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side.N


辺りになんの音もなくなって気が付いた。
今まで聴こえていた音楽も、グラスを洗うシンクの音も、忙しなく動く足音もなにもかも。
なにごとかと思って顔を上げれば、なんのことはない。
とっくに営業時間は終了してるってだけだった。
バー入口のガラスのドアにはOPENの文字のプレート。あれを来客に伝えるってことは、外からみたあのプレートは真逆の意味を示してるはず。
仕事を全て終えたのであろうバーテンダーが、バーカウンターの端っこに行儀良く立っていた。
「あ、ごめんなさい」
「いえ……」
「おいくらですか」
「お代は結構です」
「え、いや。払います」
「お連れ様から、もう頂戴致しましたので」
ああ。あ〜ちゃんか。
随分似合わないことしていったな。
彼女は帰り際、どんな顔をしていたんだろうか。
どんな気持ちで此処に来て、どんな気持ちであたしと会話していたんだろう。
恐かったから、顔はあまり合わせなかった。
彼女の表情を見るのも、あたしの表情を見せるのも、ひどく恐ろしく感じた。


「長々居座っちゃって、すいませんでした」
「いえ、是非またお越し下さい」
優しさを伝える為の、良く作られた笑顔。
内心迷惑な客だと思ってようが、客には決して見せないその表情は、とても大人に見えて羨ましかった。
「今日は、これで?」
「ええ」
後から振り返れば、どうかしてると思うかな。
どうにかなりそうな思考をぶち壊して、めちゃくちゃにして欲しいのか。
誰もいないベッドで一人眠るのが嫌なのか。
無理矢理忘れなきゃと焦っているのか。
いずれにせよ誰かの温もりが欲しい時、一番都合が良いのは素性も知らない赤の他人。
余計な詮索もなければ、自分の心に気付かれることもない。
その瞬間のあたしが、その人にとっての全てだから。「あの、よければこの後、私がお相手しましょうか」
それを聞いたバーテンダーが、ゆっくりと視線をこちらに寄越した。
そして、それは嬉しいと微笑みながら、着ていたベストのボタンを、ひとつ外した。



side.A


明るくなった街を歩く。
それまで時間を潰したと言えばそうだけど、とっくに始発も出ている。
新たな今日を生きる人達が、足早にあたしを追い越して行く。
夜も遅ければ、朝も早い。忙しい街だな、東京って街は。
眠りについていなければ、お風呂にだって入ってない。それどころか昨日着ていた服のまま。こんなんじゃ、違う一日だなんてあたしは思えない。
リセットが行われていない今のあたしは、昨日の延長を歩く。
周りの人達とは、違う時間を感じながら。
大半が今から出社するんであろう人の山に紛れて電車に乗る。
身動きもとれずに運ばれる。タクシーにすれば良かったと後悔した。
汗をかいたわけでもないのに、ずっと同じ服を着ているというだけで、気持ち悪かった。
あたしの体に四方からぶつかる人に、申し訳なく思った。
きっとみんな、顔を洗って、歯を磨いて、洗い立てのシャツに袖を通して出てきたんだろう。
それでもどこか、憂鬱そうな顔をしてるところは、多分あたしと一緒だ。


目的の駅からは、ひたすら歩いた。
あまり早くに着いてしまっても困るから。
彼女の住むマンションも程近くなった頃、コンビニに寄り飲み物と食べ物とアイスを買った。
彼女の為じゃない。
あたしの為だ。
つまらない理由付けでもしないと、とてもチャイムを押せそうにない。
買ってしまえば後戻りはできないとあたしは、仕事に向かうさっきまで沢山いた人達の様に足早に歩を進めた。
見えてくる建物。
あの建物の一室に彼女がいるんだと漠然と考えると、なんだか不思議な気分になった。
こんな気持ちで此処を訪ねたことは今までない。
いつもは大概、楽しみだったり嬉しかったりしてたから。
エレベーターに乗って緊張したことも、勿論ない。
部屋の前で立ち竦んだことだってない。
いつだって、着くなり一目散にチャイムを鳴らしてたから。
深呼吸すると、右手にぶら下げた白いビニール袋がガサガサ鳴った。
そうかそうか。
急がないとアイスが溶けてしまうんだった。
空いた左手で、今まで何度も押したチャイムを、いつもの様に押した。
それは勿論、いつもと同じ音を奏でた。



side.N


「もう仕事は御仕舞いだから」
「え?」
「無礼講で良い?」
「あぁ、はい」
慣れた手付きでベストをハンガーに掛け、チェストに仕舞う。
チェストの中には、同じデザインのものが何着も並んでいた。着たものと洗ってあるものの区別をどうつけているのか、些か疑問だ。
「なにか飲む?」
「いえ、あたしはもう」
さっきまでとは顕かに違う手付きで、シェイカーを振る。さっきまでがラッコの貝割りなら、今のは貯金箱を振る小学生だ。
片手でぶっきらぼうに、見るからに適当に。
「モテるんだね」
「……はい?」
「さっきから随分色んな人に声かけられてた」
「ああ……」
なんとも思ってない人に声をかけられても、困るだけだ。
大体があたしの外見をみて声をかけてくる。
がっかりするから、やめておいた方が良い。
あたしなんかとどうこうしても、きっとつまらないだけだ。
「君の隣に座っていたのは、恋人?」
「いえ、違います」
「西脇綾香さんだよね? 実際には初めてみたけど」
「あぁ……はい」
「今の君と同じ顔してた」
視線をやると、穏やかに微笑んでいた。
なんか、全部わかってます。僕は大人ですとでも言わんばかりの余裕が気に入らない。
そんなあたしの様子にも、気付いているのかいないのか、あたしの前にホットココアを差し出してきた。
なんだかとっても子供扱いだな、こりゃ。
「サービスだから」
「はぁ……頂きます」
ん、甘いや。
お酒なんかよりよっぽどおいしい。
「なんで別れたの?」
「え?」
「ごめん。盗み聞きした」
ああ。そりゃそうか。
そんな言い方しなくたって良いのに。
カウンターで話してれば、嫌でも聞こえてしまうだろう。
なんで別れたの?
辛くなったから。
一緒にいてもあたしには何もしてあげられないから。
意味もない行為が虚しかったから。
「あたしが愛しても、ダメなんです。彼女を満たしてあげられない」
だから、別れた。
今だって好きだけど、その方が彼女の為だから。
飲み終えたカップをカウンターに置くと、即座に腕が伸びてきて、シンクに水が流れた。
「時間が経つと、こびりついて取れにくくなる。だから飲み終わったグラスやカップはさっさと洗うんだ」
シンクでカップを洗いながら、彼は言った。
そんなもんかねぇ。
そう言えば、カレー食べ終わった後のお皿とか、お母さんよく水に浸けてたっけな。
「自分が決めることじゃないのにね」
「え?」
「いや、ひとりごと」
いつの間にそんなことしたのか、店内には小さく音楽が流れていた。
甘くて切ない、のびやかな女性ヴォーカル。
洋楽かな。そしてきっと少し古い曲。そう聴こえる。
あたしは知らない、でもきっとこの人は知っている。


〜続く〜





最終更新:2009年07月17日 21:57