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放送室のドアを開けた瞬間、懐かしい香りがした。
「…有香」
あたしを見て顔を歪ませたその人は、そんな苦い顔をしてもやはり綺麗な人だった。
この香水も、好きだったな。甘くてスパイシーな、その懐かしい香りにあたしは微笑みながら、
「…久しぶりですね、先輩」
と静かに言った。
先輩はあたしから目をそらした。
ふわりと柔らかいウェーブのかかった髪が、うつむいた横顔にかかる。
…あ。
あ〜ちゃんに、似てる。
あたしは思わず心の中で苦笑いした。
今さら気付いたこと。
あたしが先輩を選んだのは、その繊細に整った綺麗な顔立ちに惹かれたのでも、大人びた甘い香りが好きだったのでもない。
放送部の先輩が担当してた、文化祭の後夜祭での選曲がカッコ良くて、あたしが声をかけたのが最初だけど。
ふわふわ揺れてる柔らかい髪に、あたしは一瞬目を細めたのを覚えている。
…あ〜ちゃんに、似てる、と。
自分ではっきりと自覚を持ってそうしたワケじゃないけど、結果的に先輩に失礼なことをしてたのかもしれない。
あたしが一番好きだったのは、そのウェーブがかった髪に埋もれるように首筋にキスすることで、その時先輩がどんな表情をしてたか、あたしは知らない。


「すいません、CD置きっぱなしにしてたの取りに来たんです」
あたしは機材の横に積まれたCDを手早く探る。
この放送室で何度も交わしたキス。いつも静かにかかってた音楽。鼻をくすぐる甘い香り。
…そんな記憶のある場所から、早く出るに越したことはない。
「…有香」
先輩の震えるような声が、静かな放送室に響く。
「…今、西脇さんとつき合ってる…?」
タイミング良く飛び出したその名前に、あたしは心臓をつかまれた。
嘘を重ねるのはまた失礼になる気がして、あたしは静かに「はい」と微笑んだ。
先輩はあたしをじっと見て、
「…それって私とつき合ってた頃から…?」
あたしは返答に詰まった。
二股はかけてないし、先輩とつき合ってる時は先輩が好きだった。
…でも。
どんな時でも、あたしの心の、誰も入れられない領域に住んでいるのは、あ〜ちゃんだ。
あ〜ちゃん一人、だ。
絶対的な、別格な存在として。
決して手に入らない、触れることすら恐ろしい絶望的な憧れのように。そんな絶望の中でも常に底に潜む最後の希望のように。
いつも、あ〜ちゃんはあたしの心にいた。
それを先輩は気付いていた?
…きっと、そう。頭のいい、繊細な人だった。
先輩と別れたのは去年のクリスマスイブ。あたしが次の日のクリスマスはあ〜ちゃん家で過ごす、ってことを先輩は許してくれなくて、それがどうしても嫌になって、その日に別れた。
先輩の独占欲が重くなったと言うより。
あ〜ちゃんと一緒にいられなくなるのが、ただもう、嫌だったんだ。
でもそれは、先輩を責めるべきことじゃない。
悪いのは、ゆかだ。
一番大事なものを後回しにした、あたし。


あたしが口を開こうとした時、放送室のドアが開いた。
「ゆかちゃん、CDあったん?」
「あ〜ちゃん!」
自分でもびっくりするほど、声が裏返った。
動揺してCDを落としそうなあたしを見て、先輩は薄く笑った。
きょとんとしてるあ〜ちゃんに、先輩はゆっくりと近付いて、
「…西脇さん?」
「…ハイ」
「有香の今までのタイプと随分違うんだ〜」
…先輩、やめて。
「有香に、遊ばれないようにね。あの子、ズルいとこあるから」
あたしが好きだったふわふわな髪を揺らして、先輩は出て行った。
そう、ズルいのはゆか。あたしに責める資格なんてない。
だけど、その矛先をあたしじゃなくあ〜ちゃんに向けたことが許せなくて、あたしは握った手がぶるぶると震えた。
殺意に近いほどの、激しい感情。
自分でも驚くほど。
あ〜ちゃんが関わると、あたしは感情のセーブが効かなくなる。
「…ゆかちゃん」
あたしはあ〜ちゃんの顔を見た。
「もう帰ろっか」
何でも無い顔をして、淡々と、あ〜ちゃんは言った。


校舎を出ると、春の雨が静かに降っていた。
薄い灰色にけぶる景色。校舎まわりの桜が、柔らかな雨にうたれてくすんで見えた。
桜の花びらの混じる雨の降る中、あたしとあ〜ちゃんは一つの傘の下、肩を寄せて歩いた。
あたしのカバンの中にはほんとは小さな折り畳み傘があったけど、あたしは嘘をついてあ〜ちゃんの傘に入った。
何となく、物理的な距離を縮めたかったから。
さっきの先輩の言葉に、あ〜ちゃんが何を思ったのか読み取れなくて。
しとしとと絶え間ない雨音の中、言葉少なになりながら、あたしはあ〜ちゃんの静かな横顔を何度もちらちらと眺めたけど。
あ〜ちゃんの心は、薄い皮膜がかけられたように、どこか遠く感じた。
傘からはみ出したあ〜ちゃんの制服が雨に濡れてるのを見て、悲しくなった。
あたしのしてることは、無意味な一人よがりなのかな。
あたしは傘をあ〜ちゃんの方に深く傾けて、
「…ごめん、あ〜ちゃん」
と呟いた。
「…何が?」
「あ〜ちゃんの肩、雨に濡れとる」
ああ、とあ〜ちゃんはふふっと小さく笑って、「ゆかちゃんも濡れとるよ」と言った。
「…それと、さっきの、先輩の言葉」
ああ、とまたあ〜ちゃんは笑った。
「ゆかちゃん、うちとつき合う前にあの先輩とつき合っとったんじゃろ?」
あたしは無言のまま、あ〜ちゃんの横顔を見た。
穏やかな表情。時々見せる、考え深そうにうつむいた顔。
静かで淡々としたあ〜ちゃんの声が、遠く感じる。
何故か、あたしの胸の内が波立ってきた。


「あの人、まだゆかちゃんのこと、好きなんじゃろ」
その言い方は、からかうようでも見下すようでも怒ってるようでも不安そうでもなかった。
何でもない感じだった。
何でもないこと、なのかもしれない。
あ〜ちゃんは、ゆかのことなんかじゃ、心を乱されないのかもしれない。
急に雨音が大きくなった気がした。
気を滅入らせるような雨の中、あたしは一人でぽつんと佇んでるような気がした。
濡れた制服が、冷んやりと重く感じた。
あ〜ちゃんの制服も同じくらい濡れてるけど、それはもうあたしの胸を痛ませなかった。
隣にいるのに。
あ〜ちゃんは、絶望的に遠い。
「…知っとったん?先輩と、ゆかのこと」
「…文化祭の後くらいにつき合い出して、…クリスマスイブに、別れた」
…え。
あたしの、心臓が、止まった。
あ〜ちゃんは少し困ったような顔をして、居心地悪そうに口をつぐんだ。
知ってたんだ、あ〜ちゃんは知ってたんだ。
ゆかがあ〜ちゃんには知られたくなくて、一生懸命隠してたことをあ〜ちゃんは知ってたんだ。
あたしが必死になって隠してたことは、あ〜ちゃんには何でもないことだったんだ。
自分の気持ちに気付かれて距離を置かれるくらいなら、と別の人を好きなふりをして、あ〜ちゃんに応援されると泣きたくなって。
とっかえひっかえ色んな人とつき合って、誰に対しても本気じゃないってことをあ〜ちゃんに知ってほしくて。
でもあ〜ちゃんに軽蔑されるのが怖くて、あたしは誰とつき合ってるとかすぐ別れたとか出来るだけ内緒にしていた。
自分はつき合ってる人がいるくせに、あ〜ちゃんが誰かとつき合うんじゃないかって想像するだけで、自分でも怖いくらい気持ちが乱れた。
あたしの中の、何ものにも代え難い、譲れない領域にあ〜ちゃんがいることを。
あたしは必死になって隠してたんだ。


そんなあたしの懸命な努力は。
全部、あたしの一人よがりで。
ゆかのことなんかじゃ、あ〜ちゃんは乱されない。
ゆかが誰とつき合って、別れようが、あ〜ちゃんは平然と出来るんだ。
取るに足らない、ちっぽけなこと。
「…あ〜ちゃんは、気にならなかったの?」
雨音の中、やけに自分の声が沈んで聞こえた。
足元には、雨に散った桜の花びらが無残な姿をさらしている。
「ゆかちゃんがモテるのは、前からじゃろ」
あ〜ちゃんの、穏やかな声。
雨音が、耳障りだ。
「あの人、すごく綺麗だったし。うちと随分タイプが違う、ってのはほんまのことじゃろ」
あ〜ちゃんは明るくそう言って、ふんわりと笑った。
その天使のような笑顔に、あたしが苛立つのは、間違ってる。
そんなの、分かってるけど。
「…あ〜ちゃんて」
すねたように聞こえないように淡々と言うと、突き放したように響いた。
「いつもいつも、余裕じゃね」
あたしは水たまりで泥にまみれた桜の花びらを、靴の先っぽで踏みにじった。
顔は、上げられなかった。
「…いつも余裕なわけじゃないけえ」
あ〜ちゃんの、低く抑えた声。
ハッと顔を上げた。
もうあ〜ちゃんは、傘の下にはいなかった。
背中を向けて走っているあ〜ちゃんの柔らかい髪が、冷たい雨にうたれていく。
それを、あたしはただ見つめていた。
静かに降り続ける柔らかな雨音が、ひどく、耳障りだった。


㈪へ続く






最終更新:2009年04月10日 00:27