2-734-749 タジチヨ
試合終了のサイレンが鳴り響く。
最高気温は32度を記録した。
西浦高校野球部の、熱い夏が今終わる。
期末テストも終わり、夏休みを目前に控えた水曜日。
千代は部室へと足を運んだ。最後の部室掃除だ。
蒸し暑い部屋の窓を開け放つと、生ぬるい風が入ってくる。
3年生の名前が書いてあるロッカーを、ひとつずつ開ける。
ほとんどのロッカーは空っぽだ。
(引退したんだなぁ…。)
2年と3ヶ月の間、毎日のように訪れた部室。
今日、掃除を終えたら、ここに来る理由はなくなる。
千代はロッカーに背をつけ、そのままずるずると畳に座り込んだ。
外からは運動部員達のかけ声が、いくつも重なって聞こえて来る。
千代は小さく息をつくと、再び立ち上がりロッカーを開けた。
端から順に残った荷物を取り出して行く。
半分ほど終えたところで、千代の手が止まる。
『たじま』
汚い字で書かれたそのロッカーを開けると、色々な物が出てきた。
(田島くんらしい…。)
替えのアンダーシャツや、タオルなどが、丸めて詰め込まれている。
千代はそれらをひとつずつ取り出し、丁寧にまとめていく。
1枚のTシャツを見つけ、胸に抱くと、それはまだ洗剤の匂いがした。
(早く片付けなきゃ。)
ハッとして、千代は慌ててTシャツをたたんで、掃除を再開した。
毎日毎日顔を合わせていた部員達とも、部活がなければ会うことはあまりない。
千代は9組。そして田島は1組。
廊下ですれ違うこともほとんどなかった。
(会いたい…な。)
千代は思い切って、めったに行くことのない、1組の教室へ足を運んだ。
「田島?今日休んでるよ。」
1組の教室で巣山に尋ねると、予想しない答えが帰って来た。
「どうしたの?具合…悪いの?」
「わっかんね〜。メールしても返事ないんだよね。オレ帰りに寄ろうか?なんか
用あるなら言っとくけど。」
「あ、私も行く!渡す物、あるし…。心配、だし。」
「わかった。じゃあ帰りね。」
そう言って巣山と別れた後も、千代は心配でいてもたってもいられなかった。
早く田島の顔が見たかった。
放課後、巣山からメールが届く。
『ごめん!オレ、文化祭の委員会あったんだよ。今日はちょっと行けないわ。』
どうしよう…。今日はやめておこうか。
でも、田島に会いたい気持ちは抑え切れず。
『じゃあ私一人で行くよ。荷物渡して様子見てくるね。』
携帯を閉じると、千代は走りだすようにして学校を出た。
歩いて数分のところにある田島の家は、古いが広い庭のある大きな家だった。
呼び鈴を押すが返事はない。
…もしかして留守なのだろうか。
もう一度押してみても、やはり返事はなかった。
千代は溜め息をつくと、田島の私物の入った紙袋を玄関に置く。
がっかりして帰ろうとした時、中からガタガタと引き戸を開ける音がした。
誰だろう?お母さんかな?
そう思うと何やら緊張してきた。
ガラリと引き戸が開くと、そこには上半身裸にハーフパンツ姿の田島が立っていた。
「あれ?篠岡じゃん。何してんの?」
田島は肩にかけたタオルで、頭をがしがしと拭いている。
千代は拍子抜けした。
「休んでるから…。巣山くんに聞いたらメールも来ないって言うし。具合悪いの
かと思って…。」
心配しすぎてわざわざ来てしまった自分が、なんだか恥ずかしくなった。
「わりー、ただの寝坊だよ。起きたら昼過ぎててさー。誰も起こしてくれねんだもん。
今から行くのもだりーし。暇だからのんびり風呂入ってたよ。」
あっけらかんと笑う田島に、千代はつられて笑う。
「元気ならいいや。田島くん、いつまで経ってもロッカーの私物持って帰らない
から…。これ、持って来たの。」
「おー、わざわざ悪いな。サンキュ。」
田島の笑顔に胸が暖かくなって、心配も吹き飛んだ。
来て良かった。千代はニコニコと笑いながら、
「じゃあ帰るね!明日はちゃんと学校来なよ!」
と言って振り返ろうとした。
その時、
「上がってけよ。」
田島が家の中を指差した。
「え、いいよぉ。」
千代は胸の前で小さく手を振る。
「なんで。わざわざ来てくれたんだし、茶くらい入れるぞ。」
田島…の、部屋に?
いきなり来てそれは図々しいのでは?と思ったが、田島の表情はいつも通り。
迷惑じゃないのだろうか。それなら、ちょっとだけ…。
田島の部屋を見てみたい気持ちが勝り、千代は靴を脱いだ。
(わぁ…。)
初めて見る田島の部屋は、本当に田島らしく、散らかっていた。
「麦茶かコーラしかねーや。どっちがいい?」
階下の台所から、田島の声がする。
「あ、じゃあ麦茶で…。」
答えながら、千代は部屋を見回す。
畳敷きの6畳ほどの部屋に、あるのはベッドとテレビくらいだ。
畳には服や鞄、それからグローブが無造作に散らばっている。
殺風景…。そこここに田島の匂いがする。
千代は急に緊張して、思わず正座する。
「お待たせ。」
グラスに注がれた麦茶を持って、田島が戻って来た。
開け放たれた窓から風が抜ける。
「暑い?エアコンつける?」
「ううん、平気…。風、気持ちいいね。」
家のどこかから、風鈴の音がした。
今、田島の部屋に2人きりでいる。
さっきまで心配したり、焦ったり、がっかりしたり。
めまぐるしく変化した感情が嘘のように、穏やかな時間が流れる。
田島はあくびしながら伸びをして、乱れたベッドに頭をつけて寄りかかっている。
この人の雰囲気が好きだな。
普段はうるさいくせに、とても目立つくせに。
こうして時々空気みたいに、周りに溶けてしまうんだ。
まだ寝たりなそうに睫毛を伏せている田島を、千代は幸せな気持ちで見つめた。
気付いたら、田島は小さく寝息を立てていた。
寝ちゃった…。
千代は、そぉっと近づいて、田島の寝顔をじっと見た。
こんなに近くで顔を見るのは初めてだった。
陽に焼けた肌には、ソバカスがある。睫毛は意外と長い。
(ふふっ。鼻は低いなぁ。)
鼻の頭を指先で触ると、田島は指で鼻をこすった。
ほっぺたをつつく。今度は反応しなかった。
千代は髪の毛がかかるほど顔を近づけると、そのまま田島にそっとキスをした。
千代が口唇を離すと、田島は目を開けていた。
大きな目をより大きく見開いて、千代を凝視する。
千代は驚きうろたえて、その場から逃げ出そうとした。
(恥ずかしい!何してるの、私…。こんな、寝込みを襲うみたいの、変態じゃない!)
思わず涙がこぼれて、視界が歪んでしまう。
へんに思われた!ていうか、こんなの、絶対へんな女だ!
「ご、ごめんなさい!」
慌てて立ち上がろうとして、足がもつれる。
不安定な体を支えたのは田島の腕だった。
腰を抱きかかえるように支える田島に背を向け、下を向いたまま千代は謝り続ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい…。」
恥ずかしくて消えてしまいたい気持ちで、ごめんなさいを繰り返す。
抱えられた腰を引っ張られると、なんの抵抗もできずペタッと田島の膝にへたり込んだ。
「篠岡。」
後ろから抱かれる形で名前を呼ばれ、千代は体がすくんだ。
「ごめんなさい…。」
振り返るのが怖かった。田島はどう思っただろうか。
どうもこうもない、へんに思ったに決まってるじゃないか…。
「謝んなくていいから、こっち向いて。」
瞬きをすると、涙があふれてこぼれた。
「篠岡。」
再び名前を呼ばれ、千代がおずおずと振り向くと、田島がじっと見つめていた。
涙が止まらなくなって、赤い顔でまた俯くと、田島は千代のおでこに、髪の毛の上からキスをした。
千代が驚いて顔を上げると、今度は口唇にキスをされた。
田島の口唇は熱く、思いのほか柔らかかった。
「篠岡、オレのこと好き?」
そこには自分を真っ直ぐに見据える田島の瞳があった。
千代はまた視線を下に落とす。
「オレは、篠岡が好きだよ。ずっと前から、好きだったよ。」
千代の左肩に、田島の手が置かれた。
「こっち見て。」
千代は顔が熱くなるのを感じる。
もう一度視線を戻すと、先ほどと変わらない田島の顔があった。
田島の手に、ぐっと力が入る。
千代は体を強ばらせたまま、もう一度キスを受けた。
時計の音が聞こえる。
外では風に揺られた葉がザワザワと音をたてていた。
「なんか言って。篠岡…。」
千代の喉はひきつれたように乾き、言葉が出なかった。
しかし、何度目かのキスのあと、徐々に体の力が抜けていくのを感じた。
肩に置かれた田島の手は、鎖骨を通って左の胸に触れた。
千代の体がビクッと震え、再び強ばり始める。
田島はキスをしながら胸のボタンに指をかけた。
「だ、だめっ。」
千代は口唇をふさがれたまま、田島の手を制したが、田島は構わずボタンを外していく。
4つ目のボタンを外したところで、田島の口唇が千代の首を伝って鎖骨に降りる。
「篠岡の匂いだ。」
そう言われて、千代はますますうろたえた。
「やだ…。私、汗、かいてるし、あの。」
しどろもどろになりながら、泣きそうな声で抵抗する。
田島は小さく舌を出して、千代の鎖骨をペロリと舐めた。
「篠岡の匂い、すげぇ好き。
部活の時、オレとかめちゃくちゃ汗くせーのに、篠岡いっつもいい匂いした。
オレ、その度に興奮したよ。」
もう頭がどうにかなってしまいそうだった。
田島の口から、自分への想いが語られるなんて、思ってもみなかった。
嬉しい。
でも今は喜びより目の前にある羞恥の方が勝り、何度も何度も田島を拒む。
「田島くん…。ねぇ、やだ、やだ…。」
耳が熱くて、自分の鼓動がやたらと大きく聞こえる。
恥ずかしい。恥ずかしい。
でも、嬉しい…。
千代は覚悟を決めて、体の力を抜いた。
しかし千代の覚悟とはうらはらに、両肩を掴んでいた田島の手はスルリと下に落ちた。
「篠岡、本当にやだ?オレは、篠岡に嫌がられるようなことはしたくない。
篠岡に嫌われるのは嫌だ…。本当に嫌ならもうしない。
でも、嫌じゃないなら、オレを好きなら好きって言って。」
千代は自分の目をじっと見つめる田島の前で、声を詰まらせる。
試合の時と同じ真剣な目。
いつも、何度追いつめられても田島は諦めなかった。
野生の動物のように煌めく瞳で前を見ていた。
千代はその目が好きだった。
そして今、その目は千代自身に向けられている。
泣いて赤くほてった自分の顔を見られるのが恥ずかしくて、千代は口篭もる。
田島は沈黙のあと、小さくごめんと呟いて、顔を背けようとした。
(あ…っ。)
瞬間、千代は田島の首元にしがみついた。
「好き。」
震える声で囁く。
「好き…。大好き。田島くんが、大好き…。」
一度口をついて出た言葉は止まらず、千代は泣き声のまま呪文のように繰り返した。
田島は力いっぱいに千代の体を抱きしめ、千代は消えそうな声で愛を囁き続けた。
「痛くない?」
「大丈夫…。」
夕方の西陽をカーテンで遮った、薄明るい田島の部屋のベッドの上で、2人の体は重なりあった。
部活の時の、埃と混じった汗の匂いはなく、透明な、田島の汗の匂いがした。
田島が動くたび、千代の体に雫が落ちる。
混じり合った汗は、千代の体を伝ってベッドに染み込んだ。
目の前の田島は、目を伏せたまま、苦しそうに息をしている。
「大丈夫…?」
千代は心配になり、そっと手を伸ばし頬に触れてみる。
「大丈夫…だけど、もうイキそう。いい?動いても平気?」
田島の瞳が切なげに揺らめく。
「うん…。」
千代は目を閉じて、体を預けた。
痛みはあったけれど、自分の体で田島が快感を得るのが嬉しかった。
田島が動き出すと、華奢な千代の体はガクガクと揺れる。
揺さぶられながら千代はほんの一瞬、下腹部に甘い痺れを感じた。そして、腹から胸、首に温かいほとばしりを受け、頬に寄せられた田島の口唇からこぼれる荒い呼吸に酔いしれた。
「送るよ。」
田島は玄関に転がっていたビーチサンダルを引っ掛けた。
「学校に戻るだけだもん。すぐだから平気だよ。」
「まぁいーじゃん、オレが一緒にいたいんだから。」
さらっと言われて、千代は思わず赤面した。
「行こ。」
田島が千代の手を握り、玄関を開けようとすると、先に外側から引き戸が開かれた。
「じぃちゃん。」
そこには農作業を終えた、田島の祖父が立っていた。
「おお、悠。なんだ友達来てたのか。えらいべっぴんさんだな。」
慌てて挨拶しようとすると、田島が千代の肩をグイッと引き寄せた。
「だろ!オレの彼女だよ!」
千代が呆然としていると、田島は祖父に送って来る!と言い残し、玄関を出る。
「お、お邪魔しました。」
田島に手を引かれて歩き出すと、後ろから「またおいで」と声がした。
軽く会釈して、小走りに田島の後を行く。
昼の熱さの余韻を残すアスファルトに、2人の影がのびる。
握られた右手が熱い。
横を見上げると、いつもの田島の顔があった。
1年の時に比べ、身長が伸びて、精悍になった。
でも、変わらない少年の瞳。
私達の高校野球は終わってしまった。
でも、夏はまだ始まったばかりだよね?
千代は田島の左手をギュッと握り締めた。
おしまい。
最終更新:2009年11月07日 17:47