——1945年 7月
3月と4月と5月にあった空襲で、東京の半分が焼かれた。
生き残った人も、多くが家族や家を失い、身を寄せあって生きていた。
ラヂオから流れる戦局報告は変わりなかったし、私も勝つと信じていた。
父が海軍少将だからというのもあったけれど、信じないと耐えられそうになかったから。
そんな頃に、私たち3人は出会ったんだ。
…貴女たちは今、どこにいるの?
[かげろふ]
梅雨がまだ明けきらない、陰鬱な火曜日。
住み込みで働いていた奉公先の奥様からのおつかいで役所に行った帰り道。
雨の音に霞みながらも、通りの向こうから怒声が聞こえてきた。
「貴様、我らが大日本帝国に逆らうと言うのか!!」
「堪忍してください…この通りです。」
——憲兵か。
女の子がこんな雨の中、地に伏している。
ああ、白いブラウスが汚れてしまう。
「後生ですから…っ!」
「ならん!だいたい貴様、体が弱いだの言って奉仕にも出ず、くだらないものを書いてるらしいじゃないか。
お国のために戦っておられる兵士殿に恥ずかしくはないのか!?この非国民!!!」
「…………っ!」
あまり珍しい光景ではなかった。
言いがかりにすぎない。
一瞬、女の子の顔が髪の間から覗いた。
雫の流れ落ちる烏羽玉の長髪。
ぶたれたのだろうか、うっすら腫れた白滋の頬。
細かく震えるぐみの実の唇…。
人形だった。
あれは、小さい頃に父にねだった、露店で見た日本人形———
体を電流のようなものが走って、かっかと胸が熱くなる。
…助けたい。
思うよりはやく、体が動き出す。
「憲兵殿、どうか堪忍してはいただけないでしょうか。」
「なんだ貴様は?口出しをするな!」
「私の父である大日本帝国海軍少将の大本は、彼女の父親と旧友なのですよ。
そして彼女はたまに、私の主人、中田さまのお手伝いをしてくれているのです。
どうか彼女を許してはいただけませんか。」
勿論女の子とは初対面だ。そのような縁など皆無。
しかし、父や主人の名前を告げると誰もがわかりやすく態度を変えるから。
虎の威を借る—と言われても、この戦時下、権力から身を守るには、やはり権力しかないのだった。
例外なくこの憲兵もうぅむと唸ってから、「ならば今回は。」と髭を撫ぜ、去っていった。
その背中をぼんやり眺めていると、足元から視線。彼女だ。
「あの…」
「大丈夫?傘も無いのにいつまでもこんな所に座り込んでいては濡れてしまうよ。
…いや、もうずぶ濡れか。」
笑ってみせたは良いけれど、先程の胸の熱さは一向に鎮まらず、時折痛いくらいの鼓動となって私を打つ。
一体どうしてしまったのだろう。自分が知らない人に話しかけ、ましてや助けるだなんて。
殆ど衝動的だった行動を悔いるつもりはないが、しかしこの先どうすればいいのかわからない。
「ありがとうございます。何とお礼申し上げれば…」
涙なのか雨の雫なのかわからないけれど、その美しい頬を濡らして彼女は頭を下げた。
こういうのは苦手だし、それに私が何かしたわけじゃない。
雨が止む気配は全く無かった。目の前の彼女はずぶ濡れの泥だらけで、到底1人帰すわけにはいかなかった。
再び、何かの力が私を動かす。
「気にしないで。それより、ちょっとついて来てくれるかな。」
傘の中から手を差し出す。
彼女は言わずとも躊躇しているのが見てとれた。
一瞬、交わる視線。
震える睫毛と揺れる瞳。
伸ばされた白い右手。
雨の音はもう聞こえない。
それが彼女—有香に初めて触れた瞬間だった。
続
最終更新:2009年07月17日 22:56