作者:わんこ
ざらりとした、皮膚の毛が逆立つ感覚。
それを追っていると、赤目の若い女に出会った。
悪魔だ。
瓦礫の中で対峙する。
お互いの距離はおおよそ十メートル。
「何」
用がないなら関わるな、といった感じの女。淡い紫色のポニーテールが、埃っぽい風を受けてかすかに揺れた。
「俺はロイド。ロイド・カワードだ。あんた、フェンリルだな? 俺は」
「エクソシスト」
「……。そうだ」
話を途中で遮られ、ロイドと名乗った男の口元がひきつった。人の話は最後まで聞け、悪魔が。
一呼吸おいて軽い苛立ちを抑えると、ロイドはニヤリと笑って、言った。
「そこまで分かってたら話は早いな」
「……。引け、ここは場所が良くない」
「ふぅん。場所が良くない……なァ。まぁ、確かに」
左手で顎を撫でながら灰色の空を見上げ、考え込む仕草のロイド。
しかしポケットに突っ込んだ右手には、小さな瓶がしっかりと握られていた。
「死ぬには少々、殺風景かも、なァ!!」
叫びながら腕を振り上げ、小瓶を投げつけた。
「ッ!?」
とっさに顔をかばうフェンリル。しかし腕に当たって粉々に砕け、同時に中の透明な液体が飛び散る。
「ッぐ! あぁあ!!」
液体が肌に触れたのか、叫び声を上げるフェンリル。
「痛ってぇだろ? 純品の聖水だ」
凶悪な笑みを浮かべるロイド。すぐに傍らのカバンを無造作に開いて、ロウソクやチョーク、魔術書を地面にばらまく。
「う、ぐ……ッ! はぁ、はぁ……!」
肩で息をしながら体勢を立て直すフェンリル。だらりと下げられた両腕にはぶすぶすと水ぶくれができ、蒸気のような煙を上げていた。
「おいおいマジかよ! 雑魚なら今ので即昇天すんのによ、面倒くせぇなぁ!!」
ロイドが叫んだのとほぼ同時にフェンリルが飛び退る。直後、足元に出現した赤黒い光の球体が地面をえぐった。
あれに触れると不味い。直感的に判断し、近くの廃墟に頭から飛び込むフェンリル。
「おら、逃げてんじゃねぇ! まだまだ行くぞォ!」
「くッ!」
現れては消える光の塊。慌てて立ち上がり、障害物を足場に避けるが、しつこく迫ってくる。
「鬼ごっこか? あぁ!? 暇つぶしにもならんなぁ!! 狼さんよォ!!」
「くそっ!」
遠くから聞こえるロイドの罵声。距離から察するに、最初の位置から一歩も動いていない。
「あの男自体を叩かなければ駄目か……ッ!」
疾走しながらつぶやくと、フェンリルは奥歯を噛み締め、目を閉じた。
「ふっ……!」
魔力が体外に分泌され、陽炎のような火になって全身にまとわりつくのを感じる。同時に体中の筋肉がうねりをあげ、血管が膨張する。
「うぅう、ぐぐ……アァァ」
「ほぉ、この感じは。やっとやる気になったか! いいぞ!」
「ウオオオォオオォォアァ!!!」
ロイドの声に応えるように叫ぶフェンリル。机をなぎ倒し、降りかかるコンクリートの塊を砕き、狭い廃ビルの中を駆け回る。両腕が焼けるように熱いが、気になどしていられない。目指すは奴に一番近い壁。
「やけに元気じゃねぇか! 俺も本腰入れてやるとするかァ!」
光球が勢いを増す。数は数十にも膨れ上がり、頭ほどだったものが今やフェンリルとほぼ同じ大きさになっている。本来魔力を吸収するはずのフェンリルの力が、赤黒い塊が背中に肉薄するたびにわずかに弱まっていくのを感じた。
急がねば。錠前のついた鉄のドアを体当たりでぶち破る。
「……あった!」
フェンリルの目の前に飛び込んできた分厚い灰色の壁。この向こうにあの男がいる。拳を固く握り締め、狙いを定めた。
「オォォオオオオオ!!」
渾身の雄叫びと共に腕を突き出す。
「なっ、何!?」
ロイドのうろたえる声。直後に響く、地響きにも似た爆音。崩れ落ちる大量の瓦礫と、舞い上がる土埃が視界を遮る。
「うが……ッ! ゲホッ!!」
しばしの間を置いて、男の咳き込む音がした。
フェンリルの拳は厚さ数十センチもの壁を穿ち、ロイドの首を掴んでいた。
――はずだった。
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ニヤリ。
壁越しで見えないが、ロイドが薄く笑うのをフェンリルは確かに感じた。
「くっ!」
背筋を撫でる悪寒に押され、喉を潰そうと力を入れる。
しかし、手応えがない。骨のない、ゴムのような感触が指を押し返すだけだ。
「何っ!?」
「くくく、引っかかったなバァカ! はっはーァ!」
響き渡る高笑い。その時、掴んでいた首が消えた。慌てて壁から手を引き抜き、距離を取るフェンリル。しかしすぐに、見えない壁によって動きを阻まれる。
「接近戦タイプの悪魔に最初から姿晒すわけねぇだろ! お前が掴んでたのはダミーだよ!」
周囲が暗くなり、地面が紫色に輝き始める。フェンリルの足元には、ルーン文字で綴られた大きな五芒星(ペンタクル)が描かれていた。
「くそッ、抜かった……あがッ!?」
唇を噛み締める間もなく、見えない力で手首と足首を掴まれ、空中で無理やり大の字に固定される。
「へ、やっと捕まえた」
身動きの取れないフェンリルの前に、どこからかロイドが姿を現した。分厚い魔術書を片手に、茶色の帽子とトレンチコートをなびかせながらゆっくりと近づいてくる。
「貴様あッ!」
叫びながら思い切りもがくが、手足を掴む万力のような力はびくともしない。『炎』も封じられている。
「おっと、卑怯者呼ばわりは無しにしてくれよ? 俺のいた所じゃな、お前ぐらいの悪魔を倒せば、一年は余裕で遊んで暮らせる金がもらえるんだぜ。手段なんて選ぶわけねぇだろ」
「ぐっ、この、うおおおおォォオ!!」
ロイドの言葉に激昂して滅茶苦茶に暴れる。
「……ふん。待ってろ、すぐに楽にしてやる」
フェンリルと目を合わさないよう、帽子を深くかぶりなおすと、ロイドはコートの内側から分厚い魔術書を取り出して開き、ブツブツと呪文を読み始めた。
「あぁぁああ!!! いやァァあああァァアアァア!!」
紡がれる呪詛の言葉が聞こえないように、頭を激しく打ち振りながら絶叫する。
それなのに、ロイドの口から紡がれる『死刑宣告』はしっかりと鼓膜に焼きついてくる。
「あっぁああ……! ぐぅぅぁぁあ……やめ……あ……」
全身を濡れた手で撫で上げられるような感覚が襲う。
心臓が不規則なリズムを刻み始めた。
「待ちなさい」
不意に、声が響いた。
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続いて起こる地響き。
「ぐぅっ」
「なッ!? おい誰だッ!」
腕で顔を隠しながら、慌てて周辺を見渡すロイド。
「ここよ」
天井にまで大きな穴が空いた廃ビルの天辺。
そこに、コウモリの羽を持ち、白いワンピースに身を包んだ赤髪の少女がいた。
「ふふっ」
少女は笑うと、巨大な羽を広げて飛び降りる。日の光を背に浴びながら優雅にはばたく姿は、神々しくさえもあった。
「吸血鬼だと……ッ!」
突如現れた少女に、己の目を疑うロイド。彼自身、若い頃に一度、年老いた吸血鬼を仕留めたことはあった。その異常な強さから、もう戦いたくないと思っていたのだが。
「まさか“こっち”にもいやがったとは……!」
思わず首から下げた十字架を握り締めた。
「よっ……と」
少女が地面に降り立つ。ちょうどフェンリルを挟んだ、ロイドの向かい側。
「さて、フェンリル? 生きてるかしら?」
やれやれといった様子で動かないフェンリルに近づく少女。
「……レイチェ、ル……か……」
「ええ。たまたま通りかかったことに感謝なさいな」
レイチェルと呼ばれた少女はそう言うと、パチン、と指を鳴らした。途端にフェンリルの足元にヒビが入り、ペンタクルから光が失われる。そして人形の糸が切れたようにフェンリルの体は地面に投げ出された。
「うぐっぅ」
「あら、なぁに? 受け身も取れないほどやられちゃったの?」
無様に地面に落ちる姿を笑いながら、手を差し出すレイチェル。
「す、済まない……」
「ふふ、いいのよ。だって私の大切なペットですもの」
「それは……お前が勝手に……」
「いいからいいから。それにしても貴女がここまでやられるとはね」
フェンリルが上半身を起こすのを見届けると、レイチェルの目は地面の魔法陣に向けられた。
「ふぅん、なかなか古風な魔方陣ね。触媒の錬成、結界、呪文の詠唱が発動要件……めんどくさいタイプね。だけど、その分効果は絶大、捕まれば例え大悪魔でもただじゃ済まないわー。ってところかしら」
そして、レイチェルが初めてロイドの方を向いた。
「でしょう?」
「……ああ」
ロイドは静かに頷いた。彼の魔法は総じて強力だが、発動する条件を整えるまでに時間がかかる。
「さて、私の可愛い犬を半殺しにしたツケはどう返そっかなぁ?」
ゆっくりと近づくレイチェル。人形のように白い肌が、真紅の髪と瞳をより一層目立たせる。
「出来ればツケのまま踏み倒して頂きたいね」
軽口を叩きながらゆっくりと後ずさる。もう罠は張った。あとはこの悪魔がもう五歩、こっちに来てくれればいい。
「あらあら、それは駄目よ。利子とチップまで、しっかり払わせてもらうわ」
楽しそうに笑いながら、こちらに近づいてくる。あと三歩……二歩……。
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「今だッ!」
「今? 何かしら?」
“ポイント”にレイチェルが立った瞬間、魔術書を開き、手をかざす。
「危ないッ! レイチェル!!」
「っ!」
フェンリルが慌てて叫ぶのと同時に、地面から何本もの鎖が飛び出し、レイチェルの両足に絡みついた。
「……ふん、こんなので私を捕まえた気になって? 」
それでも不敵な表情のレイチェルに、ロイドも笑って応じた。
「そういう口をいつまで叩けるか、楽しみだな!」
そう言うと魔術書をめくり、読み上げ始め…………られなかった。
世界が回っている。
「っぐぁ!!」
理解する間もなく、ロイドの体は地面に叩きつけられた。さらに吹っ飛んだ衝撃を殺しきれず、地面に何度も打ち付けられる。
壁に背中を打ち付け、ようやく止まる。
「う、うが……! ぐッ……おぉあ……っは、あ゛ぁ……がはッ!!」
喉元に血がこみ上げ、大きくえづいた。全身に火が付いたような痛みが駆け回る。とりわけ大きい、腹部の猛烈な痛み。
この時初めて、ロイドはレイチェルに殴られたことを理解した。
馬鹿な、先ほどの鎖を解いたというのか。あれは魔法でどうこうできるものではない。考えられるとすれば……。
「ごほッ、ゲホッ……まさ、か……素手、で……!?」
「貴方、あまり悪魔を舐めない方が良いわよ?」
耳元にレイチェルの声。
不味い、逃げねばと頭が警告を発するが、体がまるで言う事を聞かない。
「ふふふ……」
真紅の髪。透き通った瞳。大きく裂けた口元から覗く、尖った歯。
華奢な手で胸ぐらを捕まれ、ロイドの体は軽々と浮かんだ。
「それじゃ、いただきます」
「く、そ……ぉ」
舌なめずりをするレイチェルを見て、ロイドが観念した時だった。
こつん。
「あ痛っ」
レイチェルの後頭部に小さな石が当たった。
「もう、一体何よ?」
満身創痍のロイドを手放し、ゆっくり振り向くレイチェル。
そこには、スーツ姿の男と、赤髪を束ねた少女が立っていた。
「貴方たち、誰?」
邪魔をするなとばかりに高圧的な口調で尋ねる。スーツ男が口を開いた。
「俺か? 俺はまぁ、通りすがりの人であってだな……えーと」
「山田のおじちゃんだよ! 私は緒都!」
「おまバカヤロ、普通名乗るか!」
「えーでもー」
「デモもストもありません!」
「本当に何なのよ、貴方たち……」
興を削がれて肩の力が抜ける。
「とにかく、私は今忙しいから。それじゃあね」
そう言って二人に背を向けたレイチェルであったが、ロイドがいた場所には誰もいなくなっていた。
「な、どこに……?」
「へっへーん、おじちゃん二号救出ー。お兄ちゃんさすがー!」
慌てて向き直ると、いつの間に現れたのか、緒都の隣で白い狐がボロボロのロイドを乗せて立っていた。
「……あの、そいつ返してくれないかしら?」
「やーだよ、べぇー」
大きくあっかんべをする緒都。
「んだコラァ!! ミンチにされたいようね! あぁ!?」
「うーわぁー。怒った怒った! 山田のおじちゃん怖いよー」
「ウェイ!? 俺に振るの!? いや、その、まぁ……ここは双方手を引きましょう、ということで……」
「いきなり現れて無茶苦茶言ってんじゃないわよ!」
「まぁまぁ、まぁまぁ。ほらコレ、飴ちゃんあげるから……あヤベ、一回溶けて変形してら。まいっか……どう?」
「ぶっ殺す!!」
「ひいっ」
鼻息も荒く、レイチェルが飛び出そうとした時だった。
「やめろ、レイチェル」
レイチェルの後ろにやってきたフェンリルが、静かに肩に手を置いた。
「でも……!」
「私は大丈夫だ、傷も大したことはない。それにお前、もう魔力をだいぶ消耗してるだろう」
「くっ」
静かに諭され、目を伏せるレイチェルだったが、やがてゆっくり顔を上げ、言った。
「……ふん。その男を連れてさっさと消えなさい。次会ったときは容赦しないわよ」
そして、身を翻して二人は瓦礫の山に消えていった。
「ねぇ」
「何だ」
「あー……と、やっぱりなんでもない」
「飴なら後で私の家にあるから、その時好きなだけ食べればいい」
「いや別に飴が欲しいとかじゃ……ま、まぁしょうがないから貰いに行ってあげるわ!」
「そうか」
そんな会話を、埃っぽい風の中に残しながら。