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月明かりに照らされる真っ黒な海の上、私はひとり手漕ぎボートで浮かんでいる。

ボートに跳ね一定に刻むピチャリ、という波の音に、耳を、いや全神経を持っていかれそうになる。
綺麗だと思った。
どこまでも果てしなく続く真っ暗闇。
ただ、綺麗だと思った。

その時、大きすぎる波が私をボートごと飲み込んだ。
それは一瞬の出来事だった。
そのまま私の体は闇の底に引き込まれていきそうになる。
苦しい、苦しい。
私は必死に這い上がろうともがいた。
もうダメだ、そう思った瞬間、一筋の光が私を照らし、目の前に細く白い腕が伸びてくるのがはっきりと見えた。
その腕につかまろう手を伸ばしたその時、より大きな波が私とその腕を引き裂き、私の体はあっという間に闇の底へと沈んだ。




「はぁっ…!はぁっ…。」

枕元に置いてある薬を飲み込み、左胸を手のひらでぎゅっと押さえた。
ズキズキとした胸の痛みは、今日に限ってなかなかひかない。

…もうこれで何度目だろう。
忘れたころに見る、大嫌いな夢。
見覚えのある白く細い腕。
いつもその腕は、私を助けてはくれない。


部屋にはもう明るい光が射し込んでいた。
私は額の汗を拭い、ベッドを出た。


「ちょっと彩乃、どこ行くの?薬は飲んだのっ?!彩乃っ…」

コンビニに行きたい、私はそう答え、追いかけてくる母の声をすり抜ける。
玄関を出る頃には、私の手は再び左胸をぎゅっと押さえていた。

胸の痛みは消えない。
時間は確実に流れていくのだと感じずにはいられなかった。
長い黒髪の女性が、私を後ろから追い越した。
その後ろ姿を自然と目で追う自分は、あの頃から止まったままなのかと気づかされる。



彼女と話をしたのは一度だけ。
今にも雨が降りだしそうな夕暮れ時。
天気予報でも、夕方から雷雨に注意と何度も何度も言っていた。
今なら、開放的でそのまま楽園へと私を誘ってくれるような、そんな空間を独り占めできるのではないか、
そう思い、私は病室をぬけだし屋上にのぼった。


…重い扉を開く。
ぎぃぃぃ、と低い音が響く。
独り占めできるはずだったその空間。だがそこには先客がいた。
頭の中で想像していた未来が、崩れていく。
私は近い未来さえも思い描くことが出来ないのか。
足を一歩引き、扉を閉めようとしたその時。

「ねぇ!」
突然の声に私は思わずびくっとする。
雨が降るね、と彼女は言った。
私は伏し目がちに頷き、手をかけたまの扉をそのまま閉めようとした。

「来週退院するんでしょ!」
今度こそ私は完全に顔を上げた。
ヒラヒラと手を振り私に近づく彼女。
その腕は、驚くほど細くそして透き通るほど白かった。
まっすぐに伸びている黒髪が、それをより際立たせていた。
「…人は、いつか必ず死ぬから。」
そう言うと、彼女は私にキスをした。
怖くなんかないよと、彼女は再びもといた場所、灰色の雲の下に戻っていった。


扉が閉まるまでの一瞬、見えた彼女の表情。
口角こそ上がっているが、切り揃えられた前髪から少しだけのぞかせる瞳は、表情を失っていた。
それは怖いくらいに。


彼女の言う通り、私はその4日後退院した。
私は生まれつき心臓を患っていて、入退院を繰り返していた。
15歳までしか生きられないと言われていたことを、私は知っている。
だが、もう寿命を5年も上回ってしまった。

あれから5年以上経った今でも、私は時々彼女のことを思いだす。
彼女は退院したのだろうか。
それとも…。

私も一度くらい明日が必ずくるということに不安を抱かずに、今日を生きてみたかった。
神様がいないことくらい最初から分かっていたけど、せめて一度くら今日を幸せに生きてみたかった。

私の横を、腕を組んだカップルが通りすぎる。
私の心臓は、痛むことでしか生きている証明を果たさない。
私は左胸を押さえる力を強めた。
今日はなかなか痛みが落ちつかない。

再び息があがってくる。
私はその場に横たわる
鼓動よりも早いズキズキとした痛みは、私をどんどん侵してゆく

うっすらと目を開く。

そこに映ったのは、あの時と同じようにモワモワと広がる灰色の雲だった。
じんわりと私の頬を温かい滴が伝う。
その瞬間、色を失いかけた私の視界の中に、白く細い腕が伸びてくるのが見えた。



それが私が見た最後の世界となった。


  • END-






最終更新:2009年05月30日 23:23