2-481-490 ハルスズ1

高校生活——いや、高校野球が終わった。二年だった去年もいいとこまでいったけど、結果を見れば
県予選敗退に変わりはない。
入学したころにはプロにいくアピールのためにも目標にしちゃいたけど、心の中では無理だろうなと
思っていた甲子園出場。
そして、最終学年となった今年。武蔵野第一野球部は、決して高くはなかった下馬評を尻目に
快進撃を続けて県大会優勝。
初出場にもかかわらず、勢いに乗ったオレたちは甲子園大会でベスト8まで勝ち上がることができた。
周囲の人間以上にオレたち野球部の部員を始めとした関係者たちが驚いた成績だった。

高二の秋にようやく成長線——成長期を終えたオレはそれまで八十球に設定していた球数制限を
取り払って投げ続けた。それは夏の大会のようにしたくはなかったからだ。
それと、武蔵野が勝ち上がれた要因としてキャッチャーに遠慮することなくオレ自身が能力を発揮できる
ことが可能になったということも大きかったと思う。

この好成績が評価されたようで、オレにとっての最大の目標であるプロから指名を受けるということも
現実味を増してきていた。雑誌やスポーツ紙にも取り上げられ、秋にあるドラフトでも上位候補として
指名が確実と評されるまでになった。

夏の甲子園が終わった後に部を引退し、高野連へと提出したプロ野球志望届。本当に指名してくれる
チームがあるのか不安に感じていたところもあったけど、これを出さなきゃプロ球団からは
指名を受けることはできない。
アマチュア野球の雑誌でもドラフトの有力候補として取材を受けたものの、それでも世の中は
何が起こるかわからない。どの球団でもいいんで、オレを採ってくれますようにと祈りを込めて
志望届を書いたのだった。



そして二学期が始まったある日。
引退後も後輩たちに混じるようにしながらも遠慮するように隅っこで練習をしていたオレは、監督から
呼ばれて待望の知らせを受けた。オレを、何位かは確定していないが必ず指名するととある球団から
連絡が入ったとのことだった。
そのチームは近年Bクラスに低迷しているけど、主に高校生を指名して上手く育成することに
定評のある球団として知られていた。
また、練習がきついことでも有名なところだった。
練習に励まなければ活躍することはできないし、若手を積極的に起用する方針というところもあり、
別に不満はない。
それにそのチームは、ここしばらくの間、投手力が弱いということがチーム関係者だけでなく
評論家からも懸案事項として挙げられていた。
となれば、投手のオレは上手くいけばかなり早い段階で、一軍に上がれる可能性がある。
オレは左投手だから、その可能性はぐんと高くなるはずだ。
いろんなことを思い浮かべては、だらしなく顔を緩めていた。

今まで自分がやってきた努力が、選んだ道が間違っていなかったということが証明されて本当に嬉しかった。
満足もしていたはずだった。
——ある一つのことを除いては。


「えっ!? プロから連絡……」
「バカっ、声がでかいって!」
翌日。昼休みの教室にてバッテリーを組んでいた秋丸恭平に昨日の件を話していた。
オレが能力を発揮——遠慮せずに投げ込んでいけたのは、キャッチャーをしてくれたこいつの技術がとても
大きかった。甲子園にも出場できて勝ち上がっていけたのは秋丸の貢献度が高かったということになる。
言わば、影のヒーローというところだろうか。
それを考えると、プロからの指名の話があったことを報告するのは当然と思い、家族以外では初めて
話すこととしたのだ。
「いや、だってプロだよ、プロ! やったじゃん。夢が叶ったんだよ!」
「わかったから静かにしろっての……っ!」
足の甲を踏んでようやくのことで黙らせることに成功した。そっとクラスの中を見渡してみれば
昼休み特有の雑然とした空気は変わっていなかった。ほっと胸を撫で下ろす。
「……なんだよ。嬉しくないの?」
「えっ」
好物のハムカツサンドを頬張りながら秋丸が鋭く突っ込んでくる。
まだ九月も始まって間もないため暑い日が続いていたのだが、今日に限っては涼しい快適な風を窓際の席
にいるオレたちへと届けてくれていた。
「何ていうのかな。今の榛名からはあんまり嬉しい雰囲気を感じられないっていうか……まだやり残した
 ことがあるように見えるっていうか」
捕手らしく人間観察にはとぼけた面がありながら鋭いところがある。
「……なあ、今日練習終わったあとに時間あるか?」
「? ああ、別にいいよ」
了承を取れたため、オレはオレンジジュースのパックへと手を伸ばした秋丸を置いて、トイレへと
向かった。


今日はノースロー日であったため練習は軽めの調整程度に止めておいて、オレは練習パートナーを務めて
くれた秋丸を連れて学校の近くの駅前にあるファーストフード店へと来ていた。
オレたちと同じように放課後の買い食いをするためなのだろう。
店内は近隣の高校生らで少し込み合っていた。
秋丸に席を取らせることにしてオレは二つのセットが載ったトレーをもって、あいつが確保した席を探した。
「榛名」
一番奥の席で軽くこちらへと手を振ってきている。
「サンキュ。金は」
「いいよ。誘ったのは俺だし、相談に乗ってもらおうと思って呼んだんだ。オレが奢っとく」
それに引退してからもオレの投球を受けてもらうために、ほとんど毎日のように付き合ってもらっている
ことを考えれば安いものだ。
訝しげにしていたものの、目の前の出来立てハンバーガーの誘惑に勝てるわけもなく、秋丸はバーガーの
包みを開けていく。オレは、アイスティーのカップへとガムシロップを入れてストローで
かき混ぜつつセットのポテトを齧っていた。
「……あのさ。彼女と付き合うのって楽しい?」
「むぐむぐっ……へっ?」
明らかにオレらしからぬセリフを受け、秋丸のやつはきょとんとしていた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔
ってこういうときのことを言うんだろうか。
「…………」
ひたすらに続く沈黙。耳に入ってくるのは近くの女子高生によるうるさい笑い声ばかりだった。
「どうしたの、急にさ」
「いや、おまえって三年になってから付き合っている子がいるじゃん。もう五ヶ月ぐらい経つけど
 どんなものなんかなって思って」
「んー、そうね……」
口についたテリヤキソースをナプキンで拭いつつ考えるような素振りを見せてくる。ジュースの入った
カップへと手を伸ばしてストローから勢いよく中身を喉の奥へと流し込んでいく。
「ぷはっ。楽しいよ。そりゃ、ケンカとかしちゃうときもあったけど。でも、支えになってくれることも
 あったしさ。打席に入る前にその子のことを考えておくと、不思議と結果がついてきたんだよね。
 相談とかもしていたし」
「支え……か」


オレの初恋は高校に入ってから——相手は宮下涼音先輩だった。
小学校中学年のころに始めた少年野球で、野球に夢中になり極端にのめり込んでいったため小学生時代
には女子を好きになるってことはなかった。
中学時代はやっぱり野球が好きで——というのも大きかったけど、オーバーユースで半月板を損傷。
それで荒れに荒れて人間不信。中学の野球部をやめて、シニアに入ってからは人間不信も徐々に
和らいでいったけど、誰かを好きになることはなかった。
中学の野球部には女子マネいなかったし、シニアチームも当然いるわけがなかった。
野球漬けの生活を送っていたため、出会いらしい出会いがなかったのだ。
そして入った武蔵野でマネージャーをしていた宮下先輩に出会って人目で惹かれていた。女に対して
免疫がなかったってのもあったと思うけど、日ごろから接していくうちに意識していくようになって。
少しずつ言葉を交わすようになって。
そこからは早いもので、一度意識してしまうと何倍も可愛く見えていくっていうか。気がつけばあっと
いう間に好きになっていた。
でも、二年前の今頃——オレの中学時代の話を加具山さんたちに話して、その場で宮下先輩と大河主将が
付き合っているということを知って、オレの初恋は終わった。
二人が付き合っているということを知り、幕を閉じたと思っていたはずなのに、それでも諦めが悪い
オレはどうも踏ん切りをつけることができなかった。

要するに、未だに宮下先輩のことを思い続けていた。




「誰か好きな子でもできたの?」
好奇心たっぷりに両目を輝かせている秋丸によって現実に引き戻される。オレの目の前にいるのは意中の
あの人ではなくて、むさ苦しい野球部の仲間。
何だか無性に悲しくて、腹が立ってきていた。
とはいっても、相談をしようとしている相手に当り散らしてもしょうがない。気分を変えるために
アイスティーを一口飲んで喉を潤した。
「まあ、そんなとこっていうか……」
「へえ、誰だよ。県大会の準決勝でARCに勝ってからは学校中で大騒ぎになって、レギュラー連中は
 ほとんどが手紙とかもらったりしてたからなー。その中でも一番人気は榛名だったよな。
 それから甲子園でも活躍しておまえって全国から学校にファンレターが送られてきてたし、
 エースっていいよなって他の連中と愚痴って……」
尚も続きそうな秋丸の話をさっと押しとどめる。このままではどこまで続きそうかわからないし、オレの
本題を忘れられそうだったからだ。
「あー、いやその。その人たちじゃなくって。もっと前からっていうか……」
「前って誰……まさか、宮下先輩か?」
「……そうだけど、よくわかったな」
「オレが見てきた中で、おまえが女の子として意識していたのって彼女ぐらいしか知らないし。
 でも、マジか?」
ここで誤魔化してもどうしようもない。もう踏み出してしまったのだから。
真剣な表情を作って無言で首肯した。秋丸の顔はどこか冴えないものだった。こいつも宮下先輩が大河さんと
付き合っていることは知っていたし、慰めてもらったことがあった。
そのときのオレのヘコミ具合を思い出していたんだろう。
「悪くはないと思うよ、うん。榛名が誰に好意を寄せようとそれは榛名の自由だしさ。……でもさ、
 涼音先輩は大河さんの彼女じゃん。その、言葉悪いけど思うだけ無駄っていうか」
「そんなことはわかってる。でも、オレって諦めが悪いっていうかな。こんな引きずるぐらいならダメもと
 でも告白しときゃよかったって思ったりしているんだよ」
「……気持ちはわかるけどさ」
夕方時で学校帰りの学生らによって賑やかなファーストフード店。それにもかかわらず、オレたちが陣取る
席はどんよりとした空気を漂わせていた。
お互いどちらとも目を合わせることもなく、オレがかき混ぜるカップの氷がガラガラとぶつかり合う音だけが
響く。他の席にも人はいるんだけど、話し声は不思議と耳に入ってはこなかった。
「そういやさ、宮下先輩で思い出したんだけど」
頭を上げて秋丸へと目を向ける。暗い雰囲気を変えるために別の話題へともっていこうということ
なのだろう。
ちょっとした気遣いがありがたがった。
「おまえさ、甲子園のときに先輩から送られてきたメールはちゃんと読んだか? 返信がないって気に
 していたぞ。先輩さ」
ところが出てきた話は彼女がらみの話題で、オレは戸惑いを隠せなかった。


「……メール? なにそれ?」
「確か二回戦に勝った日だったから、先月の十五日辺りだったかな? おまえにも宮下先輩からメールが
 送られてきたはずだけど」
カップに刺さったストローを口に運びながら秋丸が呑気に告げてくる。
「……そうだったのか?」
「そういえばさ、おまえは届きまくる勝利おめでとうメールがウザいから、しばらくの間メールボックスは
 弄らねぇって言ってたよな」
「何でそのときに先輩からメールあったよねって確認してこなかったんだよっ、おめーは!」
ガタっと席を蹴って向かい側にいる秋丸の首を締め上げて立たせていた。そこら中から何事かという視線を
向けられまくっていたが、気にする余裕はなかった。
「だ、だっておまえウザがっていたし、大会に集中しているときに余計なことは聞かせないほうがいいかって
 思って……」
「ああっ!? 余計たーなんだよっ!」
「榛名、落ち着けって! ほら周り!」
カッとしていた頭にほんの少しだけ戻ってきた冷静さ。周囲からの明らかに迷惑そうな視線を一身に浴び、
恥ずかしさのため顔が熱くなっていた。
秋丸を掴んでいた両手から力を抜く。
お互い席に着き、とりあえず近場の席にいる人たちに愛想笑いを浮かべて頭を下げていった。
「確認した方がいいんじゃないの。メール」
「えっ」
「もう半月前以上のことだけど、確認はしておかないとまずいだろ。好きとかは置いといて、一番世話に
 なった人なんだしさ。気遣ってくれたわけだから感謝のメールなり電話なりで連絡とるべきだろ」
我に返り、練習着やアンダーシャツを乱暴に入れてあるエナメルバッグをテーブルへと置き、中身を
漁っていった。なかなか探している携帯電話が出てこなくて次第に苛立っていく。
「だから、身の回りのものが入ったバッグの中くらい綺麗にしとけっての」
「うるせーって」
先ほど騒ぎを起こしたということもあるし、小声で文句を返すぐらいにしておいた。
ようやくのことで取り出した携帯を開く。確かにメールをチェックしていなかったため、相当な数の
未読メールが溜まっていた。
「一応はチェックして、つまらない内容だとしても返事しとかないと友達なくすぞ。おまえ」
心底呆れたというふうにしているメガネは無視する。
ボタンを操作して下方向へと画面をスクロールさせていき、やっと先輩からのメールを見つけることが
できた。
ふぅっと軽く息を吐いて、実行ボタンを押してメールを開く。
「…………」
読み進めていく。が、思っていた以上に長い文章で読むのに手間取っていた。
「つーかさ、長くね?」
「……っ! つーかさじゃねーよ、何勝手に覗き込んでるんだよ。てめーは!」
いつの間にか隣のイスへと席を移ってきた秋丸の頭を叩いて元の場所へと追い返していた。

しばらくして読み終わり、軽く息をついてテーブルに携帯を置いていた。
自分だけではどうも判断しづらくて向かい側にいる秋丸に見せてみることとした。
「いいの?」
「よくはねーだろうけどさ。オレ一人だと空回ってしまいそうだし、第三者の意見が欲しいからよ」
携帯を掴んで秋丸へとすっと投げて寄越す。捕手らしく反射神経よく片手にてキャッチした秋丸は
すぐさま小さい液晶画面へと目を落としていった。
「ちょっとトイレ行ってくるから」
こいつも読むのに時間がかかるだろうし、意見を考えるのにも間を置いたほうがいいはずだと考えて
オレは席を立った。


トイレにてゆっくりと用を足し、飲み物が二人とも尽きていたのを思い出してお代わりをレジにて購入し、
席へと戻った。
この間、五分あまりだっただろうか。
買ってきたオレンジジュースを置いてやって、自分のところにも同じようにして求めてきたレモンティー
を置き着座した。
腰を少しだけ浮かしてポケットから財布を取り出そうとしてきた秋丸へと左手を出して制した。
「こいつもオレの奢り。相談料と迷惑料のつもりだったけど、考えてみたら先輩からのメールも
 おまえが言っててくれなきゃ気付かなかっただろうから、メール代も込みだな」
「そういうことなら遠慮なく」
二人して新しいストローをカバーから出すとカップへと突き刺していった。

オレの携帯とにらめっこを続けている秋丸を待つべく、手に持ったカップを口に運びながら窓へと
視線を向けていた。
やがてパチッと携帯が折りたたまれる音がして、オレの目の前へと置かれた。
そして、オレンジジュースを口にして一言。
「榛名。おまえってフラグクラッシャーだな」
「ふらぐくらっしゃー……なんだそれ?」
「相手から寄せられている好意——これがフラグ。で、それに気付かず一切合切を無視していくやつ
 ——これがクラッシャー。おまえのことだ。二つ合わせてフラグクラッシャー。
 まあ、それはいいか。
 涼音先輩はおまえに気があるんだと思うよ。多分、いや間違いないかな」
手にしたカップをテーブルに置き、秋丸は続けてくる。
「まず思ったことは、オレがもらったやつとは文章量が違うってことかな。オレに送られてきたのは
 三行ぐらいだった。で、対するおまえの分は二、三分じっと見入らなければならないボリューム。
 つーか、オレのは義理のカムフラージュだったんだなって理解して悲しくなってきたぐらいだ」
「…………」
「一旦打ち込まれだすとオレのリードを無視してストレート一本で力押しに出る悪癖の指摘や、
 得点圏にランナーを背負いピンチを迎えるとスライダーの握りを確認するためにグラブの中をちらっと
 覗く癖はやめるべきだっていう、おまえをよく見ていたということが推測できるアドバイス。
 そして極めつけは、マウンドで投げているおまえはかっこいいという素直な賞賛と甲子園まで応援に行く
 という言葉。本人じゃなくてもこれは気があるんじゃないかって思うよ」
冷めてしまったポテトを齧りつつ、対照的なことを呟いてくる。
「……でも、こりゃダメだな」
「えっ、何でだよ?」
「おまえがフラグクラッシャーになったからだよ。いいか。考えてもみろ。女の子が勇気を出してメール
 してきたのに、おまえは何の返信もすることなく無視。それも半月以上だぞ。
 これは脈がないって相手も諦めるだろうさ」
席を立って荷物を手にするとオレに帰る支度をするように促してくる。
「とりあえず、今夜は先輩に電話しろよ。いいか。メールじゃなくて電話だからな。もしかしたら
 まだ間に合うかもしれない。だから電話しとけ」
「でも、大河さんとはどうなったんだろうな……?」
「さあ? その辺は本人に聞いてみなければわからないだろうな。先輩たち進学先違っていただろ、確か。
 宮下先輩は東京の大学で、大河さんは関東じゃなくて別の地域じゃなかったっけ?
 別れたりしたんじゃないの。大学生はいろいろあるっていうし」
トレーを持って二人で食べかすなどが落ちていないかを見て、軽く片付けていく。
「いろいろ、ね」
「宮下先輩は二股かけるような人じゃないと思う。やっぱ遠距離は続かないっていうもんな。別れたんだよ。
 きっとさ」
「先輩が二股なんかするわけねーだろ」
いささかムッとしたオレは不機嫌さを隠さなかった。くずかごへとゴミを捨ててトレーも指定の位置へと
戻すと出入り口へと歩く。
「まあ、確かに。とりあえず、今夜は間違いなく電話しろよ」
家の方向が違うため、オレたち二人は店の前で別れて、それぞれの家路へとついた。




家に帰ってきたオレは速攻で風呂に入り晩飯を食って歯を磨き、二階にある自分の部屋へと戻っていた。
そして、電話をしてもそこまで迷惑にはならないと思う八時を静かに待っていた。
随分と長く感じたが、時計の針はしっかりと時を刻んでいた。そわそわと落ち着きなく待つ。
八時ぴったりとなると携帯を開いて先輩の番号を出して息を呑む。
別に話す相手から息の匂いがわかるわけではないけど、手を当てて口が匂わないかを確かめていた。

——そういや、歯はもう磨いていたんだった

ということを思い出して、自分がさっきやったことも忘れるぐらい緊張していることを自覚した。
息を吐いて仕切り直して先輩の名前と番号が表示されている液晶画面を見る。

——うん、少しだけ落ち着いてきた気がする

覚悟を決めてボタンを押していった。
1コール……2コール目……3コール目。プルルルルッという例の機械音が耳に入ってくる。
10コール目となったところで一旦切ることとした。
ちょっと間を置いて同じことを繰り返す。

結局、同じことを五回繰り返したのだが先輩は電話に出てくくれることはなかった。
これ以上やったら迷惑になるし、ストーカーとかみたくキモいやつだとは思われたくないため、ここで
断念することとした。
ため息をついたところでメールの着信音が鳴り響く。もしや先輩かと期待したが、秋丸からのものだった。
内容は電話をしたかというもので、掛けたけど出てくれなかったとだけ短く書いて返信した。
五分もしないうちに返事がくる。
『あまりしつこくしたら引かれる可能性が大きいだろうから、時間を置いたほうがいいかもな。
 とりあえず様子をみとけ』
文面をさっと見ただけでベッドへと横になった。柄にもなく緊張したせいか眠気がこみ上げてくる。
欠伸をしたオレは心地よい夢の世界へと身を委ねていった。


プルルルルッ……プルルルルッ……プルルルルッ

携帯電話がメールではなくて電話の着信を伝えてくる。眠い目を擦りながらベッドサイドにある時計を
見れば九時半前。うとうとしてから一時間と少し経っていたようだ。
気持ちよく眠っていたところを邪魔されて不機嫌になっていたオレは、液晶表示を見ることもなく開いて
通話ボタンを押していた。
「んだよ……。秋丸か? 連絡はねーよ。寝てるとこだったのに邪魔すんじゃねーよ、バカ」
電源ボタンを押して回線をシャットダウンし終了。携帯をポンと放って再び眠りにつこうとしたところで
またしても耳障りとなる着信音が聞こえてきた。
無視を決め込もうとしたのだが、それでも電話は鳴り止まない。
五分近く悶えていたものの、このままでは埒が明かないため携帯をとって耳に当てていた。
「あーもうしつけぇなあ……っ! さっきも寝てるって言っただろうが! 一体、なんだよ!?」
『ごめん、眠ってたの?』
「…………」
ここで一時間半ほど前に自分が何をしていたかを思い出していた。
そう。宮下先輩に電話をした。でも応答がなくて諦めることにしたんだった。そして今、実に聞き覚えのある
アルトボイスが耳に入ってきている。そっと耳から外して液晶を確認すれば、
宮下 涼音 という表示。
全身の血の気が引く思いというのを初めて体感していた。
『もしもし、榛名? 聞こえてるー? もしもーし』
ありえない速さで起き上がってベッドの上で正座。額を擦り付けるようにして頭を下げていた。
「えっと、お久しぶりです。先輩」
『あっ、榛名。よかった。間違えちゃったかと思ったんだよ』
「すんません。電話させてもらったあとに眠くなっちゃって、ベッドで横になっていたんです」
『そうだったんだ。ごめんね、お風呂入っていてさ。今出たところでね。気付いたばかりなんだ』
お風呂に入っていたということを聞いただけで、何というかそのぐっとくるものがあった。
『それでどうしたの?』
「あっ、えっと。先月の甲子園のときにメールもらってたみたいですけど、返事出してなかったんで、
 それを謝ろうかと思って」
『ああー、そうそう。わたしメール送ったけれど榛名は返信してくれなくてさー。ちょっとへこんで
 いたんだよ? 榛名ってこんな冷たいやつだったかなって』
「いや、その立て込んでいたっつーか……言い訳しても見苦しいだけですね。素直に謝ります。
 すみませんでした」
『うん。素直でよろしい。ねえ、時間あるならちょっと話さない?』
思いがけない僥倖にめぐまれたことに感謝し、二つ返事で了承していた。

「……じゃあ、先輩は実家から通っているんですか」
『そうだよ。電車で楽に通学できる距離だからね……』
意中の人となんでもない雑談をしている。幸せってこういうことなのだろうかとバカなことを考えて
しまっていた。
『そうだ。榛名、日曜日は空いてる?』
野球部を引退してここ数週間かは暇を持て余していた日曜日。オレは特に考えることもなく肯定していた。
『じゃあさ、わたしと遊びに行かない?』
「はい?」
オレは自分の耳を疑っていた。
「……今何と?」
『日曜日にわたしと遊びに行かない?』

——うん。聞き間違いなんかじゃなかった。よく通る歯切れのいい声でオレを遊びに誘ってくれている。
  つかさ、これってデートの誘いってやつじゃないの? 


『あっ、何か別に用事があるんだったら……』
「いいえ、何もないです。見事に暇です。是非お付き合いさせてください」
『そっか。榛名がずーっと頑張っている姿に感動をもらったっていうかね。そのお礼に何かお返しでも
 したいなって思ってたんだ』
「あ、ありがとうございます。えっと、誰と誰で行くんですか?」
『わたしと榛名の二人だけで考えていたんだけれど。他の大学は今の時期が前期試験中だったりするから
 他の人は無理かもしれないからさ。それに急に誘っても都合がつかないだろうから。
 ……あっ、わたしと二人だけって嫌だった?』

——いいえ、熱烈大歓迎です

思いもよらぬ素晴らしい展開の連続で我を忘れてしまいそうなほどにはしゃいでいた。もちろん、態度には
出せないが。
『じゃあ、細かいことはまたメールするから。今度はもう無視しないでよ? それじゃ……』
「はい、もちろんです。えっと、その……」
『なに?』
「お、おやすみなさい」
『ふふっ。はい、おやすみなさい』
先輩が電源を切るのを待ってから携帯を閉じた。もう一度開いて着信履歴を確かめてみる。
そこには当然、好きな人の名前があって。それを確認できてとても嬉しかった。
夢でも幻でもない。素直に感情を表現——ガッツポーズをとって雄叫びを上げていた。


日曜日を迎えた。
駅前で宮下先輩と待ち合わせをして三十分前に到着したオレは、先にいた彼女を発見して驚いていた。
聞けば、誘った自分が遅れてはいけないと思って、待ち合わせの一時間前から来て待っていたらしい。
その心配りに早くもダウン寸前となってしまっていた。
三月の卒業式で会ったのが最後で実に半年振りということになるのだが、とても綺麗になっていた。いや、
以前から美人だとは思っていたけど、どちらかといえば可愛い人という印象が先行していたから。
目の前にいる宮下先輩は大学生で、オレはまだ高校生。年も一歳しか違わないものの、大人の女性の魅力
みたいなものを感じてしまい、見惚れていた。

単純に楽しかった。いや、楽しいという言葉でしか表現できない一日だった。
待ち合わせをして合流すると電車に乗って東京へと出てファーストフ−ド店で昼飯となった。
映画を見たあとに、買い物に行こうと言われてどこに誘えばいいかわからなくて、ニューモデルのグラブが
発売されていたことを思い出して大型スポーツ用品店へと行こうと話した。
それを聞いてきょとんとした先輩を見て冷や汗を流していた。これはミスだったかなって。
だが、彼女はスポーツ選手らしいねと言ってくれて喜んでついてきてくれた(オレにはそう見えた)。
夕方になると早めの夕食をファミレスで食べることになって、一日付き合ってくれるということを
思い出していた。
そこで、ドーム球場でやっているプロ野球を観戦に行こうと提案していた。
これはまったくのアドリブだったんだけど、オレが指名を受けるチームが遠征に来ていたから見に行って
みようという思い付きからの行動だった。
……まあ、お寒い消化試合だったのだが。


楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。
今日、宮下先輩と一緒に食った飯の味はまったく覚えていないし、どんなことを喋ったのかも記憶が途切れて
しまっていてはっきりとしなかった。
それだけ、興奮して緊張していたんだろうと思う。

「その、今日は楽しかったです。誘ってくれてありがとうございました」
「そう。よかった」
地元の駅まで戻ってきて、夜道を一人で帰らせるのは危ないと考えて先輩を送り届けることとした。
「——ここでいいよ。ありがとう」
住宅街の中にある公園前で静かに告げられていた。
「はい」
ここで何もアクションを起こさずに別れるのはダメが気がしてきていた。
でも、何をすればいいのか考えても出てこなくて、先輩の端整な顔を見詰めるばかりだった。
「榛名、どうしたの?」
「……やっぱり我慢できない。オレ、先輩のことが一年のときからずっと好きでした。先輩が大河主将と
 付き合っていることを知っても、諦めることができなかった。
 二年になっても、今年になってもずっと引きずってました。でも、今日一日一緒に遊んでもらって
 ようやくケジメをつけることができました。
 いい思い出になりました。本当にありがとうございました……っ」
深く頭を下げて踵を返す。先輩がどんな顔をしているか見るのが怖くて、とても顔を合わせる気分には
なれなかった。
「待って」
足早に去ろうとしたところをよく通る声で呼び止られていた。
足を止めているオレへと歩み寄ってくる気配が一つ。ぴたっと止まったと思うと、間を置かずに背後から
抱きつかれていた。
「……まいったなぁ。本当はもっとデートを重ねて仲良くなってから、わたしから榛名に告白しようと
 思ってたのに。ずるいな。先に言っちゃうんだもん」
「え……っ」
「わたしも榛名のことが好きです。わたしとお付き合いしてくれますか?」
頭がついていっていなかった。
告げることができずに燻らせ続けていた思いを暴発させてのダメもとの告白であったのに、まさかの受諾。
この場から逃げ去ろうとしていたことも忘れて、ただ立ち尽くしていた。
「……榛名?」
「あっ、いえ。まさかOKしてもらえるなんて考えてなくて……。でも先輩は彼氏がいるんだからとか、
 だったらどうしてだろうって、頭の中ごちゃごちゃになってて……でもやっぱり嬉しくて」
「わたしは今フリーだよ。彼氏がいるなら二人っきりで遊びに誘ったりしないって」
腕を引張られて宮下先輩へと振り向かされていた。
「握手しよっか」
彼女は小首を傾げて微笑を浮かべつつ、右手を差し出してきた。
「これから宜しくってことで」
「は、はい」
汗をかいていた手を先輩から見えないようにズボンで拭いて差し出していた。
彼女のてのひらは思っていた以上に小さくて。でも柔らかくて、あたたかかった。
「ちょっと屈んでくれる?」
要求通りに膝を曲げる。次の瞬間、頬にちゅっと瑞々しい感触が——キスをされていた。
「それじゃあ、おやすみなさい」
オレは、離れて徐々に小さくなっていく涼音先輩をぼんやりと見送るだけだった。


こうして、決して振り向いてくれることはないだろうと思っていた女神は
オレへと微笑んでくれたのだった。
最終更新:2009年11月07日 16:19