5-453-457 ミハチヨ2 ミハチヨ後日談1 ◆LwDk2dQb92  (303氏)

今年の夏は当初は冷夏というはずだった気象庁の予報は見事に外れ、日本中で記録的な猛暑日を連日に
渡って観測していた。
 もちろん、私たちが住む埼玉も例外に漏れることはなく、八月はうだるような暑さが続いていた。

 ようやくのことで暑さにも一段落ついた九月最初の日――。
 自宅のダイニングにいる私は、目の前にいる一人の女の子と対峙していた。
 清潔感に溢れる栗色の髪を、左右で白のリボンでまとめてツインテールにしている彼女。顔立ちも
年相応の可愛らしさを見せながらも、将来は美人になるだろうなーと期待を抱かせる。

 ――って、私も親バカよね

 そっと苦笑を浮かべていた。
 くぅ~っとかわいいお腹の音が聞こえてくる。それもそのはずで、うちの家庭が夕食を取るのは
夕方の六時半ぐらい。時計の針は午後八時を回ったところなので彼女の空腹の虫が鳴くのも
無理もないことだった。
 女の子は恥ずかしくて顔を真っ赤にして俯く。私はその様子を見て笑いを堪えるのに必死だった。
 「ねえ、まりあ。お父さんはまだ帰ってこないよ。ご飯冷めちゃうから早く食べなさい」
 私と夫の高校時代の恩師からいただいて名付けた娘へと語りかける。
 先日、五才になったばかりの可愛い可愛い大事な一人娘だ。
 「いや。おとーさん、まってるもん……」
 私の手作りハンバーグと甘口のカレーライス――大好物から未練タラタラに目を引き剥がしていく。
この微妙に頑固なところは夫――廉に似たのかなと思う。

 私たちが三年生の夏に、西浦高校は夏の甲子園大会に初めて出場できた。
 公立校からの、純粋な地元のチームということで、私たちはとても大きな応援をもらった。公立
からの代表は実に十年ぶりということも大きかったらしい。
 しかし、一回戦を突破したものの、二回戦でダントツの優勝候補筆頭に挙げられた常連校に
延長戦の末に敗れてしまった。
 それでも、全力を尽くしての敗戦だったので私たちに涙はなかった。
 私たちに勝利した学校は、この後に圧倒的な力を見せ付けて優勝を果たした。
 自分たちの戦いぶりに満足したのはそれは私たちだけでなく見ていた地元の人たちも感じていたようで
埼玉に帰ってからも、よくやったといろいろ手紙や差し入れが届いていた。

 その後、廉は野球の推薦で大学に進学。私は子供が好きで、在学中から保育士になりたいと考えて
いたので、資格を取得できる短大へと進んだ。
 その二年後には無事に地元の幼稚園へと就職も決まって社会へと出て、更に二年後には彼も
大手の家電メーカーへと就職した。
 それからすぐに私たちは結ばれ、一年後には娘のまりあを授かることができた。

 視線を娘へと戻して説得する。まあ、たぶん、言うことを聞かないだろうけど……。
 「まりあ。お母さんは今日中にお父さんが帰ってくるよって話したけど、何時になるかは
 聞いていないのよ」
 「……まつもん」
 愛娘はなかなかしぶとい。目の前に置かれた大好物に今にも涎を垂らしそうなほどに追い込まれて
いるのに、見事な粘りを見せてくる。

 ――ガチャ

 不意に玄関の施錠が解かれて扉が開く音がするとともに、『ただいまー』と声が聞こえてきた。
 「――っ! おとーさんだっ!」
 私が気づいたときにはイスからひらりと降りた娘は玄関へと駆け出していた。呆れるやら関心するやらで
腰を上げて夫を迎えていく。
 「おおっ、ただいま。まりあ、いい子にしてたか?」
 「うんっ! おとーさん、だっこ!」
 うーん。先ほどまでというか、廉が留守にしていたこの一週間に渡って散々私を困らせていたのに。
 そんなことを言うのか。
 廊下にてまりあを抱いた夫とようやく顔を合わせた。
 「お帰りなさい」
 「うん。ただいま」
 一週間ぶりとなる彼の笑顔は特別なものだった。

 はしゃぐ娘をお風呂に入れてもらって、久々の家族三人揃っての夕食後に、お土産に買ってきてもらった
絵本を読んでもらい、ようやく満足したまりあを寝室にて寝かしつけた。
 仕事で疲れているところを悪いと思うけど、廉は喜んで彼女の相手をしてくれる。やっぱり、
なんだかんだで愛娘と遊ぶのは楽しいらしい。

 二人して娘が寝たことを確かめて、リビングへと入る。私はダイニングに引き返して、冷やしておいた
グラスとビールを取ってくると彼にお酌をした。
 「お仕事、お疲れ様でした」
 「ありがと。んー……仕事かな? 野球が仕事みたいなものだから、それもそうか」
 会社の野球部に所属している廉は、今でも社会人野球で野球を続けている。
 今週は東京で開かれている都市対抗野球に参加していたため、一週間ぶりの夫婦の時間となった。
 「この一週間大変だったのよ。まりあが、ずーっと『おとーさんがいない』ってぐずりっぱなしでね。
 第一反抗期は終わったはずなのに、私の言うことは聞かなくて、あなたの言うことはなんでも
 聞くのよね……。懐き方が違うっていうか。私のほうが一緒にいる時間は長いはずなのに」
 私の愚痴に廉は困ったような笑みを浮かべるだけだった。
 グラスが空いたのでお代わりを注いでいく。
 「おっとと……ありがと。そうだ。千代さ。ここしばらく体調が悪かったろ? ずっと気になって
 いたんだけど」
 さすがは優しい自慢の旦那様。
 気を使わせないように顔には出さないようにって心がけていたのに、微妙な変化でも気づいたらしい。
 「あっ、うん。昨日病院に行ってきたけど、大したことないから大丈夫よ」
 「病院に行くほどきつかったの? しばらくゆっくりしたほうがいいんじゃ……」
 これ以上隠すのは、純粋に心配してくれている彼に悪い。
 そろそろ種明かしをしようか。

 「ねえ。今年に入ってからまりあも大きくなったし、そろそろ二人目が欲しいよねって頑張って
 いたでしょ?」
 「うん……って、まさか」
 「三ヶ月だって。自分でも生理が遅れているなって思っていたけど、ぬか喜びさせちゃ悪いと思ったのよ。
 それに、大事な大会前だったからね」
 二人がけのソファに並んで座っていた私たち。静かにグラスをテーブルへと置いた廉からぎゅっと
抱きしめられていた。
 「千代、ありがとう」
 やっぱり、この腕で――愛する人から抱かれていると思うと、心がやすらいでいく。

 「――千代」
 いけない。この目で見つめられるとどうも弱くなってしまう。
 「ダメよ……。お腹の赤ちゃんに悪いから」
 「わかってる。キスだけだよ」
 そっと顎に手を這わされて上へと向かされる。目を閉じて、そのまま廉へと身を委ねようとしたところで、
 「あーっ! おかーさんばっかりずるい! わたしもおとーさんとちゅーする!」
 愛娘によって妨害されていた。
 おそらく、大好きな父親が久しぶりに帰ってきて興奮して眠りが浅かったのだろうか。
 お互いに顔を見合わせて苦笑いを浮かべると、足元に来たまりあを抱き上げて左右のほっぺたに
二人でキスをした。

 「来年以降は、二人きりの時間はもっと取れなくなるのか……」
 廉はまりあを抱きながら残念そうな表情を浮かべていた。軽くため息をついた姿を見て、くすっと
笑ってしまった。
 「……?」
 抱かれた娘は父親が言っていることの意味がわからないらしく、可愛く首を傾げていた。
 「うん。そうかも。だけど、家族皆で幸せになろうね」
 瞳を閉じてキスをねだる。
 その前に、あの夏に貰った大事な――ボールが目に入ってきた。
 しっかりとしたケースに入れてある大切な宝物であるそれにそっと心の中で囁く。

 ――ありがとう。これからも私たちを見守っていてね

 廉の息遣いを感じながら、私はそっと唇を受け入れていった。

                                (今度こそ終わり)





最終更新:2008年01月06日 20:28