アットウィキロゴ
K-side

つい数時間前三人で後にしたこの部屋に、
こんなふうに帰ってくることになるとは思ってなかった。

後ろを振り返らないように、ただ真っ直ぐ向かった先にいたのは、
部屋の隅に敷かれたマットの上に横たわったあ〜ちゃんだった。
仰向けになって光を左腕で遮っている。

ドアを開ける音にも、近づいてくる足音にもあ〜ちゃんは反応しなかった。
パイプイスに静かに腰かけて、数メートル先のその姿を見つめているけど、
私であることにすら気づいてないのかもしれない。
この数メートルの距離をどう縮めたらいいか、必死に考えていたときだった。

「…あ〜ちゃん最後まで我慢できんくてごめん」
「ゆかちゃんじゃろ?」

それはとてもやわらかくて小さいけれど、意志の通った強い声だった。
どうして謝るのか、どうして私だとわかっているのか、
いくつかの疑問と戦いながら、ただ、うん、とだけ答える。

言葉が出ないとかうまく言えないなんて、ただの無責任に過ぎないのはわかっている。
けれど、いざとなると言葉が出ないのも事実だった。

「…ずっとさみしかった」
「ゆかちゃんがどんどん遠くなっていくのが」

口にされた内容は、この場面においては予想と違っていて強気にも思えたけれど、
起き上がって見せた笑顔は弱々しくて頼りなかった。
のっちと私のことではなくて、あ〜ちゃんは私との関係について言及した。

そのことは、私と彼女が今も、幼い頃からずっと辿ってきた長い道のりの上にいて、
もう手離しようのない関係にいることを強く感じさせた。
のっちがどうとか三人がどうとかではない。あ〜ちゃんは私を待ってる。

「あ〜ちゃん」

しかもそれは今だけの話じゃなかった。
昔からいつだって、距離を縮めてくれたのはあ〜ちゃんの方からだった。
彼女はあの夜からずっと、私から真実を知ることを待ち続けている。
ためらっている場合ではない。私が心を開くのを、あ〜ちゃんはじっと待ってる。

息を吸った。もう逃げることはできないし、逃げるつもりもなかった。

「ゆか話すから、全部聞いて」

口から言葉が流れ出した。もう本当にすべてを話してしまう。

「いいよ」

怒るでも驚くでもなく、ただ静かな目で頷いた。
あ〜ちゃんは泣いてはいなかった。




「…それで、さっき最後にのっちとキスした」
「ゆかたぶんずっと忘れないと思う」

すべてを言うことが正しいかどうかはわからなかったけれど、
事実も自分の感情も、話せることは全て口にした。
半年の間の出来事も思いも、言葉にしてしまえば陳腐なくらい単純な話だった。

話している間中ただ黙って聞いていたあ〜ちゃんの目は、最後まで揺れなかった。
それぐらい想定の範疇だったからか、
見かけより相当うろたえている私を見抜いているからかはわからない。

「きっと、のっちじゃないとダメだったんよ」

話を聞き終えたあ〜ちゃんの口からこぼれた言葉の意味は、
それが彼女が私を責めない理由だということをすぐに理解させた。
三人の崩れてしまったバランスを補正するには、確かにのっちじゃないとダメだったんだ。

「…怒らないの?」
「仕方のないことっていうか、たぶん自然なことだったんよ」

私を見つめる目の色は、落ち着いていて優しい。
私に対する深い愛情があるから。三人のつながりに、誰よりも執着しているから。
今のあ〜ちゃんは、のっちの恋人ではなく私の親友としての立場を選びとっている。
そしてそれを理解するようにという指示が、暗に伝わってくる。

下手をすれば泣き叫んで状態がよりひどくなるかもなんて思っていた自分が恥ずかしくなった。

おそらく普段なら私が受け止めているはずの、
その健気なほどに必死な葛藤は態度からは読み取れないけれど。
私は私で、誰かに失恋をした親友でいることに集中した。

恋人に手を出された話を聞くのも友達だけれど、
無理に聞き出さないで理解するのも、また友達の役目だったりする。
友達としてのあ〜ちゃんは今、それを望んでいる気がした。

きっと謝れば怒るね。
傷つけてしまったことも笑いながら話せる日を、一緒に待ちたいって思ってるよね。

泣きながら抱き合わなくても、先を見据えたその大きな目と、
決して謝りはしない私の唇で、ちゃんと抱きしめ合えている。
だからこれからも、私とあ〜ちゃんは友達でいられる。言葉を交わさなくてもわかる。

少ない言葉でたくさんの会話を済ませて、
私は立ち上がり、最後にひとつだけ尋ねることにした。

「Perfumeと恋愛とだったら、どっちをとる?」

この答えにはいろんな条件がある。それはわかってる。
だけど、あ〜ちゃんは何の言い訳も説明もせずに一言だけ答えた。

「Perfume」

私はこの人を甘く見ていたのかもしれない。
そのことがなぜかうれしくて、これでよかったんだと思ったら、
涙は自然と頬を伝い始めた。

泣くのは好きじゃないけど、この涙は気持ちよくて清々しくて、
いつまでも流していたくなる涙だった。

「ゆかもそうだよ」

一言だけそう言って、後ろ手にドアを閉めた。
そうだよ。私は、このあ〜ちゃんのことが好きなのっちが、好きだったんだ。

部屋を出ると、廊下には少し寒いくらいの涼しい風が吹き抜けていた。

悲しくはない。Perfumeを守ることができた。
それがうれしかった。それでよかった。



N-side

ドアをノックしようとして手の甲が宙に舞う。風を小さく切るかんじ。
事態の重さに怖気づいて唾を飲み込むのに、ドアの冷たい感触はいつもの金属のそれと同じだ。

「ちゃんと話してきたよ、全部」

そう言い残してゆかちゃんが廊下の向こうに消えていったのはついさっきのことだ。
一度だけ笑って、いなくなった。目は赤いままだった。
そのときでさえ、私はまたぼうっとその姿を見つめるしかできないでいた。

なんでなんだろう。私たちはこんな局面にあるのに、
廊下の向こうで響く音も、ドアの冷たさも、何も変わりがない。
生きてるってことを、こんなときに感じるなんておかしい話だよ。

どんな話をしたの、大丈夫だったの、ゆかちゃんは平気なの、
そしてなによりあ〜ちゃんは。あ〜ちゃんは何て言ったの。
数分経った今となっては、疑問は次から次へと湧いてくるのに、何も聞けなかった。
でもなんとなくわかる。聞いたって、あの子は答えなかった。
自分の目と耳と手で、ちゃんと確かめろって、きっと言ったと思う。

Perfumeが好き。三人でいるのが好き。
二人は自分と同じくらい大事。その思いは三人とも変わらない。
だけどのっちは自分よりも二人のことが大事なときがあるくらいだよ。

それなのに、どうしてこうなってしまうんだろう。
この家族みたいにあたたかい思いが、たったひとつの感情で簡単にねじれてしまう。
たったひとつの思いで、簡単に真っ白を濁らせてしまう。

あ〜ちゃんが好き。ゆかちゃんのことも好きだよ。二人とも大事。
だけど、あ〜ちゃんに対する気持ちはゆかちゃんに対するそれとは違う。
何が理由ってわけでもない。ただそれだけのことで、私はゆかちゃんを泣かせて、
ただそれだけのことで、これからあ〜ちゃんのところへ行く。

悪意とか欲とか、そういうのじゃなかった。種類は違うけど、確かな愛情だった。
一番大切なものを守るって、どういうことなの。
愛情に優先順位をつけるってことなの。この期に及んで、まだそんなこともわかんないよ。

あ〜ちゃんに聞けばわかるかな。
その答え、このドアの向こうにあるのかな。

触らせてもくれないかもしれないし、口もきいてくれないかもしれない。
小さな体をちょっと大きい胸を、痛めつけたのはのっちってこともわかってるよ。

でもね、あ〜ちゃん。のっちはあ〜ちゃんが好きだよ。
難しいこと考えすぎた。早くあ〜ちゃんに会いたい。



部屋に入ると、あ〜ちゃんは上半身を起こして壁にもたれていた。
かけられた毛布に肩からくるまって、さっきまで上気していた頬はいつもの色に戻りつつあった。

毎日毎日触れていた身体がやけに遠く感じる。
抱きしめたってしょうがないかも。近づいてどうする。
そう思ったけれど、足はだんだんとあ〜ちゃんの方に向かって進んでいった。

近づいてその隣に身を置いても何を話せばいいかわからなかった。
ただ好きだという気持ちが、妙に高まっていく。
髪に触れたい。できれば抱きしめたい。

「…大丈夫だった?」

沈黙を破ったのはあ〜ちゃんの声だった。
並んで壁にもたれたまま、顔だけこちらに向けている。
それはこっちの台詞だと思ったけれど、答えるほかはなかった。

「ゆかちゃん、泣いてた」

向けられた眼差しがあまりに優しくて、言葉につまる。

「ううんそうじゃない。のっちは大丈夫だった?」

手がそっと伸びてきて、頬をとらえて親指で目の下をなぞられた。
あったかいよ。あ〜ちゃんの手はやわらかくてあったかい。

「おいで」

差し向かって、毛布ごと優しく伸ばされた腕の中にすっぽりと入ると、
抱きしめるでもなく抱きしめられるでもなく、
寄りかかり合った体重で身体は敷かれたマットの上に重なり合っていった。
最初頭をなでてくれていた手が、次第に背中に移り、あ〜ちゃんの体温が伝っていく。

この匂い。このあったかさ。
昨日もその前もずっとずっと感じていたはずなのに、
ずいぶん久しぶりの気持ちがして、思わず目を閉じる。
あ〜ちゃんが帰ってきた、そう思った。

「あ〜ちゃん、のっちは」

あ〜ちゃんが好きだよ、と抱きしめようとしたとき、
指先が冷たいことに気がついた。さっきはあったかかったのに。
優しかった目は、今は前髪に隠れて見えない。

ああこれだ。いつもこれがいけなかったんだ。
抱いても抱いても何も解決できなかった。腕をまわして指をつかんだ。

「なんで、のっちに我慢すんの…?」

好きとか大事とか、思い合う気持ちがあることぐらいわかってる。
だけど、胸の中におさめるだけで安心するような抱きしめ方じゃ、もう今は通じない。



A-side

やさしく抱きしめようと思った。
人に自分を刻み込んでしまうことに、臆病で敏感な人だから。
のっちもまた、傷ついてることに変わりはないだろうから。

この数十分の間のやりとりに、間違いや嘘は一切なかった。
なのに、なぜか今はのっちの力強い腕の中にいる。

のっちは次々と言葉を投げつけてくる。

「今からのっちの聞くことにちゃんと答えて」
「あ〜ちゃん、つらかった?」
「不安でどうしようもなくて、誰にも言えなかった?」

その声に表面的な甘ったるさはなく、彼女が必死になっていることがわかった。
祈りにも似たような声で、私の中に入ろうとしてる。

『なんで、のっちに我慢すんの…?』

考え抜いたあるべき姿を守ることに、私も必死だったのに、
そんな努力はさっきの言葉で一瞬にして崩れ去ろうとしている。
どうして崩そうとするの、これでいいじゃない。
そう思うのに、のっちの言葉は止まらなかった。

「叫びたいくらい心細かった?」
「押しつぶされそうになった?」
「なんでそんなときに分け合いたい二人に言えないんだってくやしかった?」
「一人で泣いた?」

のっちは不用意な言葉でどんどんスイッチを押してくる。
心の中に張った結界が跡形もなく消え去ったかと思うと、
仕舞い込んでいたはずの胸の痛みが急に蘇る。

抱きしめてるくせにしがみついてくるような感触に腹が立ち、
心をほどこうとする割にはその後のことなんて考えてない無邪気さに嫌気がさした。

「嫌だった」
「のっちがゆかちゃんと会ってるってだけで」
「でも二人を疑うことなんてできんくて」
「何も言えんかった」
「今だって、すごい嫌」
「のっちが私以外の人を抱いたとかありえない」
「それが誰であっても絶対嫌」
「あ〜ちゃんの方がゆかちゃんよりもっとのっちのことがいっぱい好き」
「ゆかちゃんが大事だって、納得なんてできん」
「そんな都合よくできてない」

気がついたら私はのっちを突き飛ばし、毛布を握りしめて大声で叫んでいた。
のっちは触れてくることもなく、目もそらさずにただ黙って聞いている。
言葉が止まらない。叫んでももうどうしようもないことくらいわかっているのに、
上がってしまった顔の温度は下がることを知らない。

私の言葉が途切れてはまた同じことを発して、を何度か繰り返した後、
のっちは言った。

「ごめんね。でものっちはあ〜ちゃんが好きだよ」

その声色がさっきまでと違うことにはすぐに気がついた。

「…そろそろ、抱きしめてもいい?」

熱く密度の高い空気の中を、泳ぐように近づいてくる顔にもまた涙がこぼれていた。
そういえば、私はのっちの泣き顔をあまり知らなかった。



N-side

引き寄せると逃げるように身体をよじらせた。
そう簡単に抱きしめられはしないという意志のようなものを感じさせ、
だけれどつかんだ腕を簡単に離せるほど、私も落ち着いてはいなかった。

まるで初めて抱き合ったときみたいに、君の身体をやわらかく感じる。
固く抱きしめるんじゃなくて、少しでも大きな面積で触れ合えるように、
角度を変えて体勢を変えて、何度も何度も抱きしめた。

繰り返されるキスで、好きだという観念を何度も吹き込んでは、まだ足りない。
もうちゃんと伝わったか。正しく、この気持ちが届いているか。
聞こえてる?のっちはあ〜ちゃんが好きだよ。ごめんね。
次第に返してくれるようになる反応で、少しずつ確かめる。

キリがないって言いたいみたいにあ〜ちゃんが唇を離すと、私の頬をなでた。
その仕草はさっきまでの一方的なものとも違って、
私の皮膚や細胞の反応まで読み取ろうとしているようにも感じた。

「ほっぺた赤いよ、ゆかちゃん?」

うん、とうなずくと、自業自得じゃと笑う。
笑って漏れた息まで全部吸い込みたい。頬にできる線を舌でなぞりたい。
そうしようとして顔を近づけたとき、あ〜ちゃんの頬からふっと線が消えた。

「なんか、やっぱムカつく」
「のっちが悪い」
「だから、ちょっとごめん」

え、とか、へ、とか言ってる間に、
漫画みたいに手形が残ってるんじゃないかと思うくらい、左頬は思いっきり打たれていた。
それはさっきのゆかちゃんのよりももっときつかった。

「ゆかちゃんと約束したんよ、一発ずつビンタしよって」
「何その約束、ひどすぎるよ…」

頬をさすりながら情けない顔で笑うと、
あ〜ちゃんが笑った。

今日あ〜ちゃんは初めて声をあげて笑った。



「みんなのこと呼んでくんね」

そう言って身体を離してはみたものの、またすぐこのぬくもりが恋しくなる。
起き上がったのに動こうとしない私を、不思議そうな顔で見上げる目がかわいい。
少し汗ばんで張り付いた前髪がかわいい。小さく覗く耳がかわいい。
本当にかわいいから。私はまた無邪気にあ〜ちゃんを求めてしまう。全然足りないんだよ。

「もっかい抱きしめさせて」

あ〜ちゃんは仰向けになったまま、黙って腕を伸ばしてくれる。
自然に指と指が絡むし、肌はもうほんとにぴったりとよく吸いつく。
ふふっと笑って抱き合ったまま耳元で、のっち、と呼ばれる。
その声だけ何万回もリピートさせてたい。気持ちよすぎるよ。

「…そろそろスタッフさんほんとに困るけぇ、呼んできて」
「やだ」

のっち、と頬を膨らませるふりをするけれど、目は怒ってないんだ。
だってまだ離れたくないって、あったかくなった指が言ってる。

「カメラも待っとるし」
「『あ〜ちゃんが、倒れた。それにつられてあののっちまで倒れた。』」
「何それ」

口元をゆるませて笑うね。なんていえばいいんだろう、胸がくるしい。
ずっと一緒にいたいと思えば思うほど、それはたぶん大きくなる。
こんなに甘いのに、ずっと続くって信じきれないからなのか。

ねえあ〜ちゃん。何が足りないのかな、のっちどうして手放しに喜べないんだろ。
頬に顔を摺り寄せて、返ってくるやさしい感触の中に何かを探そうとする。
涙が乾いてカサカサするけど、気持ちいい。泣かせてごめんね。本当に。

いつもの甘い匂いも薄くて、涙の跡はしょっぱい味がした。
当たり前だけど、あ〜ちゃんは生きてるんだ。もう、太陽でも憧れでもない。
これから大人になってくにつれて変わってったりもするよね。

だけど、今回みたいなのはのっちはもうやだよ。
全部知っててほしいなんて思わないし、全部教えてなんて言わないけど、
中身がなくて解決できないまま溶けてくマカロニみたいっていうか。
これくらいのかんじでって誤魔化したりとか。そういうのはもうやだよ。

きっとそういうことなんだろうなと思いながら、あ〜ちゃんにキスを繰り返す。
じゃれ合ったり抱き合ったりチューしたり。そんなことばっかしてるだけで幸せだよ。
だけどなんなんだろう。好きになるってたぶんそういうことだけじゃないのかもしれない。

あ〜ちゃん、最後のときなんて来ないよ。
来させないですむ方法を、あ〜ちゃんの未来を、のっちが一生懸命考えるから。

とっくに受け入れる準備ができてるなんて顔しながら、
まだのっちの入れない場所を隠し持ってるんでしょ。いつかそこにも行かせてね。

抱き合ってもなお溶けないように発達させた薄い皮膚を、
聞こえないように鼓膜の奥にまだ張り続けたままの小さな膜を、
自分より少し遅く生まれたこの同い年の恋人と、いつか一緒に剥がし合いたい。
ちょっと痛いかもしれないけどね。だけど、きっとそれは必要なことだよね。

「もしかして、イかないのもこのせいだったんかなあ」
「…わかんないけど、なんかもう大丈夫そうな気がする」
「じゃあ、する?」
「あほ」

早く戻らんとゆかちゃんが心配する、と言って眉をひそめる。
ていうかのっちはもういいから早くゆかちゃんに会いたい、と顔をしかめた。
たくさんの表情、やわらかくてよくのびる声。
どれだけ見たって聞いたって、きっとこれからも足りないって絶えず悩まされ続けるんだろう。


そうだね早く三人で笑いたいねと答えると、
あ〜ちゃんはつないでいた手をゆっくりとほどいて、長いこと抱きしめてくれた。


(おわり)








最終更新:2009年05月13日 23:58