概要
室町
幕府第8代
将軍足利義政には
実子がなく、
弟の
足利義視を跡継ぎに決めたが、その翌日、
妻の
日野富子が
足利義尚を産み、これを
将軍に立てようとしたため両者の跡継ぎ争いが起こった。また、
三管領のうち
斯波氏では
斯波義敏・
斯波義廉の間で、
畠山氏は
畠山政長・
畠山義就の間で
相続争いが起こった。
既に
将軍の
力は弱まり、各地の
守護大名が力を強めていたが、特に細川勝元と山名宗全の
勢力が強まり互いに勢力を争っていた。将軍や
管領の跡継ぎ争いが起こると、それぞれが細川勝元と山名宗全についた。このため、2派の争いは
全国的なものとなり、畠山政長と畠山義就の
衝突から京都を
戦場にして
乱が始まった。東軍(細川勝元・足利義視ら)は24か国の兵を約16万、西軍(山名宗全・足利義尚ら)は20か国の兵を約9万、
動員して戦ったが戦いは長引き、細川勝元・山名宗全の死後も戦乱は止まず、
地方まで広がった。
これにより京都は荒れ、室町幕府の力は衰え
戦国時代へと遷っていった。
公家や
僧らは乱を避けて地方に逃れたため、公家や僧らにより京都の
文化が地方に広まっていった。
西陣織で
有名な
西陣の
名は、応仁の乱に山名宗全の
本陣が置かれたことからきている。
最終更新:2026年05月03日 15:24