side.N
気が付けば此処が何処だかも分からないくらいになっていた。
あたしはこのカウンターに座ってから、どれくらいの時間こうしてたんだろう。
薄暗い店内。
ガラス一枚隔てた先は、赤い絨毯と白く濁った煙が籠った空間。聴こえてくるのは、名前も知らない見たこともないバンドのミディアムナンバー。
「同じの、下さい」
黙って頷いたバーテンダーが、慣れた手付きでシェイカーを振る。
一緒にいたってしょうがないって思ってしまったら、おしまいだ。
無意味に感じてしまったら、気持ちは行き場を失う。
いくら体を重ね合ったって、いくら愛を囁き合ったって、先が見えないんじゃ虚しいだけだった。
結果残ったのは、言葉にすることもできない、表現しようのない、想いの成れの果て。
嫌いになった訳じゃない。
ただ、好きでいる意味を失くしてしまった。
なにも知らない彼女はどう思っただろう。
ただただ残酷な事をしてしまったね。
残酷に時間を重ね、残酷に体を重ね、残酷に愛を囁き、残酷に別れを告げてしまった。
傷付くことないよ。
あなたは、傷付かなくていい。
全部、あたしのせいにしてくれていい。
自分を卑下にしてしまいそうならば、あたしを責めてくれて構わない。
あいつが全部悪いんだって、罵ればいい。
あたしがあなたにしてあげられるのは、あなたの中でそんな役目を務めるくらいしか、もう残っていないから。
「……同じものを」
あたしは彼女になにも与えてあげられない。
このまま続けたって、これから先できることは味気ない変化のない日常をただ消化するだけだった。
最期が訪れるまで延々と。
そんなのは、きっとお互い堪えられない。
どちらかが先に、限界を迎える。
もっと早くに気付くべきだったね。
始まりを迎える前から、終わることが決まってた。
不味いな。
どんなに飲んだって、渇きすら潤してくれない。
聴こえてくる、愛の詩すら今は疎ましい。
ガラスの向こうにいる赤いドレスの女性に、若い男が声をかけた。
頷く女性の隣に男が腰をかける。
嬉しそうに顔をあげた女性の腿に、男が触れた。
「同じの、お願いします」
side.A
狭く薄暗い小階段を降り、少し重い扉を開く。
一歩足を踏み入れた瞬間から鼻につく、煙草の匂い。
不快に纏わりつく、煙った空気。
そんな場所にいるだけで参ってしまいそうになるあたしは、この店が大嫌いだった。
赤い絨毯の上、人混みを縫うように進み、薄いガラスで作られたドアを乱暴に押す。
バーの手前から視線を滑らせると、やっぱり居た。
一番奥の席。
重たそうに頭を下げる、見慣れた姿。
ねぇ、なにがあったの。
なにを考えてるの。
あたしが知らない、二人の間になにが起きたの。
あたしは知ってる。
こんなところにのっちが一人で来るのは、のっちが出す助けてのサイン。
「……なにやってるの」
気怠るそうに顔をあげるのっち。
面倒そうに、視線を逸らした。
「仕事でもしてる様に見える?」
見えないよ。
あたしがなんでここに来たのか、きっとのっちは分かってる。
「酔ってるの?」
「全然。酔いたいのに酔えなくてさ、なんでだろ」
グラスを片手で揺らしながら答えるのっち。
どれだけ呑んだの。
たいして強くないくせに。
「……なんで別れたの?」
「なんで別れちゃいけないの?」
また、面倒そうに頭を下げる。
さっきから表情は、微動だにしない。
「なにがあったんよ」
「別になにも。恋人同士が別れるのって、そんな特別なこと?」
そんなに軽く言わないでよ。少なくてもあたしは、二人には別れて欲しくなかった。
そもそも別れる理由が分からない。
ついこの間だって、二人で楽しそうに旅行に行った写真、見せてくれたじゃない。
「ゆかちゃん泣いとったよ。泣いて、電話してきた」
「そう……」
どうしてなのか分からない。どうしていいのか分からない。そう言って、泣いてた。別れたくないって、そう言って泣いてた。ずっと一緒にいたいって、泣いてたんだよ。
「理由は話してくれないの?」
「……もういいじゃん。終わったんだし」
頭にきた。
反応のうすい無気力さにもあまりにぶっきらぼうな言い草にも。
のっちにとってゆかちゃんとの事は、その程度のことだったの。
違うでしょ。
あたしは知ってるよ。お互いどれだけ想い合っていたかも、大切に思っていたかも。
だから、悲しいよ。
二人がこんなことになってしまっているのも。
のっちが理由をあたしに話してくれないことも。
のっちにとって、あたしはどんな存在なんだろう。
こんなに大事なことも話せないくらい頼りない?
こんなに大事なことも話してくれないくらい、どうでもいい?
「あたしにも、同じものを下さい」
黙って頷くバーテンダー。
顔をあげるのっち。
「やめときなよ」
子供に諭すような優しい顔。
「お酒、ダメだったよね」
少し嘲る様な笑み。
それでも、バーテンダーがあたしの前にグラスを差し出すと、のっちは少し心配そうな顔になった。
知ってる。優しいのも、本当は人を突き放せるような人じゃないのも。
でも、あんまりだ。
ガラス一枚隔てた向こうの空間では、しっとりとしたラヴバラードが流れる。
この場に似つかわしいんだかそうじゃないんだか分からない、甘い歌声。
「もう一杯下さい」
「ホントやめときなって」
「放っといて」
あなたは、きっともう話してくれない。
塞ぎ込んだら、どうなるか知ってるよ。
長い付き合いだからね。
あなたが好き勝手するなら、あたしだって好きなようにする。
「でも、ゆかちゃんは放っとけない」
あなたに来て欲しくて泣いてる。
あなたに抱き締めて欲しくて、泣いてる。
「のっちが別れたんなら、ゆかちゃんはあ〜ちゃんが貰う。もう関係ないんじゃけ、いいでしょ?」
「……どうぞお好きなように」
ガラスの向こうでは、赤いドレスの女性と、若い男が絡んでいた。
男の膝の上に、足を広げて跨がる女性。
背中にまわされた両腕。
執拗に繰り返すキス。
やがて、手と手を取り合って、暗い店の奥に消えた。
〜続く〜
最終更新:2009年06月17日 14:10