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そろそろだ、と私は食器棚から黒のマグカップを取り出す。
ホットココアを注ぐとマグカップからは湯気があがった。
まるでこの冬の朝の寒さを溶かす魔法のよう。
時計の針は8時10分をさしていた。
その時、思った通り後ろからおはようと声がした。
彼女は眠そうに目をこすりながら、朝食が並べられたテーブルの前に座った。
目覚まし時計は8時ちょうどにセットされている。
だが、朝が苦手な彼女は決まって10分後に現れる。
ベッドの中で寒さや眠気、いろんなものと格闘している姿を想像するだけで私の心はじんわりと温かくなる。
ただただ愛しい。

ココアを差し出すと、彼女はまだ寝ぼけた声で、ありがとうと言った。
これを飲み終える頃には、彼女の視線もしっかりと私をとらえるようになる。
彼女が魔法にかけられた瞬間。
そのとき私は、朝の幸せを噛みしめる。
それが私の毎朝の日課だった。

私がココアを飲み干すと、赤いマグカップを置く音がカチャリと部屋に響いた。
朝食を済ますと、私は手際よく自分の食器と彼女の食器を流しに持って行く。
彼女の分のお皿だけ、いつも重さが変わらない。


今日は月曜日、燃えるゴミの日。
仕事に向かう時に、一緒に捨てに行くのが私たちの決まりだ。
途中、同じ階に住んでいるおばさんに遭遇する。
私はおはようございます、と笑顔で挨拶をするが、人見知りな彼女は俯き、軽く会釈をするだけだ。

「もぉ…ちゃんと挨拶しなさいよ〜」
私がすいませんと苦笑いでおばさんを見ると、途端におばさんは顔色を変え、足早に私たちの前から去っていった。


私は、友達が経営している小さな輸入雑貨のお店で、週に三日働いている。
お手伝いをしている、と言った方が正しいかもしれない。
いつも16時にあがることができるため、夕飯の買い物をしても17時には帰宅できる。

一方彼女は、ゲームの開発に携わる何か難しい仕事をしているため、夜遅くまで帰ってこないことも珍しくない。
彼女は仕事人間だ。
ちょっと声が聞きたい、とお昼休みに電話を入れても、機械を通した女性の声が返ってくるだけ。
そんな生真面目な部分と、毎朝私だけに見せる朝の様子。
それがたまらないギャップとなり、私が彼女からより離れられない理由のひとつともなっていることは間違いない。


私はいつも通り16時ちょうどに仕事を終え、家の近くの大型スーパーに寄った。
ここ最近、いつもに増して仕事が忙しそうな彼女。
今日は彼女の好きなカツ丼を作ろう。
彼女が美味しそうにカツを口に運ぶ様子が頭に浮かび、私の頬は自然と緩んだ。


袋をふたつ抱え玄関を開いた私は、一瞬かたまる。
彼女が出迎えてくれたのだ。
私はただいま、とそっと彼女に顔を近づける。
いつもと同じように唇には冷たい感触がジワリと広がった。

「連絡くらいくれればいいのに…。」
すぐ夕飯の準備するからね、私はそう言い玄関からリビングへと続く廊下に、一歩足を降ろしたその時、背後でガシャンと何かが割れる音がした。
私は慌てて後ろを振り返る。
そこには、大きくヒビが入り歪んだ写真立ての姿があった。

小さな硝子の破片が私の足の甲、ストッキングを破り、うっすら血の赤が滲む。
私は一気に血の気が引くのを全身で感じずにはいられなかった。
膝はガクガクと震え、臓器を伝い心臓の奥を大きく揺さぶる。
足の裏からは急激な速度でフローリングの冷たさが伝わり、冬は寒いものだと私は知らしめられる。
冬の魔法はもう解けようとしていた。

血はどんどん滲み出る。
全身の震えは増すばかり。

私の足下では、さっき口づけを交わしたばかりの愛しい人が、写真の中で笑っていた。

  • END-





最終更新:2009年06月17日 11:16