私は部屋にある全身鏡で、服のコーディネートをチェックした。前から、後ろから、斜めからの3通り。
うん、問題ない。昨日買ったスカートは、すでに持っていたロングTシャツと想像通り合っている。
今日からまた、仕事の日々に戻る。大学が始まるのはまだ先なので、しばらくは仕事だけの日々。
1週間のお盆休みを満喫したためか。それとも一週間も仕事から離れてしまったためか。朝起きてから昼近くになった今までずっと、私の心と体は早く羽を広げて全速力で飛びたがっていた。
早く歌いたい、踊りたい、音楽に囲まれたい。
何かを受信して、何かを発信したい。
なにより、3人が集まった時に溢れ出る、あのたまらない高揚感と幸福感を、早く感じたい。
遠足前の子供みたいに落ち着かない私は、迎えの連絡がまだ来ていないとわかっているのに、携帯を見るためにベッドのサイドテーブルへ近づいた。
携帯を見るついでに、隣に置かれている砂時計も見る。そして、昨日も今日も灰色の砂を働かせていないことに気がついた。
というより、あの日から一度も動かしていない。休み前最後の仕事の日、3人でのっちの家でご飯を食べた夜から。
あの日、のっちと私の間の空気が一時おかしくなったけれど、この1週間一切連絡を取らなかったら何事もなかったかのように思えてきた。
それだけでなく、家族で出掛けたり等の様々な予定の中で、のっち関係の思考回路を綺麗に巻き取って、頭の隅にある箱に仕舞っておくことさえできた。
私は久しぶりに、砂時計を引っくり返してみた。以前と全く変わらず落ちる灰色の砂が、少しだけ怖い。
しかし、以前のようにのっちのことを考えようとしても、いまいち手応えがなかった。仕舞った箱を開けたはずなのに、思考回路の代わりに霧が出てきたみたいで、うまく考えられない。
…これは恐らく、いいこと。考えられないのは、いいこと。
時間が解決してくれる、という表現をよく聞くが、今回がとてもいい例だと思う。ようやく、私たちのバランスが元に戻ったらしい。
私はテレビで予報されていた快晴の空に頭を切り替えて、携帯を手に取った。もちろん連絡は未着。
でもすごく清々しい気分で、まだ砂を落としている時計の表面をひと撫でしてから、部屋を出た。
足取り軽く、むしろ宙に浮いているんじゃないかと思う心地で、私は大好きな匂いがする店内を歩いている。
お盆休み明けの今日は午後から、月末に出演するイベントの打ち合わせと衣装合わせがあり、しかもその2つの間の待ち時間が長くなりそうだった。
ので、私はその待ち時間中に読む本を求めて、本屋に来ている。
大好きな匂いは、本の匂い。同じくらい大好きなのは、CDショップの匂い。
でも足取りが浮いているのは大好きな匂いのせいだけではなく、もうすぐあ〜ちゃんとかしゆかに会えるから。
2人と一緒にいられると思ったら、私の心と体は軽くなって何でもしたくなる。2人がいなかったら、私は何かが欠けてどうしようもない人間になってしまっていただろう。
それくらい2人に会いたいけれど。
会わなかった1週間が、ささくれのように気になっているのも確かだった。
気になって携帯を見ると、あと15分程で迎えが来る時間。
ここから自宅に戻るのは時間の無駄なので、私は迎えの車を店の近くに回してもらうよう事前に頼んでいた。
だが迎えを頼んだといっても無理な我が儘を言った訳ではなく、あ〜ちゃんとかしゆかの実家と仕事現場を結ぶ経路を考えて、途中で拾ってもらえる位置にある本屋を探して来ていた。その辺りはいくら私生活がルーズと言われる私でも、抜かりはない。
携帯から目を離し、雑誌や新書の棚に見向きもせず、真っ直ぐに漫画のスペースへ行く。まずは、持っている続き物の新刊を手に入れなければ。
私は新刊が整然と並べられた平台にわずかに前のめりになって、目当ての本を探した。1分後、2冊発見して迷わず手に取る。
続いて、まだ見ぬ掘出し物を見つけに行くことにした。足取りと共に浮いている心をちょっと宥めて、漫画がぎっしり詰まった棚の間をゆっくり歩く。
平日の昼間にこんなことをしているのは、周りを見渡しても私しかいなかった。社会人風の人々は雑誌を立ち読みしていて、年配の人々は小説を立ち読みしている。
漫画のスペースには、私1人きり。
まるで自分が不真面目みたいに感じたけれど、すぐに思い直した。漫画は、日本の文化。引け目を感じる必要は、全くない。
歩きながら自分のアンテナの感度を上げ、棚の下部に平積みされた本の表紙と帯に素早く目を走らせる。
掘出し物を探すのは、インターネットよりも本屋の方が、俄然わくわくする。
素直にわくわくして歩いていたら、ある漫画の帯の言葉が、首に巻いた私のストールを軽く引っ張った。
“息を潜めて、体を重ねて、それから恋をする私たち。”
私は心もち歩調を緩めたが、表紙の画に特に惹かれるものがなかったので、立ち止まらずにその本の前を通り過ぎた。
このくらいは、よくあること。
一通り棚の間を通り抜けてから携帯を見ると、まだ5分余っている。もう一度新刊コーナーを一回りしようか。
ビニールでぴっちり包まれた本が積んである平台の周りを、最初よりもいくらか速めに歩く。見落としがないよう、目を忙しなく動かして歩く。
次々と目に飛び込んでくる帯には、どれも工夫を凝らした文句が踊っていて、つい買いたくなるよう煽ってきた。
このくらいもよくあることなので、帯だけでなく表紙の雰囲気も合わせて吟味してから買わないと後悔するし、実際何度も後悔してきた。
“息を潜めて、体を重ねて、それから恋をする私たち。”
何度も後悔してきたから通り過ぎたはずなのに、さっきの帯の言葉が目の前の帯を読む度に頭の中でちらつく。
しかもあの煽り文句、どこか違和感を感じる。何だろうか。
残り、2分。
私は小走りであの本を取りに行き、レジへ向かった。
ガサガサガサ。
私が本を袋に仕舞う音が控室に響いた。本屋でもらうビニール袋は、何故かどの店のものも目立つ音を立てるので困る。
すでに読み終えた2冊の新刊は、期待通りの面白さだった。単行本を読むと毎回、続きが気になって連載雑誌を読みたくなるが、そうするとコンビニ通いが癖になるのでいつも我慢している。
今日の仕事は予想通り、打ち合わせが終わってから衣装合わせまでの待ち時間が2時間近くもあった。
それくらいなら3人でおしゃべりしていれば一瞬で過ぎ去るけれど、私は1人でずっと本を読んでいた。
1週間が、ささくれのように気になるから。
まだ見ぬ掘出し物、というか衝動買いした漫画を私が取り出したところで、トイレに行っていた2人が戻ってきた。
「うわ、あんたまだ読むん? 何冊買ってきたんよ?」
「ほんとー。でも私も読みたくなってきた。貸〜して!」
あ〜ちゃんもかしゆかも、結構漫画が好きだ。読むジャンルは2人が似通っていて、私だけ微妙に異なっている。
けれど今日買った新刊は2冊とも、以前私が楽屋に持ってきて3人で回し読みした漫画の続きだった。偶然に感謝しつつ、それらを袋から取り出してかしゆかに手渡す。
「いーよー。………はい。どっちも前に貸したやつの新しい巻。今日買ってきた」
「ありがとぅございまーっす!」「も〜、2人とも読むんなら、私も読むしかないじゃん」
あ〜ちゃんは不満げに、それでいて弾んだ声を隠しきれずにそう言って、かしゆかから1冊受け取りイスに座った。
1つのテーブルを3人で囲んで、2人があっという間に2次元の世界に沈んでいく。でも私だけ、まだ3次元に頭の一部を残したままでいた。
かしゆかに本を手渡した時、本当に少し、少しだけ意識してしまったから。
だって物足りなくて。1週間ぶりに会ったかしゆかが、拍子抜けしてしまう程普通で。
…でもこれは恐らく、いいこと。普通なのは、いいこと。
休みに入る前は、かしゆかに避けられている気がしていたのだから。いや、気どころか実際避けられていたし、明らかに私もかしゆかもお互いを意識していたから。
今、普通じゃないのは、意識しているのは、私だけ。
それが尚更、物足りないけれど。
「のっちが読んでんのは…?」
表紙を開いてすぐのカラーページで動きを止めていた私に、かしゆかが斜め前から話しかけてきた。
あっという間に頭全てが、3次元に飛び出す。急いでこの場に適切な態度を探し出して、声と顔に装着した。
「…これ? 全然知らない。衝動買いしちゃった」「面白い?」
「や、まだ読んでないからわかんないけど」「ふ〜ん。読み終わったら貸して?」
「ん」
あまりに普通なやり取りが、私の気分に薄い陰を作る。
私はページをめくりながら目を上げて、漫画に集中し始めたかしゆかの顔を盗み見た。今日何度目だろうか、確かめるように視線を向けるのは。
あの日。私の家で、私の寝室で見えた、感情が曖昧な大人の表情の奥にある、子供の部分と大人の部分を混ぜたようなかしゆかの顔。
こうして何度かしゆかを見ても、それが現れる気配はなかった。ささくれみたいに邪魔でしかなかった1週間のせいで、もう見られないのだろうか。
…でもそれも恐らく、いいこと。
約1ヶ月の間見失っていた私とかしゆかのバランスが、ようやく元に戻ったのだから。
視線を漫画に戻し、私は2人と同じように2次元の世界に沈むことにした。
ガサガサガサ。
私が本を袋から取り出す音が部屋に響いた。のっちが本屋のビニール袋ごと漫画を貸してくれたから目立つ音が出たけれど、自分の部屋なので困らない。
今日は待ち時間が長かったせいで、仕事が終わる時間も遅くなった。しかも休み明け最初の日ということで、あ〜ちゃん・のっち・私の3人とスタッフで夕食に行って帰ってきたら、22時をまわっていた。
しかも明日は集合が早いのでもう寝ないといけないと思いつつ、私は借りた漫画を手にベッドに寝そべってしまった。
借りたのは、のっちが衝動買いしたという本。
表紙の画を見る限りは衝動買いする要素がわからなかったが、帯を目にしたら妙に納得した。
“息を潜めて、体を重ねて、それから恋をする私たち。”
何か、引っかかる文だ。
…違う。引っかかるのは、私が引っかかっているのは、のっち。
『これ、貸してって言ってたよね…?』
さっき私が自宅の前で帰りの車から降りた後、追いかけるように車を降りて、私にそう言って本を手渡した時ののっちの声と顔。
それらはあの日と同じだった。のっちの寝室で目の当たりにした、ひどく真剣な声と顔と、同じ。
私は寝返りを打ってサイドテーブルに手を伸ばし、砂時計を逆さにした。した途端、猛烈な後悔の念に襲われる。
頭の隅にある箱が開いて、一気にのっち関係の思考回路が飛び出してきたから。
さっきだけではない。今日一日、ずっと真剣な視線を感じていた。のっちの大きくて透き通った瞳から、底が知れない瞳から発せられる視線。
…馬鹿じゃないの。また繰り返す気なの、私は。
1週間で全て、元に戻ったんでしょう? 視線が何なの?
だって別に、お盆休みに入る前みたいに、のっちが私を意識しているとは限らない。のっちの体の調子や機嫌の加減が、何かのきっかけで狂っただけなのかもしれない。
だから。ただ見られていたくらいで動揺するなんて、意識しすぎるにも程がある。
灰色の砂は持ち主にお構いなしに、初めて見た時と全く同じように落ちていく。3人お揃いで買った時と、同じように。
意識しすぎる? 意識なんてしていない。だって元に戻ったんだから。その証拠に、私は普通に振る舞っていたはず。
…振る舞っていたって、どういうこと?
私は余計にわけがわからなくなりそうな脳内の独り言を止めて、借りた漫画を読むことにした。
そうして3次元の世界から、すぐにでも距離を置きたかった。
バシャッ。
目眩がする。
バシャッ。
どうしよう。読まなければよかった。
バシャッ。
でも読んで、よかった。
バシャッ。
…よくなんて、ない。
「…は、ぁ……」
まだ気は済んでいないが、自分の顔を水から救うことにした。息が、苦しい。
家族が寝静まった家の洗面所で、私は顔を洗っていた。時刻は23時半を過ぎている。
洗面台の両端に手をついて俯き、蛇口から流れ出る水と、顎から滴る水をぼんやり見つめる。
顔を上げたくない。今の自分の表情を、見たくない。
気づきたくない。いや、気づきたくなかった。
なのに。つい5分前に読み終えた本に、気づかされた。
“息を潜めて、体を重ねて、それから恋をする私たち。”
本の帯の“私たち”は、2人の女性。
内容は2人の女性の、女性同士の、息を潜めなければならない関係の話。
なんてベタな。なんてベタなタイミングなのだろうか。
私は蛇口のハンドルを捻って水を止めた。止めたのに、ここ1ヶ月の記憶が勝手に流れ出てくる。
『キスされそうになったんです。『好き』と言われて』
あのライブのMCだって、そう。
『最近のっち近くない?』
あのあ〜ちゃんの発言だって、そう。
どうして? どうしてこうも、私を追いつめるベタな出来事が続いたのだろうか。
『……わかんないのは、かしゆかの方だよ』
そうか。私が私のことをわかっていなかったから、なのかも。
水で濡れて冷たい頬を、同じくらい冷たい指でなぞる。あの日、のっちに触れられた部分を。
もう、のっちの綺麗な瞳に暴かれる必要なんて、ない。自分の心の奥の核心が、わかってしまったから。
気づかされたから。
でもどうして? のっちはどうして私にあの本を貸したの? 控室で読んでいたから、内容を知っていたはずなのに。
普通なら貸しづらい内容のはずなのに、わざわざ車を降りて手渡してきた。のっちは何を考えているの?
私は濡れた手で、部屋着のポケットから携帯を取り出した。のっちの電話番号を画面に表示させる。
電気も点けずにいたので、薄暗い中で画面が眩しくて目を細めた。番号の部分に前髪から水滴が落ちて、数字がぼやける。
…お願いだから、何も考えないでいて。考えなしに貸したって、言って。
余計なことは深く考えないのっちでいて。意識なんてしないで、10分経ったら全部忘れてしまうのっちでいて。
じゃないと。
…じゃないと、何?
〜♪
突然の着信音で、私はベッドの上で横になり枕に突っ伏していた顔を上げた。
誰からの着信かわざと見ないようにして、電話に出る。
「はい………え?」
相手はマネージャーだった。なんつー時間に、と思ってヘッドボードの時計を見ると、時刻は23時半を過ぎていた。
「え、本当ですか? すごい急ですね……はい、わかりました。はい………じゃあ、また明後日に」
私は携帯を閉じて仰向けに寝返り、見慣れた天井を見上げた。部屋の電気は点けっぱなし。
明日の仕事が予定変更になり、急遽明日は一日休みになった。今日お盆休み明け初仕事だったのに、また、休み。
休みなら、2人に会えない。あ〜ちゃんと、かしゆかに。
姿勢を変えずに右手で頭上を探り、私は砂時計を掴んだ。腕を伸ばし高く持ち上げて引っくり返し、底を下から見上げる。
休みなら、かしゆかに会えない。
貸した漫画、もう読んだかな。
控室であれを読んだ時、かしゆかと一緒に観に行ったライブを思い出した。あのMCを。
そしてあの時と同じように私の心臓は動転して、狂ったように暴れて、全身がざわついて気持ち悪くなった。
だって女性同士の関係が、あり得るなんて。近づくどころではなくて、重なる関係があり得るなんて、今まで知らなかった。
予想より早く、ガラスの底に薄く砂が積もった。薄いはずなのに砂が黒いから、向こう側が見えない。
かしゆかに近づいて掴んで、重なることができれば、私の物足りなさは解消されるのだろうか?
…馬鹿、何を想像しているんだ。
あんなこと、本の中だけのこと。私たちとは関係ない。関係ないから別に貸してもいいと思って、かしゆかに貸したんだ。
だってあんな関係、許されるわけがない。
許される? 何故、関係が前提にあるような考え方をしている?
私たちの関係は、変わらない。確かに3人とも成長して大人になっているけれど、バランスが変わることは、ない。
透明なはずのガラスの底が、黒い。私の砂の色である黒は、変化の結果。他の色が変化した先が、黒。
…でも、黒はそれで満足するのだろうか。黒それ自身は、変わりたくならないのだろうか。動きたくならないのだろうか。
砂が落ち終えたので時計を持っていた腕を降ろしたら、また着信音が鳴った。
————to be continued————
最終更新:2009年07月17日 21:50