4-276-285 特別練習



 スポーツドリンクの入ったタンクを抱えながら、篠岡は野球部のベンチに戻った。その耳に、
みんなを指導するモモカン――百枝監督の声が届く。
「水谷くん、今の獲れたよ! 落下地点しっかり見て。もう一本!!」
 はいっとグラウンドの向こうから大きな声が響く。それに重なるようにして、澄んだ金属音が響いて、
白球が青空に飛んでいった。篠岡が密かにうらやむスタイル抜群の肢体がぐんっと伸びて、
三つ編みにした長い髪が踊る。
 篠岡は、バットを握った凛々しいその姿にしばし見とれた。
(ノック、自由自在だもん。すごいなあ~)
 篠岡も何度かこっそりチャレンジしてみたことがあるのだが、憎たらしいぐらいボールは
思うようには飛ばなかった。
 高校時代、軟式野球部のマネージャーだった百枝は、打撃投手やノッカーも務めていたという。
今でも、その実力は選手たちに劣らない。
(私も、ノックとかできるようになったら、もうちょっと役に立てるのになあ)
 今現在でも、部員の世話やデータ収集などで十分以上に役に立っているのだが、篠岡自身は
まだまだ足りないという気分でいっぱいだった。
 特に、アルバイトの給料や貯金をつぎ込み、自分のすべてを野球部に捧げているかのような
百枝を見るにつけ、その想いは強くなる。
「次、ライト行くよー!」
 百枝がバットをライトに向ける。花井がはいっと大きな声で答えるのをきっかけに、篠岡は
仕事に戻ろうとした。いつまでもぼうっとしててはいけない。

 視線の端に、ボールを取ろうと振り返った百枝が、ふっと息をつくのが映った。
(あれ?)
 妙に疲れたような、珍しいその仕草に、思わずまた視線を戻してしまう。
(監督、ちょっと顔色悪い?)
 ノックを繰り返す百枝の顔色が、いつもより白く見える。そのくせ、なんだかいつもより、
汗を一杯かいているような気もする。
 張りのある声や、きびきびした動作はいつもと変わりないけれど……。
(光線の加減かな?)
「篠岡、どうした?」
 かけられた声に顔を向ければ、そこには野球部の顧問、志賀剛司がいた。数学の教師で、
野球にはあまり詳しくないのだが、講習会などによく通ってさまざまな野球理論を勉強しているらしい。
話が回りくどいのが難点だが、部員たちに独特のメンタルトレーニングを教えてくれる真面目で
優しい先生だ。
「あ、の……」
 篠岡はチラリと百枝を見る。目の錯覚かも知れない。あまり騒ぎ立てて大事になっても
いけないけど……。ちょっと逡巡して、それから思い切って口を開く。間違っているのなら、
それでもいい。でも、もしも本当に具合が悪かったら?
「監督の顔色が、あまりよくないように見えて……。体調、悪いのかなって」
「監督が?」
 志賀がバッターボックスの百枝に視線を向ける。


「あの、気のせいかも知れないですけど……」
「いや、確かに。あれだけ運動してるにしては、頬の赤みも少ないね。ふ、む……」
 志賀は右手で顎を撫でた。
「疲れ、かな。ここのところ毎日、特別練習だし……」
 小さく呟かれた言葉に、え、と篠岡が反応する。
「特別練習?」
「うん、そう。ほら、日が短くなってきて、放課後の練習時間がとれなくなってきたでしょう。
だから、夜に道場を借りて練習してるんだ」
 篠岡は目を見張った。そんなことをしてるなんて知らなかった。自分は、野球部のマネージャーなのに。
疎外感に胸が痛む。その篠岡の感情を見透かしたかのように、ごめんねと志賀は謝った。
「篠岡は十分サポートしてくれてるよ。ただ、女の子をあまり遅くまでこき使っちゃいけないかなって」
「そんな! 夏の間は、もっと遅くなることもありましたし……」
「それはそうなんだけどね……。うちの人も心配するでしょう」
「私にも手伝わせてください。大丈夫です。家族は私が野球部のマネージャーをすること、
応援してくれてますから」
 篠岡は必死に言い募った。顎を撫でながらしばらく考え込んだ志賀は、やがてにこりと頷いた。
「よし、手伝ってもらおうか」
 篠岡の顔が輝く。
「ありがとうございます!」
「お礼を言うのはこっちだよ。正直、監督に負担をかけすぎてるかなと思っていたんだ。
篠岡が手伝ってくれるのなら、とても助かるよ」
「後かたづけが終わったら、道場に行けばいいですか?」
「うん。――ああ、篠岡」
 顎を撫でていた手を持ち上げて、眼鏡の位置を直しながら、志賀が言った。
「監督には内緒にしておこう。みんなにも。それで驚かせてやろうよ」
 だから、みんなが道場に行ってから、30分ぐらいしたらおいでとウインクをする。

 志賀の珍しい茶目っ気に、篠岡は明るい笑顔で頷いた。――その眼鏡の奥の、欲情を帯びた
光には気づかずに。


「そろそろ、かな」
 腕時計を見ながら、篠岡はペンをテーブルに置いた。データ整理のために広げていた資料を
手早く片づけて、道場へと向かう。
 すでに秋の陽は落ちきっていて、人気のなくなった学校はしんと鎮まっている。
 慣れ親しんだはずの場所が、なんだか急によそよそしくなってしまったように感じて、
篠岡は足を速めた。
(……あれ?)
 体育館の角を曲がると、道場が見えてくる。だが、灯りが点いているはずのその建物は、
真っ暗なままだった。
(私、間違えた?)
 道場じゃなくて、体育館だったとか……とキョロキョロ周囲を見回していると、道場の前で
志賀が手を振っているのが見えた。


「篠岡、こっこっち」
 潜めた声で、篠岡を呼ぶ。それにつられて、篠岡の声も小さくなってしまう。
「志賀先生、みんなは……?」
「中にいるよ」
 にこにこ笑って、志賀が引き戸に手を掛ける。おいでおいでと手招きされて、篠岡は小走りに
引き戸の前に立った。
「……っ……ぁ……」
(……?)
 戸の向こうから漏れ聞こえてくる声に首を傾げる。ミーティングでもしているのだろうか。
それにしてはいやにせっぱ詰まっているような声だ。
 そんなことを思っていると、志賀が思い切り引き戸を開けた。背中をドンと突き飛ばされる。
(え?)
 何が起こったのかわからなかった。転倒を避けようとたたらを踏んだけれど、踏ん張りきれずに、
結局道場の中に転がり込んでしまう。
 篠岡の後ろで、ぴしゃりと戸が閉められる。

(な、に……?)
 本能的な恐怖で体がすくむ。夜といえ月明かりがあった外とは違って、道場の中は真っ暗闇だった。
 バカみたいだ。いくら暗くたって、後ろにいるのは志賀先生で、道場の中には監督や他の
みんなもいるはずで。
「う、ぁ、ああ、も、もう……ああああっ」
「モモカン、ダメだよ。ほら休まないで」
「なあ、早くしろよ。待ちきれねーよ」
 暗闇の向こうから、みんなの声が聞こえる。でも、それは……いつも聞いていた声とは
まったく違っていた。
(なん、なの……?)
 暗闇に目を凝らす。ようやく慣れてきた目に映ったのは。
 ――白い体。まといつく何本もの手。長い髪が畳の上に散らばって。
「ひっ」
 ぐいと体を起こされて、均整のとれた美しい体が仰け反る。突き出された豊かな胸に、
クセ毛の頭がしゃぶりつく。
 なに……?
 これは、なに……?
 目の前の光景が理解できない。いや、理解することを、頭が、気持ちが、拒否している。
 下から突き上げられて、長い髪が踊る。――太陽の下でノックしていたときとは違う、
淫らな動きで。

「あ、あ、や、ああっあ、う、んぁっ、お、あああああああああああああ」
 獣じみた声を上げて、百枝が体を震わせる。――そう、それは百枝監督だった。ただし、
篠岡の知らない顔をした。
 いつもの凛とした表情は消え失せて、情欲に瞳は潤み、喘ぐ唇の端からはだらしなく涎が
垂れている。何本もの男たちの手を受け入れて、揉みくちゃにされて、苦しそうで、なのに
男たちにしがみついて悦んでいる……女の、顔。
 そして、百枝にまとわりつくのは……西浦高校の、野球部の仲間たちだった。
 百枝の腰を下から支えて、激しく突き上げているのはキャプテンの花井。顔を真っ赤にして
百枝の胸にしゃぶりついているのは気弱で大人しいエースの三橋。
「あっあっ、いや、そこはぁ!」
「嘘だね。モモカン、こっちも好きなくせに~」
 無邪気な顔で笑って、四番の田島が背後から百枝を抱きしめる。百枝の白く形のいい尻の間に
田島のものが埋めこまれていく。
(うそ、だ……)
 ぺったりと座り込んだまま、篠岡は震える肩を抱きしめた。
(こんなの、嘘、だよね……?)
「……っ!」
 篠岡はびくりと肩を振るわせる。
 背後から篠岡の肩を掴む、男の手。自分の後ろにいた人物のことを思い出して、篠岡は息を呑む。


恐い。振り向けない。
「あ……ぁ……」
 ガタガタ震え出す篠岡には構わずに、男――志賀は篠岡の後ろにしゃがみ込み、右肩あたりに
顔を突きだし、ゆったりとした声を出す。
「いつもああなんだよ。百枝監督はひとりなんだから、加減しなさいと言っているんだけどね。
まあ、若いから我慢が効かないのは仕方ないけれど……」
 この声を、恐いと思ったことなんかなかったのに。なのに、今は震えが止まらない。
「でも、篠岡が加わってくれるなら、監督の負担はだいぶ減る。本当にありがとう」
「……こ、こんな……な、んで……」
 震える喉からは、まともな言葉が出てきてくれない。けれども、志賀は篠岡の言いたいことが
わかったようで、くっと喉の奥で笑った。
「男にはね、どうしようもない衝動があるんだよ。スポーツで発散できるなんていうけれどね、
実際は難しい。彼らみたいな思春期の少年は、特にね」
 百枝監督は女性だから、その辺の機微はわからなかったみたいだけど……くくくっと、志賀は
喉の奥でまた笑う。


「無理矢理に抑えつけて、不祥事でも起こされてしまうよりは、こんな風に解き放ってあげる方が
いいんだ。練習を真面目にやったご褒美ってことにすれば、モチベーションもあがるしね」
「か、んとく、は……」
「監督は喜んで協力してくれたよ。最初はちょっと、戸惑っていたみたいだけどね。……大丈夫。
恐いことではないんだよ。全然、恐いことではないんだ。きっと篠岡も好きになれるよ」
「う゛ぁ゛っ、ああああ、んんっ……あ、ああああああああああああああ!」
 ふたたび獣の声を上げて、百枝が大きく仰け反った。ぶるぶると震えていた体が、やがて
くたりと力を失う。
「げ、まっじー。モモカン気を失っちゃった」
「えー、オレ、まだやってないのに!」
「だから手加減しろっつったろ」
「……あれ、篠岡?」
 百枝を取り囲む輪の中の、一番外側にいた少年が篠岡に気が付いた。――水谷だ。反射的に
後ずさろうとしたけれど、志賀がガッチリと肩を掴んでいて、動けない。
「はい、みんな注目!」
 志賀が声を張り上げる。暗闇の向こうから、男たちの視線が自分に突き刺さるのを、篠岡は
感じていた。


「今日から、篠岡も協力してくれることになったよ」
「シガポ、まじ!?」
「やったー!」
 歓声をあげるその声は、休憩の時に食べるおにぎりの具が豪華だったときと変わらない。なのに
……いや、だからこそ恐い。恐くて震えが止まらない。
「……あ、あ……あ……」
 水谷と沖がこちらに駆け寄ってくる。思わず篠岡は身を縮めた。
「ストーップ!」
 志賀が片手を前に突き出す。
「焦ってはダメだよ。篠岡はきっと初めてだからね。優しくしてあげないと」
「大丈夫大丈夫」
 調子よく笑いながら、水谷がにじり寄ってくる。
「オレら、ずいぶん上達したっしょ?」
「モモカンだって、最初は抵抗してたけど、そのうちいい声で鳴くようになっちゃって」
 水谷が、沖が、他のみんなが、近寄ってくる。恐い。恐い。
「………っ」
 手が。手が伸びる。
 何人もの、男の手が。篠岡に向かって。
「……や……」
 悲鳴を上げたいのに声が出ない。引きつる喉から出るのは微かな音ばかりで。
 手が伸びて。篠岡のジャージにかかって。
 そして。





最終更新:2008年01月06日 19:57