4-686-697 ミハチヨエースと同級マネジ1 ◆LwDk2dQb92 (303氏)
高校二年生の夏――。
七月も下旬となり関東地方でも梅雨は明けて雲ひとつない綺麗な青空を見せてくれていた。
去年、初出場の新設校ながらベスト4まで残った西浦は今年も大方の予想を覆して快進撃
を続けていた。
そして、オレは埼玉大会の決勝戦のマウンドに立っていた。対戦相手はオレが憧れている
榛名さん擁する武蔵野第一高校。
お互い踏ん張って息詰まる投手戦を続けていたが六回表に均衡が破れた。六番に入った
水谷君のタイムリーで待望の先制点がもたらされた。
これ以降は武蔵野バッテリーもより厳しい攻めをするようになって、試合に動きはなく
1対0のまま九回表まで終えていた。
――この回、あと三人打ち取れば甲子園にいける
今日は三十五℃を越える記録的な猛暑日となった。午後一時にプレイボールの掛かったこの
試合も一時間半が経過し、一番暑さがきつい時間帯となっていた。マウンド上の体感温度は
気温の倍以上になるらしい。
この殺人的な炎天下と連投に次ぐ連投で正直なところ体は重い。大会の序盤こそ花井君や
沖君にリリーフを仰いで楽をさせてもらっていたけど、三回戦以降は一人で投げ抜いてきた。
体力的にも精神的にもつらい。
でもオレが頑張るしかない。
マウンド上で一息入れるために自分たちのベンチへと目を向ける。無意識のうちに篠岡さん
のことを探していた。彼女は二列目のベンチに座ってスコアブックを膝に置き、両手を握って
祈るようにしている。
ほんの少しだけ気が休まった気がする。
彼女のためにも――交わした約束を果たすためにも負けられない。
「三橋!」
阿部君から声が掛けられ、投げられてきたボールを受け取る。
――とにかく、あと三人。力を尽くそう
いつも通りに阿部君のサインを確認して頷く。オレはおおきく振りかぶっていった。
九回裏、後攻の武蔵野の攻撃。マウンド上ではオレを中心に輪が出来上がっていた。
「あいつは敬遠して満塁策でいく」
「敬遠? 今日の榛名さんは三橋に全然タイミングあってないじゃん」
阿部君の作戦にグラブで口元を隠した栄口君が疑問をぶつける。
「あいつはこういう一打サヨナラとかチャンスの場面だとスゲー勝負強くなるんだよ。
シニアで登板しないときは代打で出てよく試合を決めてた。普段は荒っぽい適当な
バッティングのくせにな。ったく、目立ちたがりのイヤなやつだよ」
不機嫌さを隠す気はまったくないみたいだった。
うちは土壇場で追いつかれてしまっていた。二十五人目となるバッターがレフトに
フライを打ち上げて、それを目で追いながらあとアウト二つだと思っていた。
が、水谷君が目測を誤って大きく後逸してしまい、記録はツーベースヒット。
これでノーアウト二塁となってしまった。次の打者に送りバントを狙われ焦ったオレは
阿部君の指示を聞かず三塁へと送ったが間に合わず、ノーアウト一三塁となってしまった。
別に水谷君のプレーに気落ちしたわけじゃない。逆にしっかりと投げて相手を封じて
ミスをカバーしようとさえ考えた。
だけど、どこかで緊張の糸が切れ掛かっていたらしく、状況は悪化の一途をたどる
ばかりだった。
センター前にタイムリーを許し、とうとう失点して同点となってしまった。
このあと送りバントを決められてワンアウト二三塁――。ピンチは未だに続いていた。
「おい、阿部。いつまでもレフト睨んでるなって。こっちの一点は水谷のタイムリー
なんだからさ」
「……ちっ」
「まあ、別にいいんじゃね? どっちにしろ一本出たらサヨナラだし、それなら満塁のほうが
守りやすいよ」
「三橋ー。なに死にそうな顔してるんだよ。振り出しに戻っただけじゃん」
「そうそう。決勝戦なんだぜ? そんな簡単に終わるわけがないって」
集まった皆が皆、オレが気落ちしていると思って気を使って明るい声で励ましてくれている。
「モモカンはなんて言ってた?」
「バントをする気はさらさらないみたいだし、左と勝負するより次の右打者でなんとか
しましょうって」
ベンチから伝令としてきた西広君から作戦を確認。監督の意向と一致したということで
そのまま満塁策が採用されることになった。
「いいか。榛名を敬遠したあとは、内野は前進守備でなにがあってもホーム優先だ。スクイズも
あるだろうから何球かは様子を見る。田島と沖はチャージかけんの忘れんなよ。外野にも前に
来させてバックホーム態勢のサインを出しとく」
真剣な表情で一様に頷く。
「――これを切り抜けたらさ、次はクリンナップからだろ? 三番の阿部はダメだと思うけど、
オレが何が何でもヒット打つからさ。で、ゲンミツに盗塁を決める。次の花井は今日二安打で、
前の打席はツーベース打ってっから点入るよ。花井がダメでもその次は水谷だろ。ミスを
取り返そうって気合入ってるはずだから、なんとかなるよ」
「おい。待て、田島。なんでオレはダメなのが決定してんだよ……?」
凡退すると決め付けられて阿部君は怒っているみたいだ。それもかなり。あまり荒っぽい
声を出すと少し後ろで控えている球審の人に注意されるから声を抑えているけど、それでも
かなり怖い。
「だって阿部はさ、三打席で三振二つとボテボテのピッチャーゴロじゃん。タイミング全然
あってねーし」
「くっ……そりゃオレんときはあいつが力いっぱいで投げてきてっから……。とにかく、次は
打つよ……ってなに笑ってんだよ」
「……あっ。ごめん。いや、うちはこういうバカやってるほうがらしいなって思ってさ。
だろ、沖?」
「だな。なんか緊張抜けてきたし」
沖君の言葉に巣山君も笑顔で頷いていた。それで皆にも笑顔が広がっていく。オレもぎこちない
けど笑っていた。
「ん、三橋。どうしたんだよ?」
「あっ、ほら……いつものやらないと」
栄口君がグラブをぽんと叩く。よかった。わかってもらえたみたいだ。
「そうだよ。サードランナー見ておかないと」
皆で三塁ベースにいるランナーをじーっと見る。いつものことだけど、ランナーの人はなんのことか
わからないみたいで首を傾げていた。
「おっし。さっきした打ち合わせ通りにいくからな。気合入れろよ!」
円陣を組んで気合を入れるとそれぞれの守備位置へと戻っていく。阿部君のサインを受け取った
外野の三人とも目が合って軽く手を振った。三人とも帽子のつばをきゅっと握って返してくれた。
――大丈夫。きっと皆がやってくれる
球審の野太い声でプレーが再開され、立ち上がった阿部君に軽くボールを四球投げて敬遠して
一塁を埋めてワンアウト満塁とする。
点を取られたときはどうしようとマイナス思考に囚われてしまっていた。でも、さっきのタイムで
皆と話せていい具合に緊張が抜けた。
次のバッターを迎える。サインは一球ストレートを外す。打ち合わせ通りだ。スクイズ警戒のために
様子を見なければならない。しっかりとひとつ頷いてセットに入り足を上げていき投球モーションへと
入った。
――指に掛かりすぎてる?
腕に滴っていた汗がつたっていき指先の微妙なリリースの感覚がいつもと違っていた。
そう気づいたときにはすでに遅く、放たれたボールは止まることはない。狙っていたはずの阿部君の
ミットからは大きくそれていった。途中で気づいた阿部君は飛びつこうとしてくれたけど、ボールを
捕球できなかった。
「ランナー、走った!」
弾かれたようにマウンドの傾斜を駆け下りてホームベースへと走る。送球されてきたボールを受け取って
スライディングで突入してきたランナーへと懸命に腕を伸ばしてタッチを試みる。
オレもランナーも緊張した面持ちで球審を見上げる。緊張した一瞬に球場全体が静まり返っていた。
「……セーフ!」
無情にも両腕は水平に広げられていた。
九回裏の土壇場での見事なサヨナラ勝利。ベンチから飛び出してきた武蔵野の選手たちによって
呆然としているオレの周りでは歓喜の輪が広がっていた。
――あっ、離れなきゃ
場違いなため、ふらふらと立ち上がってその場から離れる。
「ちっくしょう……っ!」
阿部君が蹲ってグラウンドに激しく手を叩きつけていた。いや、阿部君だけじゃない。田島君も栄口君も
……外野手の皆も膝から崩れ落ちていた。
このあと、ベンチから出てきた一年生たちに助けられて整列してゲームセットの宣告を受けた。勝った
武蔵野の校歌をベンチの前でぼんやりと耳に入っていくのを感じる。最初から最後まで声援を送ってくれた
スタンドの応援団に挨拶して、表彰式へと臨んだ。
準優勝の銀メダルを首に下げて選手控え室へと戻る。
泣くのを我慢していたスタメンの皆から涙が零れ落ちていく。ベンチ入りしていた一年生たちも
泣いていた。スタンドで懸命に応援してくれた学校の皆も泣いている人が多いみたいだった。
マネージャーの篠岡さんも始めは自分まで泣いてはいけないと思っていたみたいで、気丈に振舞っていた。
でも、すすり泣きが続くロッカー内ではもたなかった。
手にしていたタオルを目元にあてて溢れてきた涙を拭っていた。
――オレのせいで、オレのワイルドピッチで負けちゃったんだ
そのことを認識――やっと受け止めることができて、両目からは涙が止め処なく落ちていった。
あとほんの少しで手が届きかけた甲子園。
こうして、二年生の夏はオレのサヨナラ暴投で幕を閉じてしまった。
うちのエースである三橋君とよく話すようになったのは、一年生の夏の大会が終わってからのことだった。
一年の夏大を一人で投げ続けた三橋君の蓄積した疲労を考慮して、彼はしばらくの間、投球禁止
となっていた。それでも三橋君は投げたがった。
もっといい投手になるために練習するしかないって聞かなかった。
そこでうまく説き伏せたのは相棒の阿部君だった。
「三橋。おまえはもっと速い球投げたいんだろ?」
「う、うん」
「だからな。そのために走るんだよ。投球練習の代わりにな。この機会に走り込んで下半身を
作り直すんだ。球速を上げるにはこういう地道な努力が大事なんだよ。
それにスタミナもつくしな」
「地道、努力……」
「肩の回復と同時に力をつけられる。花井も沖もまだ公式戦で投げさせるのはきつい。だから、
秋季大会でもおまえに頑張ってもらわなくちゃならねえ。
おまえの力が絶対に必要だからこそ言ってるんだ。わかるよな?」
「う、うん。わかった。オレ、走るよ!」
阿部君の説得に三橋君はとても感動しているようだった。目が輝いている。阿部君は三橋君の扱い
というか、操縦がしっかりと板についたなーと思わず笑ってしまっていた。
「――篠岡!」
突然声を掛けられて焦る。笑っていたのがばれちゃったかなと身を硬くしていた。
「は、はい。なに、阿部君?」
「三橋に本格的なロードワークを取り組ませることにしたんだけどさ」
「うん」
「あいつさ、ぼーっとしてるとこあるだろ? だから一人で行かせっと事故にでもあうかも
しれねーだろ。悪いけど、チャリでついていってやってくんねーかな」
素直に心配だからって言えばいいのに吹き出してしまいそうだった。
その日からは、すでに夏休みに入っていたということもあったし、三橋君の走り込みについていく
ことがマネジの仕事に増えた。
学校から出て河川敷を目指して大きな橋までのコース。片道五キロで往復十キロとなる距離を
始めのころ三橋君は相当な時間を費やしていた。この真夏の暑さと陸上部のようなランニング量のため
それも無理ないことだと思っていた。
息も絶え絶えになってしまうけど、それでも不平不満は一切口にせずに少しずつタイムを
縮めていった。
私は帽子をかぶって自転車で後ろからついていく。時折、頑張れーと応援したり、ペースが落ちてるよー
と厳しいことを言うなりして叱咤激励してついていく。
折り返し地点となる橋の手前につくと堤防の土手に並んで座って休憩。自転車のかごに積んできた
保冷バッグから用意してきたスポーツドリンクを手渡して、二人揃って水分補給する。
八月の炎天下でのハードなランニングなので、三橋君の発汗量は毎回すごいことになっている。タオルも
いいけど、冷たいおしぼりだともっと喜んでもらえるんじゃないかなって考えた。
そこで三日目からは保冷バッグにそれも詰めていって、彼に勧めたらぎこちないながらも喜んでくれた。
八月も半ばを過ぎて、天気予報の女の人は暑さも峠を越しましたって言っていたけど、それでも
暑いものは暑かった。
「今日も暑いね」
「う、うん」
いつものように三橋君についてきた私は先に座っていた彼の隣に腰を下ろして、持ってきたものを手渡す。
最初はなにを話していいかわからなくて、お互い黙っていることが多かった。だけど、これでは
いけないと考えて私から積極的に話しかけるようになっていた。
その成果なのか、他の部員の皆と話すときのように三橋君は接してくれるようになった。
野球部の大切な仲間なんだから、少しでも仲良くなりたいと思っていた。他の皆とはわりと普通に
話せるようになっていたけど、三橋君に限ってはなかなかうまくいかなかった。
でも、このロードワークを通してようやく仲良くなれたようで嬉しかった。
「篠岡、さんは……どうしてうちに入ろう……って、思った、の?」
「えっ」
驚きを隠せなかった。今までは私が話題を振って三橋君がそれに答えてくれるという形だった。
彼のほうから何かを聞いてきてくれるというのは初めてだったからだ。
「あっ、いや、ごめん……っ」
「あっ、ううん。こっちこそごめんね。いきなりでちょっとびっくりしちゃった。えーっと、
なんでうちに来たかだったよね?」
私たちがいる堤防の下はグラウンドとなっていて、少年野球の小学生たちが一生懸命に白球を
追いかけていた。頭を整理するため、その様子を眺める。
「えっとね、ちょっと長くなるけど……いいかな?」
了承をもらって話を始める。さて、どこから話せばいいのかな。
「うちのお父さんね、高校球児だったの。でも当時は弱かったみたいで、とても甲子園を狙えるなんて
レベルじゃなかったんだって。ところがね、私が小学校に上がる前だったかな。
お父さんの母校が甲子園出場を決めたの」
指導者に教えてもらいながら、小さな子供たちがぎこちない動きで素振りを繰り返していく。その様子を
見て昔のことを思い出していた。
「お父さん、めちゃくちゃ喜んだの。OBの人たちが応援ツアーを企画してね。うちのお父さんも
それに申し込んで応援に行くことになったの。でも、お父さんは一人じゃ寂しかったらしくて、
私がお供でついていくことになったんだ。
埼玉から甲子園のある西宮までバスで行ったんだよ」
「甲子園に、行ったことが、ある……んだ?」
「うん。そのころはまだ小さくて野球のことはよくわからなかった。でも、甲子園球場の
アルプススタンドに入るとね……ものすごく興奮した」
「…………」
「甲子園球場は小さかった私にはとても大きく見えたの。こっちも相手の学校もアルプスは
ぎっしりで、在校生だけでなくて大人の人たちもいっぱいだったな。
ブラスバンドの演奏や、雲一つない青空の下で綺麗なグラウンドを駆け回る選手の人たちを
見てると、野球のことよくわかってなかったくせに興奮しちゃって、
学校からもらったメガホンを握り締めてキャーキャー騒いでた」
手に持っていたスポーツドリンクのボトルを口に持っていって喉を潤す。暑さのせいもあるけど、
当時のことを思い出して興奮してしまい、喉がカラカラだった。
「結局、初戦で負けちゃったんだけど、私はそれで高校野球が大好きになったの。小学校に入ってからは
少年野球に入れるまで待って入団して卒業まで頑張ったんだよ。
……お母さんは女の子なのにっていつも心配してたけど」
ちょっと舌を出しておどけてみせると三橋君は微笑んでくれていた。
「中学では野球部に入れてもらえなくて、仕方なくソフトボール部に入ったの。三年になって進路を
決めるときにね。近所に西浦に通っているお姉さんがいて、西浦に来年から野球部ができるよって
聞いて決めたんだ」
「……?」
「ほら、私たちが野球部の第一期生でしょ?」
「う、うん」
「自分たちが野球部の歴史を作っていくって燃えない? 乏しい練習設備や限られた人数や少ない
練習時間とか……そういった逆境のなかでも頑張って少しでも上を目指していくって
カッコよくない?」
にっこりと笑顔を浮かべて彼を見つめる。三橋君は汗を拭って頷いてくる。
「雑草魂って言ってたプロ野球選手がいたでしょ」
「うん」
「その人もいろいろ苦労したそうだけど、そういうハンディキャップを乗り越えて甲子園に行けたら
最高だろうなーって思って、西浦を受験したんだよ。
もし行けなくても、三年間を頑張ったって充実した毎日を送れたなって最後に思えれば、
それだけでもいいし」
もっとも、私はマネジだからあくまでも裏方役だけどねって付け加えるのも忘れない。
隣にいる三橋君がぽつりと呟いてくる。
「――行こう、ね。甲子園」
「うん。うちは一年生しかいない新設校だけど、今年の夏は初めての大会なのにベスト4に入れた。
これからも皆で練習頑張れば、甲子園もきっと行けるよ」
「オレ、まだまだダメピーだけど頑張る、よっ」
三橋君のセリフにがくっとしてしまう。うちが好成績を残すことができたのは、投手である三橋君が
一人で――それも身を削るようにして投げ抜いてくれたからに他ならないのに。
もっと自信をもってくれればいいのにと思う。
「ううん。投げている三橋君はとってもカッコいいんだから。学校の女の子たちからも人気すごいよ。
一年から三年生まで分け隔てなくね。私も一生懸命になって投げている三橋君のことベンチから
見ていてカッコいいって思ってた。
ひたむきに頑張るところが大好きだよ」
最後の言葉を言った瞬間、場がビキッと凍ったような錯覚を受けていた。ほんの近くの橋では交通の要所
ということもあって通る車の数はすごいし、すぐ下では小学生たちが野球に励んでいる。
だが、それらの騒音や喧騒は不思議と耳に入ってこなかった。
顔を暑さのせいではなくて、明らかに別のことで真っ赤にしている彼を確かめて背中に冷たい汗が
流れていく。
「あのっ、違うの! 大好きって付き合ってほしいなとかそんなんじゃなくてっ! でも、三橋君のことは
かなり好きなほうだし……」
――あー、なに言っているんだろ。私って
否定したいのか、それともそうではないのか。自分でも何を言っているかわからなかった。
「篠岡さん」
「はっ、はい」
「甲子園、絶対行こうね。それとこれからも宜しくお願いします」
いつものようにどもらずに、爽やかな笑顔で右手を差し出されていた。その手を握った瞬間、胸がドキッと
する。私は言葉もなくただ一回だけ頷いていた。
「休憩、長すぎちゃった……ね。帰ろう?」
私と手を繋いだまま三橋君は立ち上がっていく。そのため、自然と私も立ち上がることになって。改めて
三橋君の顔を見る。とても日に焼けていて、とても精悍な――男の子なんだって印象を強く受けた。
帰り道――。
いつもと同じようにして走る三橋君の後ろからついていく。胸に抱いた感情に戸惑っていること以外は、
いつもとまったく同じことだった。
西浦高校硬式野球部の二度目の夏は県大会準優勝で幕を閉じた。最後の――九回裏の幕切れで
誰もが涙を流した。スタメンで出ていた同級生の皆も、ベンチから一緒に応援していた控えの皆も、
スタンドで声をからして熱心に応援してくれた父母会の方々や、学校の一般生徒の人たちも。
私も泣いてしまった。マネジが泣いちゃダメだって思って、頑張って我慢していた。だけど、
一生懸命に努力してきた皆が悲嘆にくれる姿を見ていると――去年の夏から密かに想いを寄せるようになり
意識するようになった三橋君の打ちひしがれた様を目にすると、こらえ切れなかった。
あの敗戦からすぐに私たちは動き出した。去年のベスト4がフロックではないということを
実証するとともに、いけると確信を得ることができた。
そのため、監督の指導も今まで以上に熱が入り、二年生・一年生問わずに練習にのめり込んでいった。
特に、水谷君の気合の入れようは周囲の皆を驚かせていた。どちらかというと今まで面倒くさがり
だった彼は、率先して練習に励んで積極的に声も出して皆を盛り上げていった。彼なりに思うところが
あったみたいだ。
ただ、一つだけ引っかかていることがあった。
エースの三橋君にここしばらくのところ、微妙に変化が生じてきているように感じる。他の皆の前
ではなんら変わっていないように振舞っている。だけど、心ここにあらずというか、どこか覇気が
ないように感じられてならなかった。薄くなってきた以前の自信なさげなところが、再び色濃く
なってきたというか。
直接の敗因は三橋君のワイルドピッチ。確かにどんな慰めの言葉を掛けようとこの事実は変わる
ことはない。責任を痛感する気持ちも理解できる。
だが、それではいけない。うちは既に秋を目指して動き出した。エースである三橋君は絶対に
必要だ。
――私になにかできることはないか
一年前から始めたロードワークについていきながら、彼の背中を見続けているなかでそのことを
考え続けていた。
夏休みということで午前から午後までたっぷりと練習は増やされていた。そんななかで全てを終えて
帰宅すると、日も暮れてもう夜が近くなっている。
お風呂とご飯を済ませて部屋に戻ると携帯がチカチカと光っていた。ぱかっと開いて確かめる。
メールではなくて電話だったらしい。
相手は中学のころからの親友で今でも同じクラスの子だ。グラウンドにて昼休みなどに一人でせっせと
作業しているときに、アイスなどを差し入れてくれる優しい人柄をした友人。
『おーす。千代、元気してるー?』
「うん。もちろん。毎日充実してるしね……」
ベッドに腰掛けて電話を返すとすぐに出てくれた。そのままなんでもない話をしていく。
『……そういえばさ、彼は元気?』
「彼って?」
『またまたー。なに言ってんのよ。愛しのダーリンに決まってるでしょ。三橋君よ』
「だ、だーりんって……私は別に……」
動揺を隠せなくてしどろもどろになってしまう。
『んー? 学校でもメールでも電話でも必ず話題に出してくるくせに、今更なに言ってるのかなー?』
「……うっ」
返す言葉がなくて詰まってしまう。確かによく話していたけど、そんなに話していたのかな。
『ほら、県大会の決勝戦で負けちゃって以来、どこか元気がないように見えるって言ってたじゃん。
その後どうなのかなってね』
一人で考えて半ば煮詰まっていたことだ。第三者に相談してみればなにかヒントになるようなことが
あるかもしれない。そう考えて友人へと詳しく説明していった。
『――千代さ、三橋君を遊びにでも誘ってみたらどう?』
「…………」
予想の範囲外だった回答を提示されてなにも言い返せなかった。
『そういうときって気分転換が一番だと思うよ。朝も早くから夕方まで野球漬けの毎日なんでしょ?
そりゃ息も詰まるって。リフレッシュしなきゃ』
「で、でも遊びに行くって……それってデートっていうか」
『うまくいけば三橋君もゲットできて悩みも解決。一石二鳥じゃん。そう固く考えることないよ。
なにも一回遊んだだけで彼氏彼女の関係になるわけでもないしさ』
「そうかな……」
かなりの魅力的なプランだ。三橋君も私も気分転換できて、私は更に彼に近づくこともできる。
でも、これでいいんだろうか。
『野球部も少しぐらいなら休みはあるんでしょ? それを使って誘っちゃいなよ。あとから
後悔することになっても知らないよ?』
「後悔って?」
『三橋君の人気って去年の活躍以来うなぎ上りでしょ。もたもたしていると他の女に
盗られちゃうかもよ』
去年から彼の優しい人柄に触れるようになって惹かれているのは事実だった。
頭に三橋君へと私以外の女が寄り添っている様子を想像してみる。
堪らなく嫌な光景だった。
『部活に励むのもいいけどさ、それだけって暗い、暗いよー。もっと高校生らしく恋愛でもして
楽しまないと。一度っきりの高校生活なんだよ? なにも行動を起こさずに後悔しちゃう
ぐらいだったら、思い切ってぶち当たっとけって』
「…………」
どちらかといえばこういうことには臆病で慎重な私でも、こうまで煽られるとその気になって
しまう。
『千代は十分に可愛いんだからさ、ちょっと誘惑しちゃえば落ちるって。それに三橋君も千代に
気があるみたいだよ』
初耳のことだった。
「……そうなの?」
『三橋君と同じクラスに友達がいるんだけどね。ほら、田島君も一緒のクラスでしょ』
うちの野球部の頼れる四番打者である田島君。彼と三橋君は一年ころから同じクラスだ。
『一学期に田島君が三橋君に好きな子はいないのかって聞いたんだって。田島君ってさ、
声大きいでしょ? だから丸聞こえだったみたいでね。クラスのなかにも三橋君のことを狙ってる
子が結構いるらしくて皆で聞き耳を立てていたらしいの』
『適当に名前を挙げていってね、じゃあしのーかかよって聞いたら、三橋君耳まで真っ赤にして
俯いちゃった……』
「ちょ、それってホントなの……っ!?」
『千代ー……。興奮するのはわかるけど、必死すぎだよ。耳が痛いって』
結構大きな声――どちらかといえば叫び声に近かったと思う。ごめんと短く謝る。
『しのーかってあんたのことでしょ?』
「ねえ、それってホントにホントなの?」
『もちろんだよ。カワイイ千代にうそなんかついたりしないって。だからさ、どこか遊びに行って
いい雰囲気になれば高確率でゲットできるよ?』
友人からもたらされた話にうそはないと思う。でも、やっぱり慎重にならざるを得ないというか。
私はそういったデートはしたことがないし、男子と当然ながら付き合った経験もない。
ちょっと……いや、かなりしり込みしてしまう。
『見える……見えるわ』
「? なにが?」
『更にモテモテになって彼女を作った三橋君を諦めなきゃいけなくなって、涙にくれる千代の姿が』
「…………」
改めて考え直してみる。ここは思い切って積極的に勇気を出すところなのかもしれない。
「でも、女の子から誘うのって変に思われないかな……」
『おっ、その気になった? 自信持ってガツンといきなさい。千代はマネージャーやってて、他の女
よりもアドバンテージがあるんだから。
三橋君は大人しいでしょ。だから待ってるだけじゃなにも起こらないからね。ここはあんたが
積極的にいきなさい』
三橋君をリフレッシュさせるという大義名分の下、私は行動を起こすこととした。正直に言えば
彼ともっと仲良くなりたいという気持ちのほうが大きいけど……。
友人から熱心なレクチャーを受けて細かい計画を練っていく。
三橋君には二人きりになれる時間――ロードワークの休憩のときに誘った。これなら誰からも邪魔は
入らないし、親しげに話しても不思議に思われることもない。
少し驚かれたけど了承してもらえた。大丈夫。きっと成功するとは思っていたけど、OKしてもらえて
ほっとした。それと、勇気を出してよかったとも思った。
事は上手く運ぶはずだった。
最終更新:2008年01月06日 20:06