2-527-533 ハルスズ2

きっかけは何だっただろうか。
一ヶ月前に告白して人生で初めての彼女ができた。手に入れることはできない——振り向いてはくれないと
諦めていた。それでもオレに微笑んでくれた大切な女性。

その大切な彼女——涼音先輩はオレの部屋にてベッドの上で、オレに組み敷かれていた。
潤んで見詰めてくる瞳が、上気して赤く染まっている頬が、その全てが愛しい。
「いいよ……」
形良い唇から発せられたオレを虜にしてやまない魅惑のアルトボイス。
そこへ自分自身もぎこちなさを感じながら、そっと重ねていった。


いつぞやのときと同じようにして、オレは秋丸へと昼休みの教室にて涼音先輩と付き合うことになったことを
報告していた。こいつがいなければ、オレの中で燻り続けていた思いは叶うことがなかったわけだし、
感謝をしてもしきりきれなかった。
「はあ、上手くいったわけだ……」
「まーな」
秋丸は昼食中。オレは別の友人から借りた数学の宿題を写していた。数学のある五時限目まで時間は
そう残されていない。昼食に購買から買い求めてきたサンドイッチを摘みながら、
左手に握ったシャーペンをしっかりと走らせる。
今この場に涼音先輩がいたら行儀が悪いと怒られそうな行為だった。
「つーかさ、おまえが羨ましくなってきたよ。オレは」
「何が?」
ごちゃごちゃした計算がびっしりと書かれたノートから顔を上げて見慣れたメガネ面を見る。
「だって、なんていうのかな。順風満帆過ぎる高校生活だなってね。プロからの指名は確実で、
 オレら野球をやってきた連中の憧れのプロ野球選手になれる。そして今度は見目麗しい彼女をゲット。
 それも欠点が見当たらないような涼音先輩だもんなー」
「それもこれも全部おまえのお陰だからな。ありがとな」
「…………」
「どうしたんだよ?」
ぼけっとしている秋丸に声をかける。
「ああ、悪い。おまえの素直な感謝の言葉って初めてだからさ。確か」
「下らねーこと言ってないで、さっさと飯を食い終われよ。おまえ今日当たる日だろうが。
 写さなくていいのかよ」
以前だったら頭を一発叩いてやったところだけど、オレはそんな恩知らずではない。
慌てた様子で弁当をかき込み始めた秋丸を尻目に友人から借りたノートへと再び目を落としていった。




彼女がいる生活ってのは、想像していた以上に楽しいものだった。オレは初めて携帯電話という存在を
心からありがたく思えていた。
好きな女の子の声を聞くのって心が弾むっていうか。何気ない雑談をどこでもすることができるというのは
幸せなものだった。
付き合う前にも何度か涼音先輩とは電話で話したこと自体はあった。
でも、当時はただの部員とマネジという関係に過ぎなかった。
思慕の感情はオレからの一方通行にしか過ぎず、電話を切ったあとには空しさだけしか残らなかった。
だが、今では電話を切ったあとにも言葉で表現するのは難しいけど、以前のような空しさではなくて
心に何かあたたかいものが残っているのを感じていた。

もっとも、携帯代は親持ちなので頻繁に出来ないというのが欠点であったのだが。
メールはちまちまとボタンを押していくのが性に合わないのでどうも好きになれなかった。でもまあ、電話を
あまり使うわけにもいかないため、そう言ってられなくなったんだけども。
慣れてしまば現金なもので、メールの遣り取りってのもこれはこれで面白いものだと思えてきた。

二度目の——彼氏彼女としての初めてのデートで手を繋ぐことができた。
三度目のデートでは初めて唇同士でキスをすることができた。
ケンカなどもすることなく、とても仲の良い関係を築いていくことができていたと思う。

一ヶ月が過ぎたころにオレが口にした何気ない発言で、オレたち二人は新しい関係へと進んでいくことになる。


金曜日。
いつもと同じようにグラウンドを間借りしてやっていた自主トレを終えて帰宅したオレをまっていたのは、
リビングに置かれた紙切れ一枚だった。
普段だったら、専業主婦の母がいるので明かりがついていないことはなかった。誰もいない家というのは
なかったことなので、どこか不安に思えていた。
リビングの照明をつけて、ソファの前にあるガラステーブルに置かれたメモ用紙に気付いた。
愛用のエナメルバッグを床へと下ろして、制服のネクタイを緩めながらそれを手に持っていた。
「……マジか?」
さっと目を走らせて開口一番にそう呟いていた。

『明日は結婚記念日なので、お父さんと二人でこの週末を利用して温泉旅行に行くことになりました。
 帰ってくるのは日曜日の夜になります。
 二日分の食費を置いていくから自分で何とかなさい。  母より』

これは大いに困った。オレには姉がいるんだけど、彼女は今年の春に大学を卒業して新社会人として一人暮らし
をしているため、この家にはもういない。
つまり、オレ一人だけ取り残されてしまったということになる。
幸い、今夜の分の飯は用意してあって電子レンジで温めるだけで済む。
だが、明日の食事はない。金はあるけど、一人で食いに行っても面白くはないし。
母の偉大さを痛感することになってしまっていた。


風呂も一から自分で準備していた。浴槽を洗って湯を張っていく。普段、あまり家の手伝いをしないタイプ
だったのでいろいろと勝手がわからなくて面倒だった。
シャワーで済ませるのだけはどうしても嫌だった。中学のときのこと以来、体には自分でできる限りの
ことは自分でやるようにしている。
ゆっくりと湯船につかれば疲労の回復度はシャワーと比べるべくもないし、軽いマッサージもすることが
できない。
今度からはもう少し母に感謝しなきゃなと湯につかりながら考えていた。

風呂を出てさっぱりとしたところでリビングに置いていた携帯が着信を知らせてきていた。
頭をタオルで拭きながら大股に歩いて戻り液晶画面を見て誰からの電話か確かめる。それを確認したオレは
自分でも頬が緩んでにやけた顔をしているなと自覚していた。
「はい」
『あっ。帰っている途中だった? 掛け直したほうがいいかな?』
「いえ、風呂に入っていただけなんで大丈夫っス」
『そっか。それなら少し話そうよ』
ソファへと体を沈めながら当然快諾していた。

『……えっ、じゃあご両親が不在なの?』
お互いにその日あったことなどを話していた。学校の話題が尽きてきたため、話の種の一つとして両親の旅行
のことを提供した。
「はい。昨日どころか今朝になっても何も言ってなかったんですよ。酷いでしょ?」
『それはそうかもだけれど、いくつになっても記念日を大事にしている家庭って素敵だと思うわ』
考えていた以上に話へと乗ってきてくれている。その反応の良さに笑みを浮かべていたところで
訊ねられてきた。
『それなら明日の食事はどうするの?』
「ん、今それを考えているところなんですよ。無難に外食にするかなと思っちゃいるんですけど、一人で
 食いに行くってのも……。そうだ、先輩。一緒に明日は晩飯食いに行きませんか?
 大学って土曜日は休みなんでしょ? 明日は二人で遊びに……」
『あのね。ご両親からもらった大事なお金をそんなふうに適当に散財しちゃダメ。大体、榛名は……』
お説教モードに移行されたようで内心げんなりする。とはいっても、彼女が話すことは至って正論であるので
静かに拝聴する。付き合う前は知らなかったことだけど、可愛い顔をしているのに怒るとマジで怖い。
何か余計なことを口走れば一が十になって返ってくるので、ただひたすらにハイとだけ返事をしていた。
『……まあ、お説教はこれぐらいでいいか。ねえ、榛名』
「はい」
『わたしが夕飯作りに行こうか? この方が経済的だし、二人で一緒にご飯食べることができて楽しいと
 思うし。どうかな?』
「それはありがたいんですが、先輩って料理できるんですか?」
『…………』
数秒間先輩からの応答はなかった。ここでやっと自分が失言をかましてしまったことに気付いた。
『……ふーん。そういうこと言うんだ。ちょっとカチンと来たわ。わかった。わたしのプライドに賭けて
 絶対においしいって言わせてみせるわ。
 覚悟しときなさいよ?』
「えっ、決定ですか?」
『当然でしょ。必ず唸らせてみせるから』
プツンっと回線が遮断され、ツーツーツーという機械音がしてくる。怒らせてしまったのは間違いないが、
先輩の口ぶりからすれば相当自信があるみたいだった。これは楽しみにしてもよさそうだ。

テーブルの上に置かれたリモコンを取ってテレビの電源を入れていた。映ったチャンネルのニュース番組を
そのまま見ていたところであることに気付いた。
「ということは、明日は先輩とうちで二人きり……だよな。これってまずくないか?」
今更なかったことにしてくれって話しても聞き入れてもらえないだろう。あの人は結構な負けず嫌いだから。
別にいやらしいことを彼女にしようってわけじゃない。純粋に晩飯を作ってもらって、二人で仲良く食べる。
うん。実に健全じゃないか。

——でも、もしかして……

いかがわしい妄想でいっぱいとなった頭には、テレビから深刻そうな表情でニュースを読み上げてくる
アナウンサーの言葉は全く入ってこなかった。




『……明日、先輩が飯作りに来てくれるって?』
「ああ。話の流れでそうなってさ」
日曜日にある秋季大会に出場している後輩たちを応援に行かないかという誘いの電話が秋丸から掛かって
きていた。そこで何気なく明日の件をやつに話していた。
誰かにこの幸せな気分を自慢したかったという思いが大きかったらしい。
『なんていうか、おいしい展開だな……。そうだ。明日の午前中にでもレンタルビデオ店でDVDでも
 借りてこいよ。ジャンルは恋愛映画がいいんじゃないかな』
「何でだよ?」
秋丸が言ってくる話の意味がいまいちわからず、そのことを聞いていた。
『だからさ、晩飯を食い終わってそれで、はいさよならじゃ勿体無いって。せっかく二人きりで過ごせる
 チャンスがきたんだから有効に活用しないと。
 ああ、そうだ。もう一つあった。これは今からのほうがいいか。
 一っ走りしてゴム買ってきときなよ』
確かに秋丸の言うことには一理ある気がする。でも、後半でまた理解できないことが出てきた。
「……ゴム? 料理にでも使うのか? 輪ゴムだったらキッチンにあるけど」
『違うって。オレが話してるのはコンドームだよ。コンドーム』
「こ、コンドームって……おまえ何言っているんだよ……」
つい先ほどまで自分が考えていたことが見透かされているような気がして、大いに動揺してしまっていた。
中学〜高校の保健体育の授業でもきちんと避妊はしろって教わってきていた。その重要性はオレも
よく理解しているつもりだ。
『宮下先輩と付き合って一ヶ月だろ? もうそろそろ身体の関係に進む時期だと思うし。
 まあ、個人差があるだろうけど。明日は二人きり。もしかしたら先輩も期待しているのかもよ』
「お、オレは別に……」
『聞けって。映画見ていい感じになってきたときに用意してないと絶対に困るぞ。なくても構わない
 とか思ってるかもしれないけど、男としてのエチケットってやつだよ。
 先輩もおまえも学生なんだから避妊はしっかりしないと』
「いや、だから……っ! おまえ、人の話聞けよ……っ!?」
『ドラッグストアで売ってる。まだ開いているはずだから買うなら今のうちに行っとけ。
 どっちにしろおまえ次第だけど。じゃあな』
言いたいことだけを言って秋丸のやつは電話を切ってきた。
壁に掛けてある時計へと目を向ける。時刻は十時前。近場のドラッグストアは十一時までだったはずだ。
「…………」
残されていた食費を財布に入れると、オレは足早に玄関へと行き施錠して外出した。


色んな妄想をしてしまってあまり眠れなかったのだが、それでも夜はしっかりと明けてくれた。
起床すると眠たい目を擦りつつもジャージに着替えてランニングに出かけた。

ほとんどのスポーツでもそうだけど、野球も下半身が非常に大事だったりする。
打者で言えば、粘り強く腰の入ったスイングが可能となる。
投手はスタミナ面の強化はもちろんのこと、制球力の向上にも大いに関係している。それに球速にも関係
しているとあって余分なことがない。
中学時代はただ走るだけってのが嫌だったけど、高校に入って走り込みを真面目に取り組んでいったところ
制球力が飛躍的に良くなっていた。中学の頃にコントロールが悪かったのは上半身に頼りすぎて下半身を
上手く使えていなかったからなのだと思う。
この効果を身をもって体感して以来、意識して取り組むようにしている。
休みということもあり二時間ほどみっちりと走ってたっぷりと汗をかき帰宅した。昨日湯船には自分一人
しか浸かっていないため中身は取り替える必要はないだろう。追い焚きをして汗を流すこととした。
風呂から上がってキッチンにてトースターを引っ張り出してパンを焼く準備をする。そういえばリビングに
携帯が置きっぱなしだったことに気付いた。二階の自分の部屋から充電器をとってきてコンセントに差して
充電を開始したところでメールが来ていることに気付いた。
涼音先輩からのもので、食材の買出しをしたいから昼の二時に待ち合わせでどうかという内容だった。
オレが迎えにいくと了承の返事を送信したところで、昨夜こっそりと買い求めてきたものをソファの間へと
隠すこととした。
キッチンのトースターからチンという音がしてきた。さっさと食べて掃除でもしよう。
それにDVDも借りてこなきゃいけないし、やることは結構ある。さっとソファから腰を上げていた。




家から三十分ほど自転車を漕いで待ち合わせの場所——告白した公園の前が近づいてきた。
ちょっとした大きさのバッグを持って佇んでいた涼音先輩は、こちらに気付くと笑顔を浮かべて手を振って
くれている。
「すいません。待ちましたか?」
「ん、ちょっとね。でも約束の十分前に来てくれたからどうってことないよ」
荷台に彼女を乗せて再び漕ぎ出していく。
「ねえ、榛名。スーパーは家の近くにあるかな?」
しっかりと腰に両手を回してもらっているためにダイレクトに感じる女の子の感触。

——先輩ってやっぱ大きい

「——榛名、聞いてる?」
「えっ? は、はい。スーパーはないですけど、近くに商店街ならありますよ」
「商店街かー。そうね。個人経営のお店の方がいい品物を置いている場合ってあるし、そこに行ってみようか」
「わかりました」
昨日見たテレビ番組のことや野球部の様子のことなどの会話を楽しみながら、オレは漕ぎ続けていく。
心地よい感触のために伸びてしまった鼻の下を見られることがないことをラッキーに思いながら。

自宅から程近い目的地の商店街に着くと、入り口付近に自転車を止めて先輩の手をとって中へと入っていく。
繋いだ手から伝わってくる涼音先輩の体温を感じて少し顔が赤らむ。それは先輩も同じようであり、
お互い口数が減ってしまっていた。
長く浸っていたいような雰囲気だった。
「そ、そうだ。榛名は今夜何を食べたい?」
身長差が三十センチ近くあるため、彼女はどうしてもオレを見上げるような形となってしまう。
そこでお互いが顔を赤くしていることを確かめ合っていた。ちょっと言葉に詰まってしまいそうだったけど、
さっと思う浮かべたことを絞り出した。
「そ、そうですね。カレーとかいいんじゃないかなーって……」
「ちょっと。カレーならよっぽどのことがない限り失敗しないし大丈夫だろうなんて考えてたでしょ」
涼音先輩はジト目で見てきている。オレとしてはそんな意図はなかったんだが、昨日の料理に関する話の
ことを根に持っていてそこから不審に思えているんだろう。
「あっ、いや。そんなわけじゃないですよ。最近カレー食っていないから、ただ純粋に久しぶりに
 食べたいなーって」
「ふーん? どうだかね。でも、カレーはダメ。なんか負けた気がするから」
「じゃあカレー以外ですか? うーん……」
二人して足を止めてオレは考える。適当に頭に思い浮かべてはいくものの、どうもしっくりとこなかった。
「そうだね。じゃあ、榛名は和食と洋食ならどっちがいいかな?」
「そうですね……。休みの日なんで洋食系で肉料理をがっつりといきたいところですけど、今日は
 煮物とかの和食系が食いたい気分です」
「和食で煮物か……。わかった。行こう?」
どうやら機嫌が直ったらしく、いつもの笑顔が戻ってきていた。これにほっとして差し出された手を
握り直して店を見て回ることとした。


魚屋でサバを二匹並べてじーっと三分ほど見比べていた。あまりにも真剣な表情のため、オレもお付き合い
する形で見ている。正直な話、何がどう違うのかなんてわからなかった。でも、涼音先輩が選んだものを
ご主人が良い目利きだと褒めていたので、いい買い物をしたらしい。
予めオレが渡していた食費で支払いを済ませて、今度は八百屋へと足を運んだ。
大根やキュウリなどを見ていたところで、前掛けをした恰幅の良いおばさんが店の奥から出てきた。
こちらに気付くと人の良さそうな笑顔を浮かべてくる。
「あらまあ。随分と若いご夫婦だね」
「え……っ」
「ありがとうございます」
驚き戸惑っているオレとは対照的に先輩は実に落ち着いた様子でにこやかに返していた。
「夫婦二人で仲良く夕飯の買い物かい? 羨ましいもんだ。奥さんも可愛くて美人さんだけど、旦那さんも
 随分とまた男前だねぇ。それに立派な体をしているし、ご飯を作るのも大変でしょ?」
「そうですねー。ホントにいっぱい食べますよ。身長は何センチでしたっけ? あなた」
「えっ? 百八十七です」
話を合わせろという目線を受けて不自然にならないように気をつけて告げる。
「百八十七かい。はあ、ただでさえ男前なのにねぇ。それだけありゃたくさん食べるのは当然だね。
 よし、サービスしちゃうから好きなもの選んでいきなさい」
「わあ、いいんですか? ありがとうございます!」

品定めしていた大根やキュウリはもちろん、色々なものをオマケしてもらった。それに合計額から
半額以下にしてもらってお店がかなり心配になっていた。

——どう考えても赤字だよな

と思っていたところを、店の奥でご主人らしき人が見えたのだが、その人は涙目となっており間違い
ないようだった。

この後も精肉店で同じようなふうにお店側に申し訳なく思える買い物をさせてもらって、
ご満悦らしい先輩を後ろに乗せて自宅へと戻っていた。
「えーっと、先輩。八百屋でのことは……」
「ん? ああいう時は下手に否定するよりも相手の話に乗っていった方が得なことが多いからね。
 お陰で満足のいく買い物が出来たし、腕によりをかけるから楽しみにしといてね」
声の調子が普段と明らかに違う。弾むような感じの心から満たされているというような声の質。
オレは女主人から若夫婦と言われて嬉しく思えていたんだけど、先輩もこの調子なら悪く捉えては
いないらしい。これにはほっとしていた。
「荷物で重くなったと思うけど、頑張って。わたしが重いなんて言っちゃダメよ」
ぎゅっと更に強く抱きついてきたためむにゅっとした柔らかい二つの応援を背中に感じつつ、
ペダルを踏む足に力を入れていった。



家に到着したら軽く二人でお茶でも飲んで一息つこうと思っていたのだが、先輩はキッチンに案内されると
早速料理に取り掛かると宣言してきた。持参してきたバッグからパステルピンクのエプロンを装着し、
続いて重厚な容器も取り出してきた。
「それはなんですか?」
「うん。これ」
蓋を開けて中身を取り出す。良く研がれて手入れが行き届いている包丁が出てきた。外観からかなり
使い込まれた代物だと推測される。
「やっぱりお料理するなら使い慣れた道具が一番だからね」
「マイ包丁ってやつですか」
「そうだよ。とはいっても、これはお母さんから譲り受けたものなんだけどね。さて、まずは食材を洗って
 いかないと」
流しに置かれた袋から野菜・魚・肉を取り出して蛇口を捻り、水を出して洗っていく。
実にテキパキとした手際の良さに感心していたところで気付いていた。
「あのー、オレも何か手伝いましょうか……?」
「榛名はさ、お母さんの手伝いとか良くしていたタイプ?」
食卓に着いているこちらへと振り返ることもなく質問されてきた。
「いえ。恥ずかしい話ですけど、ほとんどやったことないです」
「今日は遠慮しとくね。もともとわたしの料理の腕を披露するために来たわけだから、榛名はリビングで
 テレビでも見ていていいよ」
非常な戦力外通告を受けてしまい、台所から退散することとなった。考えてみれば、包丁も握ったことのない
ようなオレがいても足手まといにしかならないだろう。
お言葉通りに大人しくリビングに引っ込むこととした。

この後も時折食器の在りかを聞かれるたびに出向いたくらいで、リビングにてソファに体を預けてまったりと
寛いでいた。
だが、しばらくしてこれではいかんと思って、風呂掃除とリビングに慣れない手つきで掃除機を掛けていった。

夕方六時前——。
調理開始から二時間と少し経過していた。呼びに来た先輩についていき食卓でオレが目にしたものは、
所狭しと並べられたおかずの数々だった。希望通りの和食メニューの定番たちがホクホクと湯気を立てて
待ち構えていた。
得意げな顔をして向かい側の席に着座した涼音先輩と目が合う。ここは素直に賞賛の言葉を並べる
こととした。
「えっと、正直驚きました。こんなにレパートリーが広いとは思わなかったっていうか」
「驚くのはまだ早いよ。さあ、いただきましょう」
二人で合掌して箸を持つ。たくさんの料理に目移りしてしまうが、先輩から早く食べなさいという視線を
受けてサバの味噌煮へと箸を伸ばして取り皿に盛った。とろとろな柔らかさとなっており、
箸が力を入れずともすっと入っていった。一口サイズにして口へと運ぶ。
口内に味噌の味とサバの風味が広がっていく。ちょっとピリッとした刺激もあった。生姜でも入って
いるのだろうか。
「うまいです……っ!」
これ以降も箸を休めることなく家庭料理の代表格たちを次々と胃袋へと収めていった。
時々褒め言葉を挟むことも忘れない。にこにこと満足げな様子の涼音先輩との夕食は実に楽しいもの
となっていた。


彼女から別にいいと言われたものの、片付けもしないというのはさすがに心苦しいので脇役ながらも食器拭き
として手伝ってサポートした。
全て片付け終えたあとにリビングにて淹れてもらったお茶を飲みつつ、同じソファに座ってぴたっと体を
寄せ合っていた。
「いや、本当に御見逸れしました。あんなにうまいものを食わせてもらえるなんて思っていませんでしたよ」
「ふふん。昨日言ったことを撤回する気になったかしら?」
「それはもちろん。そうだ。せっかくだから映画でも見ませんか? 午前中にDVD借りてきといたんです」
「へえ、いいね。見よっか」
不自然にならないように気を使って提案していた。快諾を得て席を立ち、プレイヤーにDVDをセット
していった。
最終更新:2009年11月07日 16:53