たった1枚の紙切れ。それが目にとまったのは、見慣れた綺麗な字。丁寧に、きっちりと書かれた「西脇綾香」の署名。
それだけで、あたしの目をとまらせるには十分だ。
あたしは山本先生の机の上に無造作に置かれた書類に、素早く目を走らせた。
…最終進路調査。西脇綾香。第一志望…
あたしの、息が、止まった。
「あ~ちゃん!!」
あたしが教室に飛び込むと、顔を寄せ合って雑誌を読んでたあ~ちゃんとゆかちゃんは、あたしの勢いに驚いて、
「の、のっち、どしたん…?」
あたしは荒い息を整えながら、あ~ちゃんにつかつかと近づいた。
「…あ~ちゃん、どういうこと?」
「…へ?」
「…第一志望」
そのたった一言で、あ~ちゃんとゆかちゃんはさっと目を合わせて、苦い顔をした。
…知ってたんだ。ゆかちゃんは、とっくに知ってた。
のっちだけが、知らされてなかったんだ。
「…もしかして、二人は同じ大学受ける、とか…?」
あたしが暗い声で言うと、ゆかちゃんはあたしを落ち着かせるように、
「ううん、うちは志望変えとらんよ。のっちと同じ。…あ~ちゃんだけ、違う大学にしたんよ」
「…っ、何で!?」
声がもつれて、悲鳴のような情けない声を上げた。
あ~ちゃんはゆかちゃんにちらっと目をやって、ゆかちゃんは万事了解って感じで肩をすくめて、席を立った。
ゆかちゃんはあたしの肩をあやすように軽くたたいて、そのまま教室を出て行った。
教室には、あたし達二人きり。
吹奏楽部の練習する、ビートルズのLet it beが聴こえる。鮮やかな茜色に染まる教室。濃い影を落とす、あ~ちゃんのうつむいた顔。
見慣れた、いつか見たような光景。
…そうだ。
このいつもあった光景を、あたしは失うんだ。
その動かしがたい、明確な未来に、あたしは打ちのめされた。
「…何であ~ちゃん、違う大学にしたん?3人ずっと一緒にいよう、っていつも言っとるの、あ~ちゃんじゃろ…っ」
声が震える。
頭をぐるぐる駆けめぐるのは。
教室のドアからぴょこんと顔をのぞかせるあ~ちゃん。廊下の向こうから駆け寄ってくるあ~ちゃん。
友達に囲まれて大笑いしてるあ~ちゃんを、あたしは眩しい思いで眺めてて。あ~ちゃんがあたしに気付いて、満面の笑顔で力一杯手を振ってくれると、それだけで有頂天になった。
渡り廊下でも、朝礼の体育館でも、通学時の人波の中でも。あたしは真っ先に探す、見つけ出す。
ふわふわの髪が目の端にちらりと入っただけで。あたしの全身が弾むんだ。
そんな日常を、あたしは失うんだ。
あ~ちゃんが当たり前のように側にいた光景が、全て過去になる。
体育祭のお祭り騒ぎも、あ~ちゃんが機嫌悪くなるバレンタインも、二人きりの帰り道も。屋上で、放課後の教室で、音楽室で、何度も重ねたキスも。
全て、過去にして。置いていかなくちゃいけないんだ。
…嫌だ。そんなの、嫌だ。
「…あ~ちゃんがおらんのは、のっちには考えられん…。絶対嫌じゃ」
「…のっち」
あ~ちゃんの甘い声が耳をくすぐる。
あ~ちゃんがそっとあたしの手を取って、ゆっくりと言った。
「のっちはいつも側におらんと、うちのこと好きじゃなくなる…?」
「違う違う!好きじゃけえ、側におってほしいんよ!そんなん分かっとるじゃろ!?」
あたしはあ~ちゃんの手をぎゅっとつかんで、強引に引き寄せた。
情けない顔を見られたくなくて、柔らかい髪に顔をうずめる。…こんな時でも、あ~ちゃんの髪はあたしを甘くくすぐる。
「…のっち、うちはのっちの太陽じゃないけえ」
あ~ちゃんの背中に回したあたしの手が、固まった。
「いつも当たり前のようにのっちの側におる太陽じゃないけえ」
あ~ちゃんは甘い声で続ける。
「…じゃけえ、うちはのっちに会いに行くよ」
あ~ちゃんの手があたしの背中にまわされて、ぎゅっとしがみついてきた。
「…会いに行く」
静かな優しさに満ちた声。あやすようにあたしの背中を包む手。
「のっちは、会いに来てくれんの?」
「…行く、行く行く絶対行く!」
「…会えん間も、うちのこと想って」
側にいてもいなくても。どんなに空間と時間を隔てても。あ~ちゃんが駆け寄ってくれるなら。…あたしはただ、想い続けるだけだ。
あ~ちゃんは顔を上げて、しがみついたままあたしの目を覗き込む。
…最近。あ~ちゃんのキスをねだる時のバリエーションが増えたなあ。
そんなことを思いながら唇を重ねた。
ああでもやっぱり。こんな風な、放課後のキスをあと何回出来るのかと思うと、切なくなる。
あ~ちゃんと過ごした思い出と、あ~ちゃんとくり返したキスを、刻みつけて、大事な宝物みたく永遠にキラキラのまましまっておけたらいいのに。
「…のっち」
くり返されるキスの合間に、あ~ちゃんは耳元で囁いた。
「うちの思い出の中に、全部のっちがおるんよ」
「…うちも。あ~ちゃんだらけ」
「うちの思い出を全部捧げたようなもんじゃけえ、大事にしてや」
…そんなん。当たり前じゃろ?忘れたくても(まあそんな気になること無いけど)忘れられん。
「さっきゆかちゃんと卒業旅行の話しとったんよ。のっちも行くじゃろ?」
「うん。当然。…でも…あ~ちゃんと2人でも行きたい」
「ああ~、じゃああ~ちゃん卒業旅行3回行かんと…」
「はああっ!?」
「3人と、ゆかちゃんと2人のと、のっちと2人のと」
…この浮気者っ。
「ゆかちゃんとは温泉でしっぽり。貸切露天とエステの旅♪」
な、なんじゃその素敵女子2人の大人モードはっ。
「のっちはアンパンマンミュージアムでいいじゃろ?」
何なんよ、その日帰りファミリープランっ。
…じゃけえ嫌なんよ。大学であ~ちゃんはすぐ友達いっぱい出来て、うちと会う時間は減らされて、犬の散歩を仕方なくみたいなノリで適当な扱いを受けるあたし…。
想像しただけで眉が八の字になってくる。
あ~ちゃんはふくれっ面のあたしをおかしそうに、きらきらしたいたずらっぽい目で見ながら、すました顔で、
「…で、のっちん家に宿泊」
「えっ」
「のっち大学行ったら一人暮らしする、って言っとったじゃろ?」
あ~ちゃんは甘えるようにあたしの肩に頭をのっけて見上げながら、
「うちがお泊まり第1号じゃけえ。約束ね」
…もちろん。年間リザーブでも全然かまわんけど。
「…じゃ、予約のしるしね」
あ~ちゃんは素早くあたしの肩を抱いて、あたしの首筋に口をつけた。
…うわ。
あ~ちゃんの柔らかい唇の感触。意識が、集中する。体温が上昇して、血が甘い芳香をたてているような陶酔。
首筋についたしるしと同じくらい、あたしもきっと赤い顔をしてる。
唇を離したあ~ちゃんは、何故か切なそうな顔をして。そのくせ強気な口調で、
「…これで売約済みじゃけえね」
なんて言う。
そっか。あ~ちゃんも、不安なんだ。
あ~ちゃんは、いっつも一人で色んなことを決めて、ずんずん進んではあたしを振り返って、おいでって笑顔で手を伸ばす。
でももしかしたら。あたしがついて来てくれてるか、泣きそうに不安な気持ちで、振り返ってたのかな。
なんか。可愛いよね。
予約したいのはあたしの方だ。あ~ちゃんの未来全部。売約済みのしるしをつけて。
すべての愛おしい思い出と。すべてのキラキラの未来と。その丸ごとのあ~ちゃんを、つかまえておきたいんだ。
桜の季節にあ~ちゃんと出会って。次の桜の季節に、この幸せなまどろみのような時間を、あたし達は去る。
でも。めぐる桜の季節の度に、どの春の思い出にも君がいますように。
あたしは願いを刻むように、あ~ちゃんの首筋に唇を寄せる。
君の全ての春に、売約済みのしるしを。
花びらのようなしるしを。君に、降らせる。
終わり
最終更新:2008年10月10日 22:17