N-side
何もない部屋で佇んでいれば勝手に泣くものだと思っていた。
照明器具はもう取り外したから、射しこむ街灯の光だけで照らされる2LDK。
だけど涙はいっこうに出てはこなかった。
強がって封じているわけでもないから、不思議でしょうがない。
『だから先に配置決めようって言ったのに』
削れてクロスがちょっと剥げた壁に謝った。まだ越してきたばっかりの頃につけた傷。
二人で何度も棚の配置を変えているうちに、ついてしまったんだっけ。
ぶつけたのはあ〜ちゃんなのに、なぜかのっちのせいになって、怒られたような。
だけど目は本気では怒ってなかったような。
思い出に頼って少し無理に泣いてみようかとすら思ったのに、
なんともいえないあのいとしい顔を思い出したら逆に笑ってしまった。
初めての同棲。初めての家具選び。
床に座り込んでソファの跡を指でなぞってみる。
のっちは自分の部屋にこもりっきりで出てこないからと、あ〜ちゃんは2LDKにこだわった。
リビングは広くしないとダンスの練習ができないでしょ、そう言って、
ひとつは寝室もうひとつはリビングとぶち抜きで使うと決め込んできかなかった。
服を買ってくるたびに開催されるファッションショーも、
毎週のように来るあ〜ちゃんの家族や友達との食事も、
あ〜ちゃんを泣かせてゆかちゃんに正座で説教くらったのも、
すべてこのリビングでの出来事。
一緒に住もうって言い出したのが突然だったから、部屋探しは大変だったな。
いい部屋が全然見つからなくてがっかりしっぱなしだったから、
この部屋に出会って本当に喜んだんだった。
帰りに寄った古臭い喫茶店で不動産屋さんに入居申込の電話をして、
帰り道に飛び跳ねて帰った。曇りっぱなしだったあ〜ちゃんの目はキラキラ輝いて、
自然につながれた手は、どこへでも連れてける気がした。
思い込みとか冗談なんかじゃなくって、本気でそう思った。
夢みたいだったな。
もしかしたら本当に、あ〜ちゃんが長い長い間見てた夢だったのかも。
現実が騒がしく変わっていくと、その眠りはあっさりと簡単に覚めたのかもしれない。
のっちはとてもしあわせだったんだけど。
あ〜ちゃんはこの夢を見てしあわせだったかな。
くしゃっと笑う顔、泣くと何言ってんのかまったくわからない声。
派手な顔に似つかわしいやわらかくて大きめの胸。
逆にそれには似つかわしくないよく躍る細くて頼りない足首。
ぜんぶ心の中にまだいるからなのかな。なんにもさみしくない。
もう触れなくなっても、会うことがないとしても、なんにもさみしくはないよ。
ただ悲しいのは、あんなに好きだったのに、別々に住むことを選んでしまえること。
何もなくなった部屋を見ても、止まることのない涙なんて存在しなかったこと。
さよならを前提に恋してたわけじゃないけど、
あんなにしあわせであんなに楽しかった日々が、
こんな結果になってしまうという事実が、ただ今は悲しい。
この悲しみにあ〜ちゃんが不在なことが、ただ悲しいよ。
のっちとあ〜ちゃん。
この悲しみですら、のっちはこんなふうに思うんだけどあ〜ちゃんはどう思う?って
相談できそうなくらい、二人はひとつ。あ〜ちゃんはもうのっちの一部になってる。
だけどいつの間にか、あ〜ちゃんはどこかに行ってしまった。
あ〜ちゃんの中ののっちもどこへ行ってしまったんだろう。
すぐそばにいてちょっと迷子になってるだけなの。
それとも飛行機かなんか乗ってもうずいぶん遠くまで行ってしまったかな。
それを探すための新しい暮らしなんだよね。
ほんとにそうかな。でもそう思うしかないよね。
「さて、と」
この部屋に鍵をかけるのも、もうこれが最後。
エントランスを出て空を見上げた。きっと雨でも降っていたら、
ケンカして飛び出したのはいいけど雨降ってきちゃってずぶ濡れで帰ってきたこととか、
トイレがつまって夜な夜な二人でティッシュ持って公園まで歩いたこととか思い出したかな。
何もかも同じでくっついて離れなくなっちゃったものを無理やり剥がすんだから、
しばらくは大変だろうけど、きっと大丈夫だよ。
新しい場所でうまくやっていけないはずがないよ。
計画なんてねりねりしなくたって、それなりに暮らしはまわってくよ。
ゆかちゃんはものすごい勢いで心配してるみたいだけど、
のっちもあ〜ちゃんもそれぐらい頑丈でふてぶてしくできてるよね。
ねえあ〜ちゃん。のっちはこんなふうに思うよ。あ〜ちゃんはどう思う?
ほうじゃねえって言いながら、たぶんあ〜ちゃんも同じって言うでしょ。
わかるなあ。ほんとわかるよ。
…背後にオートロックの閉まる音が聞こえた。
何年も聞いたそれは、いつもどおり3秒だけジーっと鳴って、
最後にカチャリと音を立てた。
それでおしまいだった。
(つづく)
最終更新:2009年05月14日 03:05