落ちかけた夕陽が、最後の抵抗を見せるように、鮮やかな茜色に音楽室を染めていた。
窓から見える桜が、朱に溶けながら散っている。
昨日の雨が嘘みたいな、華やかな夕暮。
でも夕闇はひそやかに追い迫り、影は濃く深く沈む。
音楽室の奥、ピアノの横に佇むあ〜ちゃんの姿は、影に溶けこんで表情が見えなかった。
それはとてもひっそりと静かで。
窓の外の、桜の散り急ぐ音が聴こえそうだった。
夕陽に溶けるあ〜ちゃんのふんわりとした髪。鮮やかな茜色を背景に、あ〜ちゃんはシルエットも柔らかい。
…あの時の、あ〜ちゃんみたいだ。
バレンタインの日、あたしにあ〜ちゃんが気持ちを伝えてくれたのは、この音楽室で。やっぱりこんな風に茜色に染まる中、あ〜ちゃんは真っ直ぐにあたしを見つめて言った。
『うちは、ゆかちゃんが、好き』。
その一言で、あたしは揺るぎない、確かなものを手に入れた、と思ったのに。
その目の眩むような幸福は、春の盛りが幻のように過ぎてゆくように、あっけなくて頼りないものだった。
『うちは、ゆかちゃんが、好き』。
そのたった一言しかすがりつくものが無いことが、あたしから自信を奪ってゆく。
「…あ〜ちゃん」
あたしの声が、張り詰めた弦のように響いた。
「あ〜ちゃん、昨日、ゴメン」
「…何が?」
「なんか、八つ当たりみたいなこと言ったけえ」
「…別に、気にしとらんよ」
…気にしとらん、か。
その言葉が本音かどうかすら、うまく読み取れない。
ほの暗い夕闇に溶けたあ〜ちゃんは、穏やかで揺るぎなくて、あたしを不安にさせる。
「それより、何でゆかちゃん、うちがここにおるって分かったん?」
「そんなん簡単じゃ」
あたしはゆっくりとあ〜ちゃんに近づいた。
「あ〜ちゃんってちっちゃい頃から、何かあったら音楽室におった」
「えっ、そうなん?」
「…自分で気付いとらんかったん?」
「うん。すごいね、さすがゆかちゃんじゃ。幼なじみだけあるわ」
あ〜ちゃんは無邪気な笑顔を見せたけど。
それは、あたしの、何かを砕いた。
あたしは吹き荒れる嵐のような感情になぎ倒されるように。
あ〜ちゃんを強く抱きしめながら、ピアノの影の薄闇に、二人して崩れ落ちた。
「…ゆかちゃっ…!?」
驚いたあ〜ちゃんが小さく声をあげるのを封じるように、強く強く抱きしめる。
あ〜ちゃんは知らない。あ〜ちゃんには分からない。
あ〜ちゃんが無邪気に幼なじみと言うたびに、ゆかが今までずっとどんな痛みを感じてきたか。
側にいるのが当たり前の幼なじみ、って関係は、じわじわとあたしの息の根を止めそうで。
幼なじみだから側にいたんじゃない。そんな言葉じゃ足りない。そんな関係じゃ足りない。
あ〜ちゃんだから側にいたんだ。あ〜ちゃんをいつか手に入れたくて、側にいたんだ。
茜色に染まる床の上。乱暴に花を散らすように、あ〜ちゃんの髪を乱す。
執拗に重ねる唇も、我が物顔に探る指先も、もう幼なじみのそれではない。
…なのに。
あたしの腕の中、あたしの体の下にいるのに。あ〜ちゃんが泣きそうに遠く感じる。
ネクタイを外して、制服のシャツのボタンを外して。
制服の下のあ〜ちゃんは、もうすでにゆかだけが知っている、ゆかだけの領域だ。
あたしの指は、唇は、確証を求め、痕跡を残そうと、その白くて柔らかい領域をさまよう。
髪に頬に首筋に胸に、あたしの乱暴な唇を受けながら、あ〜ちゃんは春の嵐に散る桜の花びらのように、抵抗をしない。
初めてそうした時も、あ〜ちゃんの抵抗は無かった。
潔癖で純情なあ〜ちゃんだから、何らかの戸惑いや拒絶があるものと思っていたのに。
あ〜ちゃんは恐ろしいほど素直に平然と、あたしとそうなることを受け入れた。
小学校の給食時間、偏食なあたしが取り除けた物を、あ〜ちゃんが黙って食べてくれたように。
あ〜ちゃんは何でも無いことのように、あたしの何もかもを受け入れた。
戸惑ったのはあたしだ。泣きそうに怖かったのは、あたしの方だった。
あ〜ちゃんがあんまりにも、あたしのめちゃくちゃな欲望やワガママな快楽を受け入れるから。それは抑制を忘れて、あ〜ちゃんを思うままに汚しちゃいそうで。
あたしに何もかも委ねたあ〜ちゃんは、こわいくらい純粋で。
そんなあ〜ちゃんを手に入れる為に汚さなきゃいけないなんて、神様はなんて残酷なことをゆかにさせるんだろう。
そんな泣きたいような気持ちで、あたしはあ〜ちゃんを抱いた。
あたしの、ものにした。
…でも。
それは本当に手に入ったの?
唇をあ〜ちゃんの肌から離し、ゆっくりと身を起こす。
日の落ちたほの暗い闇の中、静かにあ〜ちゃんはあたしを見上げた。
闇に溶ける瞳に、甘い微笑みを浮かべて。
あ〜ちゃんは穏やかで。少しも乱されてはいない。汚されてもいない。
あ〜ちゃんは、綺麗だった。
あたしなんかに、どうしようも出来ないほど、綺麗だった。
「…何でなん…?」
「…ゆかちゃん?」
「何であ〜ちゃんはそんなに余裕なん…?」
あたしの声は、情けないほど弱く震えている。
床に押さえつけられたまま、あ〜ちゃんはあたしの方にそっと手を伸ばして、
「…言ったじゃろ?余裕なわけじゃない、って」
「でも、ゆかにはそう見える」
「…余裕って、たくさんあって余っとる、って意味じゃろ?」
あ〜ちゃんの手が、あたしの頬に触れた。
「ゆかちゃんに関して、余っとるものなんて無いんよ」
「あ〜ちゃん…?」
「あのね、例えば自分の右手が誰かの手を握ってもヤキモチなんか焼かんじゃろ?…でも」
「でも…?」
「でも、右手を失うのは、死ぬほど怖いんよ」
優しくあたしの頬を撫でるあ〜ちゃんの手。
その手を取って唇を寄せると。
あ〜ちゃんは苦痛をこらえるような、幸福に息絶えそうな、静かな笑顔を見せた。
…ゆかを失うのが怖い、とあ〜ちゃんも思ってくれとるん…?
余裕なんて無い。余ってるものなんて無い。あって当たり前のものしか、無い。
失えばそれは。
恐ろしいほどの欠落。
そんなふうに、ゆかは、あ〜ちゃんの心の中にいるの?
すっかり暗くなった音楽室の静寂の中、あたしはゆっくりと唇を重ねた。
深く、優しく、何度もキスを交わす。春の闇に溶けるように。そのうち、あたしの唇かあ〜ちゃんの唇か分からなくなってくる。
あ〜ちゃんを手に入れたかどうかが、分からなくなってくる。
あたし達は分かち難く結ばれていて。それはむしろ痛みを伴うほどで、あたしを惑わせるんだ。
ねえ。
これ以上何をしたら、あ〜ちゃんはあたしのものだと確信出来るの?
何度春がめぐって来ても、春がゆく度に散る桜を惜しむように、どれだけ惜しみなく奪っても、飽きることが無く。
あたしはあ〜ちゃんをどうしようもなく求める。
闇に溶けないあ〜ちゃんの白い肌に、唇を這わせながら。
絶望的に、あ〜ちゃんは遠くて、あたしは泣きそうになった。
音楽室の窓の外はもうすっかり夜の闇が広がっていて、あたし達2人しか世界にはいないみたいに、静かに桜が散っていた。
終わり
最終更新:2009年04月14日 22:56