の整わないルリを見下ろして、廉は悲しそうな顔をした。
「オ、オレ、謝らない、よ。だって……ルリ のこと、好き だから。
叶君よりも、オレのほうが、もっとルリのこと好きだ、から」
そう言って、しかめっ面でふいっと視線を逸らす。
「もおっ、レンレンのっ、バ カ っ!!」
ルリの叫びに廉はビクリと体を震わせて、キョドりながらルリを見つめる。
さっきまでの威勢は綺麗さっぱりどこかへ消えてなくなって「レ、レンレン って……ゆ、ぅ……な」という言葉の語尾が小さく消えてゆく。
「レンレンが嫌なら、バカレンよ! バ カ レ ン で、十分っ!!」
ルリが一気にまくし立てると、ガンッと殴られたような衝撃を受けてか、廉は両手で頭をかばうように手を上げて背中を丸める。
「う、うぅ……だ……て…………叶、君……は……」
「だから、叶は関係ないでしょ!? まだ言う?」
「…………うぅぅ、ぅ……」
はあ……と盛大にため息をついて、ルリは考える。
勝手に一人で結論探して、勝手に一人で盛り上がって……何でもかんでも勝手なんだからっ!
あのときもそうだった。一言の相談もなく、勝手に西浦に行くって決めちゃって。
叶にはちゃんと教えたクセに、わたしにはギリギリまで教えてくれなくて。
何よ。何よ、何よっ!
わたしだって心配してたのに、自分勝手なバカレンっ!!
今、思い出しても腹が立つけれど……でも……
でも、わたし……そういう、オトコノコの『レン』も……
嫌いじゃ、ないんだなぁ。
さらにもう一つ小さなため息をこぼして、ルリは続きの言葉を舌の上で転がした。
「オトコノコはもうっ、本当に、仕方がないなぁ……」と。
両腕の隙間から、ビクビクと伺うように覗き見る廉の顔を見て笑うと、ルリはゆっくりと廉の手をとった。
ひとつ、ひとつと指を絡めて、2つの手のひらをぴったりと合わせる。
力をこめて両手を引くと、向かいあった2人の距離はまた一気に縮んで、ルリはそおっと上目使いに廉の顔を覗き込む。
「もう一度、言って……?」
「ぅ、え?……もお、一度?」
「……そ」
「………………か、のう、君……じゃないよね?」
バカっ! 吐き捨てるようにそう言ってから、ルリはケタケタと可笑しそうに笑った。
ついでに、廉の真似をして「叶君、てゆーな」と付け加えた。
廉もつられてふへっと笑う。
「オ、オレは、ルリが好きだ、よ?」
「うん。わたしもレンが好きだよ」
なぜか驚いて、本当にバカみたいに目を丸くする廉の唇に、ルリはそっと背伸びをして口付ける。
住むところは離れてしまっても、心の距離は前より近くなったようなそんな気がして、廉は今までにない幸せな気持ちを噛みしめた。
もう、叶君のことも……不安じゃない。
………………かな?
こんなことルリに言うと、たぶんまた「叶君、てゆーな」って言われるだろうと想像して、廉は小さくふふっと笑うと、ルリの体をぎゅうっと抱きしめた。
オワリ
最終更新:2009年11月07日 15:32