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N-side
武道館武道館。

車が九段下の坂道を上がると、その言葉が指し示す大きな建造物が見えてきた。
舗道に重なった大きめの黄色い葉が、
あと一週間後にまたここに来ることを教えてる。

「やっぱり、おっきいね」

私の袖口をさりげなくつまんだあ〜ちゃんが、ため息混じりにつぶやいた。
何か新しいことに向かうときのあ〜ちゃんはいつだって、
私とゆかちゃんの手を引き、覚悟と希望に満ち溢れた目をしていたから、
こんなかんじの最近の態度は少し予想から外れていた。
大丈夫かな。こっちまで不安が煽られるような気がした。

「あともうちょっとでここでゆかたちもやるんじゃね」
「うん、信じられんね」

小さな橋を渡って大きな石が積み重ねられた先に、
歴史があって由緒正しき場所であるとでも言いいたげな大きな門が見えた。
あ〜ちゃんは私の隣に座っている。普段は前に座るのに、最近じゃいつもこうだ。

…まだまだこんなんじゃ足りん。これでちゃんとできるかわからん。
あ〜ちゃんは日に日にそんなことを口走るようになった。
たしかに、取材やメディア露出が度重なるのに対し、リハ回数はそれほど十分ではなかった。

「三人なら大丈夫よ」

そう言って後部座席に並ぶ私たちの方へ移動し、ゆかちゃんがあ〜ちゃんの手を取った。
ゆかちゃんははクールだな。負けず嫌いの癖に現実的で物分りがいいし。
あれだけ感情豊かな人のそばにずっといたから、
自然にそういう役割を担うようになったのかもしれない。

やっぱりあ〜ちゃんの不安に対しても、ゆかだって不安だよと共感しながら、
与えられた期間と環境の中で最高のパフォーマンスをするのがプロなんよ、
必要以上に不安やプレッシャーを感じなくていいんだからね、
とそれとなく心を解放するように毎日対応していた。

二人のやりとりを聞きながら、うんとかああとかしか言えない自分をはがゆく思いながら、
私はやっぱりぼんやりと車の窓から外を眺めていた。最近こんなのばっかりだ。

毎日のように口にしてきた出来事が目前に迫ってきても、
これから現実に起こることだってなかなか感じられないんだ。
それが少しプロ意識に欠ける気もするし、人任せなような気もして、
連日の取材で発する自分の意気込みがなんだか無責任で嫌だった。

「そうじゃね」

今日のゆかちゃんの言葉はシンプルだったけど思いのほか力強く、
それにうなずいたあ〜ちゃんの顔には安心の色が見て取れた。

だから私は少しの間目をつむることにした。
私は言葉で彼女の心を静めてあげることができない。
毎晩のように一緒に眠ってしがみつく腕ごと抱きしめながら、自分も同じ安心を得てるなんて。

あーあ、だめだこんなんじゃ。のっちちょっと頼りなさすぎだな。
この後のゲネプロに気持ちを集中させないと。

「もうそろそろ着くよ」
「はい」

中央にあ〜ちゃんを挟み並んで体の一部をつなぎあったまま、
私たちはそろってもっさんの声に返事した。

そうだ。あ〜ちゃんの過剰なまでの甘えにも、ゆかちゃんが時折見せるあの表情にも、
武道館という目標を盾に今はいったん目をつむろう。
そうするしかない。



K-side
「…そろそろお願いします!」

控え室の外から声が聞こえると、三人ともほぼ同じタイミングで立ち上がった。
全てを通すリハーサルはこの一回きりだ。そう思うと膝が笑った。
あ〜ちゃんが扉から出ていく。私よりは少し広めの肩に、私より細い足首。

袖ヶ浦に向かう車内では、私はあ〜ちゃんの気持ちを沈めることだけに集中した。
今だけじゃない、それはここ最近ずっと心がけていたことだった。

リハーサルスタジオ中のたくさんのスタッフさんが、
みんな「Perfume」のためにそれぞれの役割を果たそうと必死な状況にあっては、
なおさら自分の気持ちなんてどうでもよくてくだらないことのように思えた。

振りもけっこう入ってきたし、曲順も頭に焼き付いてる。後はみんなを信じてやりきるだけ。
それに私はわかっている。私一人がどうこうじゃない。
私は二人の調子に左右されるところがあるから、
のっちとあ〜ちゃんがいつもどおりのパフォーマンスを発揮してくれれば、Perfumeは大丈夫なんだ。

のっちは相変わらずぼうっとしてるけど、あ〜ちゃんの執拗なまでの甘えにも対応しながら、
それとは違うベクトルの自分もちゃんと保ってくれているのがわかる。
私の気持ちにもきっと気づいてるに違いないけど、
それも含めて今は目の前の仕事に集中しようとしてる。だからきっと大丈夫。

『こうなったら、もう隠し通すしか道はないとゆかは思うよ』

数ヶ月前の自分の言葉が頭をよぎった。ほんとにそれしか道はなかったのかな。
あ〜ちゃんを追いつめてるのはプレッシャーだけじゃない。そんなことわかってる。

あ〜ちゃんはのっちと違って感情をうまく切り分けられない。
足の裏のマメをつぶすほど踊っては、
のっちの胸に顔を埋めてを繰り返す様子は見ていられなかった。

息を吐いて扉を開けると、腕組みをしながらあ〜ちゃんの後姿をただ黙って見守ってるのっちがいた。
追いかけて抱きしめるべきか。何か声をかけるべきか。手をつなぐべきか。
何度か迷った後、大きく深呼吸して黙ってただ歩き始めた。

わかりやすいあ〜ちゃんとは対照的に、私の部屋に来た以降ののっちは、
あ〜ちゃんの様子がおかしくなってもそのことをあまり口にしなくなった。
それが自分の負うべきものだとでも思っているみたいだった。
のっちはどんな思いで、気まずい夜を過ごしてきたんだろう。

思いやりだって家族みたいに温かい愛情だって持ち合わせてるのに、
たったひとつの感情によって、私たちは互いに与えるべき思いやりの種類を見つけられずにいる。

そしてとうとう、そのままこの日を迎えてしまった。
これでよかったかどうかなんてわからない。でもこうする以外できなかった。

…なんかあったら、ちゃんと助けてよね。
あ〜ちゃんのこと、誰よりも先にちゃんと見つけてあげてよね。
そう心の中で呼びかけながら、私ものっちの後を追った。



客席の真ん中に用意されたセンターステージでの登場から二回目のMCまで、
途中何度かステージや舞台装置の作動に関する細かい調整は入ったものの、
リハーサルは比較的順調だった。
いつもは神経質なほどモニターのボリュームバランスにこだわるあ〜ちゃんも、
今日は特に何も言わず映像チェックの時に振りを確認するのっちにただうなずいていた。

いくつかのブロックに区切りながらも、
リハーサルは本番と同様のタイムテーブルで進んでいく。
中盤にさしかかった頃だった。

いつもより二回り多いイントロが流れて、
私たちは頭の中に浮かべる客席を背にメインステージに向かう。
瞬時にヘッドセットを外して白いマイクを受け取る。
青いぼやけた照明の間に刺すような緑のレーザー、その中間の色のスポット。

曲が始まる。ツアーの頃からもう何度もやった曲だ。
ステージの広さや歩数、メンバーとの距離感さえつかんでしまえば、今さら戸惑うこともない。
Butterflyの間の衣装変えが成功したことに安心して、私は少し気を抜いていた。

後ろ姿がせつない、そう歌うのっちの脇を通って左斜め前に移動する。
そうしてフォーメーションがここで固まって、三人でサビのフレーズを歌うはずだった。

だけどサビ前のブレイクで顔を右に向けると、
同じようにポーズを決めているはずのあ〜ちゃんは、そこにはいなかった。
三人の描く三角形から外れ、舞台スタッフさんへ歩み寄っている。

あ〜ちゃんがいない。のっちはまだ気づいてない。

曲はシークレットシークレット。
あ〜ちゃんが倒れる直前に歌ったフレーズは、『駆け引きの見える場所』。
気のせいでしょと割り切ろうとして見た後姿は、センターにいたのっちのそれだった。




N-side

チカチカするスポットライトを受け暗転した後、
フロア全部の蛍光灯がついてリハーサルが中断されたことをここにいる全員が悟った。

あ〜ちゃんが倒れた。

数メートル先の下手の方で横になる白いワンピースを見たとき、
真っ先に駆け寄ろうとしたのに、一瞬足が止まった。
右側にゆかちゃんの気配を感じたからだ。
先に行くように目配せをされ、私は迷わず歩き出す。ゆかちゃんの目は強かった。

ゲネプロだからたくさんの人が集まるし、
決してコンディションが良いとは言えない状態だとはわかっていたけど、
ここまで順調に進んでいたし、あ〜ちゃんは不安定さを出しながらも平静に見えていたから、
まさか倒れるとまでは思わなかった。

でもあ〜ちゃんがライブ前に倒れるのは初めてじゃない。だからきっと大丈夫だ。
でもこれからこのゲネプロはどうなるんだろ。一週間後の本番までにはなんとかなるのだろうか。
そんな思考がよぎったけど、うずくまって投げ出された手足を見たとき、
私の中の仕事に対する集中力が一気に失われていくのがわかった。

「…あ〜ちゃん、わかる?」

しゃがみこんで声をかけると、弱々しくうなずいた。
恋人が額に汗をにじませて、目を閉じている。
開けた口から息が頼りなく流れ込むのに、
胸のあたりがざわついてくるしくて、うまく呼吸ができない。
口の中がカラカラになって、次の言葉が出ない。

やっぱりのっちのせいだよね、あ〜ちゃんごめんね。
こんなになるまで一人で戦わせてごめんね。
のっちが寝た後も一人で起きてたの知ってたのに、気づかないふりしてごめんね。
あ〜ちゃん、早く二人になりたいよね。知らない人いっぱいだもんね。

心の中で何度も話しかけながら、楽屋へと歩いた。
だけど、うわごとのようにわけがわからんと繰り返したあ〜ちゃんの右腕が固く回されたのは、
私の肩ではなく、ゆかちゃんの肩だった。

うんうんと聞きながら、この後のことは心配いらんよと答えるゆかちゃんの声は頼もしかった。
ああ、この二人は私が思うよりももっと深いところでつながってるんだ。
あ〜ちゃんの左手を頼りなく握りながら、そう思った。


こんなこともあるかと予め手配していたお医者さんが現れ、
私たちは楽屋の外に追い出されてしまった。
人を寄せつけないようにという配慮とこの後のスケジュールのせいで、
ほとんどのスタッフがスタジオに集まっているから、廊下は静まり返っている。

「…やっぱり、あ〜ちゃんは誤魔化せなかったね」

壁にもたれながらゆかちゃんが言った。
しゃがんでいるから横目に白いブーツが見えるだけだけど、
さっきまでの頼もしい声色とは違っていた。
確かにゆかちゃんの言うとおりなんだ。考えが甘かった。

そう思ってふと見上げると、そんな顔せんでええよ、という声とともに、
頭をペットボトルで軽くなでられる。

「ゆかがちゃんと話すから。全部。」
「…」
「のっちじゃなくて、私の口からじゃないとだめな気がする」
「そうなの?」

言っていることがよく伝わってないと思ったのか、ふふっと笑いながら、
ゆかちゃんが私の隣に座り込んだ。
体育座りをして、さっきのペットボトルを手でもてあそび始める。

「あんたゆかが何年あ〜ちゃんの相手してきたと思っとるん」
「うん、まあ」
「あ〜ちゃんはたぶん、ゆかの口から聞きたいんだと思う」
「…ゆかちゃんが言うんなら、きっとそれが正しいよ」

待たされる間に汗はすっかり引いて、少し肌寒く感じた。
肩からかけたタオルを頬にやって、目を閉じる。不意に肩に重みを感じた。

「でも、うまく話せるかな」

乗せられたゆかちゃんの重みは、思いのほか軽くてあったかかった。
ゆかちゃんなら大丈夫、そう答えればいいのか。
のっちがちゃんと話すから、そう言い聞かせればいいのか。
何度も迷って、結局私は何も言えずにいる。

か細い体が風を切って、ゆかちゃんが立ち上がった。
何か声をかけなければいけない気がして、思わず言葉が先に出た。

「のっちほんとに大事に思ってるよ、ゆかちゃんのこと」

いかようにも取れて、ある意味とても残酷な言葉だったと、
その意味に気づくには時間はかからなかった。
数歩だけ進んでぴたっと立ち止まり振り返る。

「…それになんて答えたら、好きになってくれるの?」

抑えてきた耐え難い悲しみと行き場のない怒りが溢れ、口元は固く結ばれていた。
いつになく流れ出した涙を見て思った。

倒れたのはあ〜ちゃんだけど、ゆかちゃんは倒れたくても倒れられなかったんだ。
このまま行かせちゃいけない。
何かを盾に人の気持ちを見過ごすなんて、もう許されないんだ。



K-side
行かないでと腕をつかんだ夜から、のっちは私の気持ちに気づいてた。
気づいていたけど、もうどうしようもなかったんだと思う。
のっちが好きなのは今も昔もずっと、あ〜ちゃんだから。それはしょうがなかった。

それをよく理解していたから、私も何も言わなかったのに。
あ〜ちゃんがのっちの名前を呼ぶたびに、どんな気持ちがしてきたか。
メンバーとしての役割を果たそうとしながら、自分の気持ちを封じるのにどれだけの涙を流してきたか。
率直なんだろうけど、今の私にとってはあまりに無神経な言葉につい涙がこぼれてしまった。

のっちは驚いて顔を上げて、こっちに近づいてくる。
だめだよのっち。ゆかはあ〜ちゃんのところに行かないといけないんだよ。

「ごめん」

不自然なくらいに距離をあけて、私の顔をのぞきこんだ。
きっと前髪が邪魔して表情が見えないからだ。
距離を作るのは、抱きしめることはもうできないとわかっているからだ。

「あ〜ちゃんはね、ゆかたちのために倒れたんだと思う」
「だからね、もう終わりにする」

のっちは何度か瞬きをしてから、目を閉じてうなずいた。
両脇に垂れ下がっただけの両手は、もう伸びてはこない。

心からの言葉だった。それが一番だと思った。
だけど予想に反して、一瞬のうちに腕が伸びて力強く引き寄せられる。

「ごめん。ほんとにごめん」
「我慢してたこと、全部ぶつけて」

体をよじって放たれようとしても、のっちは離してはくれない。
抱きしめ方が強くて、胸の奥まで締めつけられそうな気がした。
心臓を一度強く締め上げられてあと緩やかに解放され全身に血が流れ出すように、
封じていた気持ちが体からあふれてくるのがわかった。

「のっちのこと好き」
「うん」
「ゆか、のっちのことすごい好きだよ」
「うん」

少し力をゆるめて私の肩にあごを乗せてうなずく声は、やさしく耳に響いた。

ゆかずっとくるしかったよ。
かなうことのない想いと後ろめたい気持ちを、毎日抑えてたよ。
こんなことになるなんて、思ってなかったよ。
心の中で、ずっと泣いてたよ。

こんなに近くで声を聞いたのはいつぶりだろう。
その声にほどかれるように、私はのっちの肩をつかんで泣いた。何度も泣いた。



N-side
抱きしめたことが正解だったのかはよくわからないよ。
だけど、この涙はきっと恋愛だけの涙じゃないのもよくわかっていたから、
肩を震わせるゆかちゃんを抱き寄せた。

『ゆか、甘えだしたら歯止めきかんくなるよ』
『…歯止めなんか、しなくてもえーよ』

私を見上げる目はあの夜の目に似ていた。
今さらあ〜ちゃんのことが好きだからごめんなんて言わなくたって、ちゃんとわかってる。
ゆかちゃん、のっちはもう少ししたらあ〜ちゃんのとこに行くよ。
肩の震えがおさまって、胸に顔を沈めたゆかちゃんからか細い声が聞こえた。

「のっち、最後にお願い聞いて」

最後に、という言葉が耳の奥から体中へしみわたって、泣きそうになる。
でも泣いちゃいけない。黙ってうなずくと、体を離して静かに下を向いた。

「ゆかがいいって言うまで、何も言わないで目つむってて」

これから起こることを忘れないように。いや、忘れないといけないのかな。
でもそんなことは自分の意志とは関係ないところにあるのかもしれない。
どうであれ、ゆかちゃんの唇の感触はもうこれで最後だ。
言われるがままに瞼を閉じた。


…少し間を開けて音が鳴った。
さらに少し遅れて左の頬に鈍い痛みが走った。

思わずさすろうとして上げた左手がつかまれたかと思うと、
打たれた頬にやさしい感触が走った。

首に腕が回されるのがわかる。耳と頬の境目あたりから打たれた部分へ向かって何度も唇が行き来する。
伝わる感触はただやさしくて強くてあったかかった。
唇が口の端まで行き着いたとき、また間が開いた。
目を開けてないけど、きっと下を向いてる。迷ってるんだ。

回された手をほどかせて、おでこを触った。
目を閉じたまま親指をそっと下ろして、
薄い唇に行きあたると、ためらいがちに顔の角度が変わったのがわかった。

二人を苦しめたこと、のっちは一生忘れないよ。
ずっとあ〜ちゃんのことを好きだけど、
ゆかちゃんを抱きしめたときは、そこにはちゃんと愛情があったよ。

「目、開けていいよ」

キスは思ったより短かった。
目をゆっくり開けるとゆかちゃんはそこにはいなくて、もう後姿しか見えなかった。

「のっち、ゆかはもう大丈夫だよ」

廊下に響いたゆかちゃんの声と、歩くたびに揺れるスカートの裾を、
忘れないようにただじっと見つめていた。

「最後なのに、変なキスさせてごめんね」

もうこれで本当に最後なんだ。
二度と触れることのないその細い体は、後ろ手に指を絡ませて、歩幅は狭かった。

きっと、せつない後姿ってこれなんだ。
こういう背中を、いうんだ。


(つづく)









最終更新:2009年04月14日 23:55