2-519-521 水谷×きよえ

「きよえ」


私の高校時代は、本当に平凡で、おとなしく、どこにでもいるような県立の高校生でした。
野球部のマネージャーをやる訳でもなく、クラスで目立つような存在でもない。
彼と知り合いになれたのも、たまたま同じクラスで席が隣だったからなんですよ。

「ねー、きよえちゃんって、マネージャーやってみる気、ない?」
声を掛けられて横を向くと、丸坊主の頭が初々しい男の子が、ニコニコしながらこちらに話しかけてくれました。先ほどの自己紹介で、下の名前の方を覚えていてくれたようです。
「うちの野球部ってさ、マネジいないんだよねぇ。やってくれる人が居たら助かるんだけどなぁ」
私は、野球のことを良く知らなかったので、丁重に断りました。
「そっかぁ……残念だなぁ。まぁ、よかったら野球部の練習観に来てよ。あ、俺は水谷。よろしく!」
初めて会話した印象は、お調子者のやんちゃ坊主、といった感じでした。

高校時代の水谷君は、本当に生活の九割を野球部に傾けている人でした。
授業中は体を休めるために費やし、放課後には全力で野球を打ち込む。そういった野球漬けの毎日でした。
おかしかったのは、私は野球のことをまったく知らない素人なのに、となりで水谷君が、自分から野球の面白さを洗脳してきたことでしたね。
「甲子園っていうのはね、すべての高校球児の憧れなんだよ。その場所に立つだけで価値がある。俺もみんなと一緒に行ってみてえなぁ」
けど、私はそれでも、水谷君の無駄話は、いつも最後まで聞き入ってしまいました。
なんだか、話を聞いてあげないと、かわいそうで。
水谷君の話からすると、水谷君の野球の実力は、中の下くらい。レギュラークラスからは離れているっぽいんです。
でも、野球を語る時の顔は、ちょっとかわいかった。

私たちがつきあい出すようになったのは、2年生のころからでした。きっかけは、
「日曜日に練習試合がある。俺が試合に出そうだから、ゼッタイ観に来て」
そういって、無理やり連れ出されました。そして、
「今日の試合、勝ったらさ、俺とつきあって」
いきなりですよ。しかも、私、友達と一緒に観に来ていたのにその前で。もう、恥ずかしいやら、どう返事すればいいやら。
友達がけっこう野球のことが詳しく、見ている隣で解説をしてくれながら観戦しました。
「水谷は控えだね。出るとしても、終盤じゃないかな」

試合はわが高のリードのまま最終回を迎えました。
そしたら、水谷君が本当に出場したんです。
レフトの守備要因として。位置についた水谷君は、遠目から見ても表情と動きが硬かった。
そして、フライが上がって水谷君が捕って勝利。
——のはずだったのですが、ボールを落としちゃったんです。
結局、試合はそのエラーがきっかけで負けちゃいました。


夕方、友達を先に帰して、私は水谷君を待ち続けました。
やって来た水谷君は、しょぼくれていて、歩き方がぎこちなくて。
「いやぁ、はは……、カッチョ悪イよな、俺……」
さすがのお調子者も、今回は相当応えたようでした。
「ゴメン……。折角きよえちゃんに観に来てもらっていたのに」
「いいわよ」
「ホントごめん。俺、あの後、先輩らに説教を食らってさぁ……」
「そうじゃなくて。つきあってもいいわよ」
「えっ」
なんでオーケーしたかって?多分、水谷君と一緒にいるのも悪くないんじゃない、って思ったことですかねぇ。
あの、「エヘヘ」と照れくさそうに頭をかいているのをみると、もうちょっとしっかりして欲しいなぁって。この人をなんだか放っておけなくて。

それからの水谷君の生活の中に、いくばくか私が入るようになったみたいでした。
下校するときに一緒に帰る約束もしてくるし。でも、あの人の中で、野球が一番を占めているのは変わりありませんでした。
私としては、そんな水谷君とうまくつきあっていくしかない、と最初からあきらめていました。

そんな彼の口癖は、
「俺はオマエと一緒に甲子園に行きてえ」
この台詞を、私はお弁当を食べている時、夜の電話で、一緒にテレビ見ている時、横断歩道を渡っている最中、とにかく色々な場面で聞かされました。
ただ、言われて思わず吹いちゃうんですけど、その後でこう、心から優しい気持ちになれるんですよね。

そんな水谷君も、3年生のときに、レギュラーを獲得したんです。
あまりにもうれしかったようで、練習の帰りにわざわざ家までやって来ました。
「きよえー!俺とうとうやったよ。今度の夏の大会で、俺はキチンと実力でレギュラー番号獲ったから。
これでいよいよ、甲子園に行くのが現実味を帯びてきた。俺はやるよ」
今にも抱きついて来るばかりのはしゃぎ様でした。
しかし、私の方は、素直に喜べない事情がありました。多分、顔は引きつっていたと思います。
「水谷くん、……子供ができたみたい」

時が止まる感覚ってあるじゃないですか。水谷君は、笑顔のまま固まっていました。
「体調が悪くて、病院に行ってきたの。そしたら、妊娠三週間だって……」
私は彼に報告するのが怖くて、怖くて。これが嘘だったらどれだけいいだろうって。
私はどうなってしまうんだろう。もしかしたら、捨てられるんじゃないか。というネガティブな考えしか浮かびませんでした。
「私、どうすればいい?子供はあきらめた方がいいのかな……?」
どちらも混乱していて、考えがまとまらず、すぐには結論を出せませんでした。
ただ、こうなってしまったのも、私がいけなかったんです。

私自身が、水谷君とのつきあいの仲で、何もしていないことにあせってしまっていた。
彼の中で、私はどういう存在なんだろう、って考えたことがいけませんでした。
私は水谷君との絆の証を欲しがり、私の部屋に彼を誘いました。
「…いいよ」
彼の体を抱きしめながら、私は精一杯の短い告白をしました。


扉の鍵を閉めた後、床に押し倒され、唇をふさがれ、服をはがされ、肌を重ねあう。
「あっあっあっあっあっあっ」
私も水谷くんも行為に夢中になり、膣内に求めてしまったんです。
「出して、いいよ、このまま出して」
「うぐ、うあああ、あ、あ……」
そのころの私は、安全日だから大丈夫のはず、という認識しかありませんでした。

私たちはお互いの両親から、散々に叱られました。
特に私の父親は厳しい人で、水谷君は土下座までしました。
しかし、子供のことになると、水谷君は変わりました。
「俺たち、まだ子供なのに、って思うかもしれませんが、俺、きよえさんには、堕ろして欲しくないって思ってます。
だって、俺たちの子供だから。俺ときよえでできた子だから。
俺はこうなってしまっても、今も後悔なんてしてません。
だって、俺は心の底から、きよえのことが好きだと、ずっと思っていました」
しかし、話は当然、どうやって養うのか、ということを聞かれました。
「俺、野球部辞めます。そして、明日から働きに出ます」
私は、その言葉を聞いただけで、号泣してしまいました。
私は自分のことで頭が一杯だった。でも、水谷君は、自分のことを捨ててまで、私のことを思ってくれていた。
うれしかった。そして、男らしかった。

水谷君は、本当に野球部を辞めました。そして、アルバイトを始めました。
「ごめんなさい。あなたの夢を奪ってしまって、ごめんなさい……」
私のお腹がだいぶ大きくなり、病院で検査を受けた時、病室で彼に謝りました。
「言ったでしょ、俺は後悔していないって」
彼は私の涙を拭いて、手を握って応えてくれました。
「今だから言うけど、ひょっとしたら、甲子園とか関係なかったかもしれない。
俺はただ、隣の席に座った子の気を引きたくて、ああ言ったんだと思うんだ。
俺、野球以外、なにも取柄がない男だから」

こうして出産をむかえ、私は元気な子を生みました。かわいい、かわいい、女の子です。
……あ、文貴が生まれるのはまだ先です。
高校卒業後、私もパートで働き始めました。
そして、男子の出産。

小さいころから甘えん坊で、明るくてほんわか系の男の子は、今や高校生。
あの人は甲子園のことを、すっかり忘れてしまったようです。けど、私はあの約束を覚えている。
文貴が高校野球をやり出したと聞いて、私はうれしかった。
だって、また高校時代のあの人に会えるんですから。
暗くなるまで夢中で白球を追いかける、汗まみれ泥まみれの高校球児に。

「ねーねー、今度の初戦って、観に来る?」
もちろんですとも!


最終更新:2009年11月07日 16:34