クシシトフ・ポミアン『増補・ヨーロッパとは何か』

国際関係論


クシシトフ・ポミアン『増補・ヨーロッパとは何か』


Where Sweetness and Light Failed


著者はポーランド出身、フランスの歴史学者。
これは「ヨーロッパ」という概念に纏わる歴史を描いた本である。
この本で描かれているのは、ヨーロッパの3度の統合と、2度の分裂である。

著者によると、12世紀ごろにヨーロッパは統合され、一つの地域としての纏まりができてきたという。
このときヨーロッパというのはラテン・キリスト教世界と同義であった。
ラテン・キリスト教世界たるヨーロッパは、イスラム勢力に対して一つとなることが求められ、
宗教的な統一が形成されていったのである。
このラテン・カトリック文化を基盤とした統一は16世紀まで続いていく。

ラテン・カトリック共同体の呼びかけ。
イスラーム世界の脅威に対する共同戦線=一回目のヨーロッパの統一機運

このヨーロッパの最初の統一はなぜ崩れたか。著者はその答えを宗教改革に求める。
17・18世紀には宗教改革が進み、ヨーロッパの地域の中でもカトリックを信奉するところと
プロテスタントを信奉するところに分裂した。
これまではイスラムに敵対しつつ、カトリックとして纏まりのあったヨーロッパに
分裂の時期が訪れたのである。

プロテスタントの勃興による「キリスト教圏」の分裂(厳密には以前から正教会があるが)

しかし、ヨーロッパは分裂したままでは終わらなかった。
当時のヨーロッパの知識人は依然として「スコラ」と「人文主義」の柱のもとに立っていたのである。
著者は「文芸共和国」という概念を用い、17世紀・18世紀のヨーロッパにおいても
パリを中心とした文芸的に統一されたヨーロッパが存在していたということを明らかにしようとする。
ガリレオとラプラスの間、知的な交流はこれまでの歴史にはなかったほどに活発となり、
ヨーロッパを学問的な面で統一した。

アカデミズム・ヒューマニズム
「文芸共和国」
ヨーロッパの知識人は原語で原典を読み、自国語同士で議論するというウチの教授の談

この第2の統一は、近代ナショナリズムによって崩壊する、というのが著者の論である。
イギリス・フランスといった先進国が先頭に立ち、近代国家が台頭してくると、
ヨーロッパ単位で物事を考える習慣が薄れ、国家が一つ一つ独立的に存在するようになってきた。
国家単位の民主主義、国家単位の産業が、ヨーロッパの分裂を加速させた。
もはや、カトリック的なヨーロッパも、文芸的なヨーロッパも存在しえなくなっていったのである。

カトリックキリスト教圏としての「ヨーロッパ」
アカデミズム的連帯としての「ヨーロッパ」

著者は第3の統合の可能性として、EC・EUを挙げている。
この本は1990年に書かれた。著者はソ連を含めた統一的なヨーロッパを想像していたようだ。
近年になって付加されたあとがきでは、著者がソ連崩壊後、EU内部に存在する分裂を指摘しつつ、
EUの可能性を冷静に叙述している。著者はEUに期待をしているようだが、
無批判にEUを信奉しているわけではない。単なる国際機構以上のEU.そのEUが
今後どのような統合をもたらすのだろうか。

ロシアとトルコがEUのハブられ勢の印象がある
イギリスは入ったんだっけ?
スイスは一応永生中立国なんで

乱読ノート 〜出町柳から哲学の道へ〜


著者はフランスで活躍しているポーランド出身の歴史家である。
本書は、進行中のヨーロッパ統合を強く意識しながら、古代ローマから第一次世界大戦までの
ヨーロッパ世界〈分裂〉と〈統合〉を概観している。

ヨーロッパ統合の機運

著者によれば、過去にヨーロッパ統合と呼びうる事態は二度見られ、
二度ともナショナルなものの台頭によって引き裂かれた。

ヨーロッパ分裂の歴史=ナショナリズムの勃興の端緒
とも言える

最初の統合とは、12世紀から16世紀にかけて見られた、ローマを中心とする
ラテン・キリスト教世界としてのまとまりのことである。
イスラム勢力への対抗意識がこの統合の背景にあった。この最初の統合は宗教改革によって失われた。
プロテスタンティズムを「いまだかつてこれほど強烈に表現されたことのない民族(ナショナル)感情と
民族(ネイション)の特異性の爆発」(p.113)と捉える視点は、僕には思いもよらないもので
(言われてみれば確かにそうなのだが)、大いに啓発された。

国ごとに分かれていたし、まがりなりにも戦争があった(宗教戦争)
ナポレオン以前の「ナショナリズム」な現象とできるかもしれない

宗教的分裂にもかかわらず、知識人は依然としてスコラ文化と人文主義的文化を
共通の文化的基盤として保ち続けた。彼らは国家や宗教の境界を越えて自由な知的交流を楽しんだ。
「文芸」に対する崇拝が彼らの紐帯となった。このようにして、パリを中心とする想像上の
——現実の世界では諸国間で戦争が絶え間なく続いていた——共同体「文芸共和国」が、
17世紀から18世紀にかけて成立するに至る。これが第二のヨーロッパ統合である。

「文芸共和国」

この第二の統合は近代ナショナリズム(民族主義)の台頭によって崩壊させられる。
フランス革命とナポレオン戦争がその最初の引鉄を引いたのだ。

ご存知ナポレオンである

目下、EUによって第三の統合が推し進められている。1990年初頭に脱稿された本書(原書)において、
EUに関する記述は当然見られない(マースリヒト条約締結は1991年12月)が、嬉しいことに、
著者は「平凡社ライブラリー版のための追記」を寄稿し、この件についての自身の見解を
かなり詳細に記している。これは本書の「売り」と言ってよい。
EUの前身であるECは、ソヴィエト連邦を敵視する陣営が一致団結した結果として生み出されたわけだが、
その敵が崩壊したということは、統合化を促す要因が焼失したということでもあり、
新たなナショナリズムの台頭の原因となりうる。三度目の分裂が生じない保証はどこにもない。

共通の『仮想敵』(広義)がいなくなり、お互いがお互いを脅威と思うようになる。

ヨーロッパという単位のために自国の特権を放棄できるか? 
前例のない多元的民主主義をいかにして実現するか? 
これらの問題が第三の統合の成否の鍵を握っている。

全く個人的な感想だけど、EU自体に損失を上回る魅力を求めるしかないんじゃなかろうか。

本書の特徴としては、ポーランド出身の著者らしく、ヨーロッパ世界の〈分裂〉と〈統合〉を、
〈中心〉と〈辺境〉という座標軸に照らして考察している点があげられる。
「ヨーロッパとは何か」というアイデンティティの問題は、
ヨーロッパであることが自明の(フランス、イタリアなど)〈中心〉諸国よりも、
自明でない(ポーランド、ロシア、トルコなど)〈辺境〉諸国にとってのほうが、
いっそう切実な問題である(あった)はずだ。〈辺境〉諸国の自己認識の変容に多くの紙幅が割かれている。
また、〈南北〉と〈東西〉という座標軸に照らしても考察している。
これについては、著者自身の記述を引用しておきたい。

17世紀初頭のヨーロッパ全体の政治は、ローマ末期以来変わることのない南北方向の軸、すなわちバルト海と地中海、スカンディナヴィアとイタリア、ドイツ的要素とラテン的要素、プロテスタンティズムとカトリシズムといった二極をもつ軸に沿って展開していた。これらの極のいずれかをそれぞれ中心とするこのふたつの領域を分ける境界線は、古代の「境界線」の近くを通り、ドイツを東西に区切っていた。
      • ヨーロッパの命運を握る列強は、17世紀初頭には教皇領、ヴェネティア、スペイン、フランス、神聖ローマ帝国、ポーランドといった国々であった。それが18世紀には、英国、フランス、オーストリア、プロイセン、ロシアになる。ただフランスだけが、ふたつの時代の地政的布置のなかで同じ地位にいるのである。かつてはヨーロッパにおける紛争の軸が南北方向の軸であったが、18世紀末には、新たに東西方向の軸が基本軸になった。いまや、ふたつの極は、大西洋とウラル山脈、英国——いずれアメリカが登場する——とロシア、アングロ=サクソン世界とスラブ世界、宗教的自由と正教、議会制と専制的ツァーリズムという具合になっている。相変わらず境界線が通過するにはドイツだけとはいえ、今度は、ほぼエルベ河のあたりを垂直に区切っているのである。(pp.130-2)

かつてレヴューした岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』*1によれば、
「ヨーロッパ思想は二つの礎石の上に立っている。ギリシアの思想とヘブライの信仰である。この二つの礎石があらゆるヨーロッパ思想の源泉であり、2000年にわたって華麗な展開を遂げるヨーロッパの哲学は、これら二つの源泉の、あるいは深化発展であり、あるいはそれらに対する反逆であり、あるいはさまざま形態におけるそれらの化合変容である」
(p.iii)と。この言葉の本当の意味が本書を読んでようやく腑に落ちた。
ヨーロッパという理念が引き裂かれようとした時、
再びそれを〈統合〉へと引き戻そうとする引力としてのヨーロッパ共通の記憶(文化的遺産)こそ、
古代古代の思想(→人文主義)とキリスト教信仰(→スコラ)なのだ。

なるほど、広い意味での『アカデミズム』というよりは、
ヨーロッパといういくつにも分かれた兄弟たちの共通の父である『ギリシャ人文主義』が適切であるわけだ。
そしてスコラもまたアカデミズムというよりそういった歴史的に共通の素地が鍵となるわけだ

東西冷戦下でも社会主義陣営の文学者や科学者に世界的名声があったたような
アカデミズムそのものの「越境性」はここではとりたてて重要とはされていないわけだ
確かに、これそのものはコミュニケーションの契機とはなっても統合力にはなり得ない。
『歴史』が根拠となるわけだ
最終更新:2009年09月28日 00:57