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「ただいま〜」
「あ、おかえり」
「あれ、しげ君これからどっか行くん?」
「ん、友達んちでゲーム」
ふうん、とあたしは言いながら、制服のネクタイを外して、リビングに置いてあった洗濯物から部屋着を取ってもそもそと着替えた。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してコップについでると、何か言いにくそうにしてる弟と目が合った。
「…姉ちゃんさあ…」
「んー?」
「こういうとこで着替えんのやめた方がええ」
あたしはぶはって笑って、
「しげ君どしたん!?急に何なん!?」
そういうの意識したことないくらい、仲が良い家族だから、あたしは弟も大人になったんかな、くらいな脳天気な気分で大笑いしてたら。
弟はクールに落ち着いた顔をしかめながら、
「…俺じゃなくて姉ちゃんが気ぃ付けるとこじゃろ」
ハア、とため息をついて、
「…ここ」
と、自分の首筋から胸のあたりを指差した。
…あ。
あたしは察して真っ赤になって、思わず胸のあたりを両手で隠した。
「気付いたのが俺じゃったけえ良かったけど、母さんだったら大変じゃけえ」
「…う」
「ちゃあぽんもおるんじゃし、あいつにはまだ刺激が強いじゃろ」
「…ん、気をつけるけえ」
「そうしてや。…じゃ、行って来るけえ」
ひらひらと手を振って、弟は出て行った。


…さすがイケメンだけあるわ、冷静じゃ…。
あたしは気持ちを落ち着ける為、ミネラルウォーターを一気に飲んだ。
…はあ。
一息ついても、まだ心臓が縮こまってる感じ。
真っ赤になってる頬をぴしゃぴしゃ叩きながら、階段を上がって自分の部屋に入った。
ちゃあぽんは、いない。今日はダンススクールの日で、帰りは遅い。送りに行ったお母さんが帰ってくるまで、まだ時間がある。
今、うちにはあたし一人だ。
ふう、と深く息をつく。
チェストの上に置いた鏡に、不安そうに引きつったあたしの顔が映っていた。
あたしはゆっくりと鏡に近づいた。
部屋着のボタンを静かに外し、少し前をはだけた。
肌の上。乱れた花のように。無数に紅く散った。
ゆかちゃんの、降らせた唇。
ゆっくりと指でなぞっていると、昨日の夕闇にとめどなく散る桜の幻が目の奥に浮かんだ。
夜に溶けるゆかちゃんの髪と。強引なくせにためらいがちな、白い指先。
せわしなく、休むことなく散る花びらよりも、めまいを起こしそうな、ゆかちゃんの唇。
泣きそうに、一生懸命な。
そう、ちっちゃい頃からずっとそう。ゆかちゃんは、あたしのことになると一生懸命になる。
そのひたむきな唇を思い出して、あたしは思わずくすりと微笑んだ。
鏡の中のあたしも、笑った。



こんなあたしを見たら、ゆかちゃんはまた、何であ〜ちゃんは余裕なん、って責めるのかな。
でも。
決して余裕があるわけじゃなく。
ただ、揺るぎない事実として。あたしの中に、確信がある。
ゆかちゃんは、あたしのもの、って。
どう説明していいか分からない。ただそれはもうずっと、あたしの中では当たり前のことだった。
傲慢な言い方に聞こえるかもしれないけど、ゆかちゃんはあたしに与えられたもの、という慣れ親しんだ感覚がある。
それは恋愛感情なんてものを感じるよりも前から。
あたしの中に、すごくシンプルな確信として存在してた。
いつからか、なんて分からん。
覚えとるのは。
いつだったか幼い頃、給食の食パンを、ゆかちゃんが真ん中を、ゆかちゃんが残した耳の部分をあたしが食べながら。
多分こんなふうにうちとゆかちゃんはずっと一緒におるんかな、と静かに予感した記憶がある。
不思議な確信を感じながら、ゆかちゃんの隣りで、分け合ったパンを、もぐもぐと食べていた。
柔らかくて、穏やかな光景。
いつからか耳に馴染んでる、あ〜ちゃん、あ〜ちゃんとあたしを呼ぶゆかちゃんの声。
気付くとあたしの側に控えてる、ゆかちゃんの静かな気配。いるのが当たり前の、存在。


やんわりと物分かりが良さそうでいて、本当は好き嫌いのはっきりしたゆかちゃんが、何でかあたしの好きなモノは全面肯定した。
他の女の子には心を許さなくて当たり障りのない態度なのに、あたしにはぽんぽん毒を吐いたり、バカじゃって呆れるくらいふざけて来たり。
本質的にはうちとゆかちゃんは違うんだろうけど、お互いが何が違ってどこまで許せるか、が何でか言葉で言わなくても分かった。
ゆかちゃんは、いつだってあたしが最優先で、あたしの嫌がることはしなかった。
中学生になってすぐ、あたしが何人かの男の子に同時に告白されたことがあった。ゆかちゃんはあたし以上にびっくりして、青ざめた落ち着かない顔をしていた。
そしてその数ヶ月後、あたしに告白して来た男の子のうち、結構カッコいいな、なんて思ってた先輩とゆかちゃんがつき合い始めたのを知った。
あたしは男の子の気持ちなんていい加減だなあなんて思いながら、
「ゆかちゃん、先輩とつき合い出したん?」
と聞くと、ゆかちゃんはすごく真剣な顔で、
「あ〜ちゃんが嫌なら、ゆかは先輩とつき合わん」
と言った。
「…でもゆかちゃん、先輩のこと、好きなんじゃろ?」
「あ〜ちゃんが嫌なら、つき合わん」
不思議なほどきっぱりと、ゆかちゃんは言った。
あたしを真っ直ぐ見ながら。
その時、あたしはまた確信したんだ。
ゆかちゃんは、あたしのものだ。それに変わりは無い、揺るがない、って。
だからあたしは別に何とも言わなかったのに、ゆかちゃんはあっという間に先輩と別れた。


その後もゆかちゃんは色んな人とつき合ったり別れたり。小悪魔の名をほしいままにしてたけど。
うちには分かってた。
あたしが嫌だって人とゆかちゃんはつき合わない。あたしの一言で、ゆかちゃんの心は決まる。
ゆかちゃんの最優先事項は、いつだってあたし。
ゆかちゃんは、変わらずにあたしのもの。
その揺るぎない確信は今もあたしの中にあるのに。
もう、それはただ平穏なものではない。あたしに安心を与えるものじゃない。
ゆかちゃんが言うような、余裕なんかじゃない。
…足りないんよ。
あたしは気付いてしまった。
ゆかちゃんとつき合い出す少し前、あたしは親しい先輩にかなり真剣に告白され、強引にキスされそうになった。
その時。
嫌だ、って思った。
ゆかちゃんじゃなきゃ嫌だ、って。
ゆかちゃんが誰とキスしようがかまわない、けど、うちは。
あたしは、ゆかちゃんじゃなきゃ、嫌なんだ。
あたしは、ゆかちゃんがどうしようもなく好きなんだ。
その想いは切実で苦しくて。余裕なんか、無かった。
あたしは気付いたんだ。
ゆかちゃんはあたしのもの、って事実は揺るぎないけど、そんな「当たり前のこと」じゃ足りない。
あたしが、ゆかちゃんのものにならなきゃ。
そうじゃなきゃ、あたしの想いは満たされない。あたしの願いは叶わない。



…ねえ、だから。
あたしの全部残さずを、ゆかちゃんにあげるから。
あたしを、ゆかちゃんのものにして。
いつものようにあたしを最優先的に、ゆかちゃんのものにしてほしい。
ゆかちゃんと初めてそういう関係になった時、あたしがあんまりにも素直にゆかちゃんを受け入れたから、ゆかちゃんは戸惑って、
「あ〜ちゃん、ほんとにいいの?」
と細い声で繰り返して、ゆかちゃんの方が初めてみたいだった。
あたしはとっくにゆかちゃんのものになる覚悟はついてた。
あたしの肌にゆかちゃんが紅くしるしをつけるのが嬉しくて。
あたしの髪も唇も肌も何もかも、ゆかちゃんにあげる。
もっともっとあたしの全部をあげるから。
ゆかちゃんの肩にしがみついて唇を重ねながら、あたしはただひたすらそんなことを願っていた。
…ああ、でも。
ゆかちゃんにあげられるものがもっとあればいいのに。
惜しみなく与えても、まだまだ足りない気がする。
ゆかちゃんの唇が触れてない箇所が無いくらい、余すところ無く、紅く紅く染まっても。
あたしはまだ足りない、って思うのかな。


誰かのものになることが、こんなに狂おしいことだなんて思ってもみなかった。
めまいのするほど愛しさに果ては無いのに、泣きたいほど儚いものに思える。
幼なじみのゆかちゃんとずっと一緒に、終わらない春を眺めてるような、穏やかな世界にずっといられると思ったのに。
あたしは今年初めて、心の底から、春がいってしまうのをかなしんだ。
すべて捧げつくすように散る桜は、狂おしく、切なくて。
ゆかちゃんのものになってから見る花の色は。
涙が出るほど。
とても、綺麗だった。


終わり







最終更新:2009年05月13日 22:55