【1】
月曜日の放課後に、いつも立ち寄る店がある。
街の隅っこにひっそりと佇むビルの二階の喫茶店。
白い板に手書きで「山中珈琲」と書かれた小さな看板が、階段の横に無造作に立てかけられている。
この店は、珈琲はもちろんのこと、ケーキがまた格別に美味しい。
特に最近、私たちが気に入っているのはチョコレートケーキ。
何度食べても飽きのこない控えめながら濃厚な味わいのチョコレートに、
私たちはすっかり虜になっていた。
ただ、学生の財布には少し厳しい値段なので、週に一度、月曜の放課後にだけ立ち寄ることにしていた。
そして今日がその月曜日。
私たちは15時に校門前集合と約束していた。
いつもは15時前には三人とも集まるのだが…、
「遅いね、あ~ちゃん」
「そうだね…何かあったのかな」
ゆかちゃんの長い髪を風が揺らす。右手で髪を整えながら校舎を見つめる。その目は何となくけだるげで。
最近、ゆかちゃんのちょっとした仕草に色気を感じるようになった。
私も髪をのばそうか…。
「ちょっとメール来てないか見てみるね」
ゆかちゃんはそう言うと鞄から携帯を取り出した。
「あー…」
「あ~ちゃん、なんて?」
「先生に用事があるから今日は来れんって」
「そっかぁ…」
用事って何だろう。
「じゃ、行こっか」
くるっと私に背を向けてゆかちゃんが歩き始めた。
私はそっと自分の携帯を確認する。見なくても大体見当はついていた。メールは一通も来ていない。
あ~ちゃんはこういう事務的な連絡を、いつもゆかちゃんにする。
そこには自分が決して割り込むことのできない二人の信頼関係があった。
沈んでいく気持ちを振り払うように、小走りしてゆかちゃんの背中に追いつく。
途中、水たまりを避け損なう。冷たい水が飛び散って、あじさいの花を揺らした。
【2】
山中珈琲の店内には、外からは想像もつかないような高級な雰囲気が漂っている。
クリーム色の壁に品の良い絵が飾ってあって、ところどころに置かれた小物はどれもセンスの良いものばかり。
落ち着いた色のテーブルは手触りが良く、一見シンプルに見える椅子はとても座り心地がいい。
私たちは指定席である店の一番奥の席についた。
店から少し離れたところには線路が通っていて、
店内のBGMが静かなもののときに時折電車の音が聞こえる。
その音が心地良いからと言って、線路に近い側の席に座りたがったのはあ~ちゃんだった。
そのあ~ちゃんが、今日はいない…。
「用事ってなんだと思う?」
ゆかちゃんが珈琲に角砂糖を落としながら聞く。
「さぁねぇ、行事のある時期じゃないし、テストはまだ先だし…」
私は角砂糖2つにミルクを入れる。
そういえば、普段は口数の少ないマスターに話しかけられたことがあった。
「ブラックで飲めるようになるまで、通ってくださいね」
そうにっこり笑って手渡してくれたのは手作りのくまのキーホルダー。
手芸に凝っているというマスターの奥さんが、私たち三人のために作ってくれたらしい。
お揃いって恥ずかしいね、と言いながら私たちはそのキーホルダーを鞄につけた。
大事な大事な宝物のひとつ。
あれからしばらく経ったというのに、私はまだ角砂糖の数もミルクの量も減せていない。
いつの間に角砂糖の数減したんだろう、ゆかちゃん。
珈琲を一口飲んで、ゆかちゃんがこちらを見た。
「最近あ~ちゃんの様子、変だと思わない?」
「え…」
そういえば確かに、ここのところあ~ちゃんは何か理由をつけては一人になろうとしていた。
あまり意識はしていなかったが、その不自然な行動は心のどこかで引っかかっていた。
「恋人が、できたんじゃないかな」
そんな重大なことを、ゆかちゃんはさらりと言ってのける。
いつだってこんな調子。何が起こっても動じない。怖いくらいに落ち着いている。
あ~ちゃんに恋人…。
いたとしても不思議ではない。私たちは、もうそういう年頃になっていた。
友達が幸せになったのだから祝福すべきところなのだろうが、なぜかそんな気になれなかった。
「どう思う?もしそうだとしたら…」
反応を楽しんでいるかのような表情を浮かべて、ゆかちゃんが私に問いかける。
「別に…、いいんじゃない、いても」
動揺を悟られないよう低い声で言いながら、ケーキを口に運ぶ。
いつもと同じ味。けど何か足りない気がした。
「何となく…寂しいけどさ」
ポロリと本音が出る。
ゆかちゃんが遠い目をして小さく溜め息をついた。
「下手な小説に、よく見かける」
「…へ?」
「なんとなく寂しい、とか、わけもなく悲しいって表現」
「……」
私はゆかちゃんの瞳に吸い込まれそうになる。
「大抵そういう小説って、わけわかんないまま終わっちゃうの」
「ん…」
「けど確実に理由はあるはず、気づけてないだけで」
「……」
「理由があるから、心が動くし、なければ何も感じない。
これって当たり前だと思わない?」
「うん…」
「曖昧なままにしとくの、もうやめなよ」
言い終えるとゆかちゃんは、ケーキを食べ始めた。
私は寂しく感じる理由を考えたが、
片付いていない部屋を見渡すだけでは探し物は見つからないように、とてもすぐには分かりそうになかった。
ドアの開く音がして、お客さんが入ってきた。一瞬、外の風が店内に入ってくる。
雨になりそうな風。
【3】
翌朝、私はすっかり寝不足だった。
一晩中探しても、探し物は結局見つからなかった。
私って頭の中までぐちゃぐちゃなのか…。
教科書を取りだそうと机の中に手を突っ込むと、今日が提出期限のプリントがくしゃくしゃになって出てきた。
はぁ、と溜め息をつくと、後ろからあ~ちゃんの声がした。
「朝から溜め息とは、よろしくないねぇ」
原因は君だよ、と言おうとしたとき、見慣れないキーホルダーがあ~ちゃんの鞄についているのを見つけた。
「あれ、これって…」
「あぁ、山中さんのやつ、ちょっと金具のとこ壊しちゃって…」
「そうなんだ…」
チャイムが鳴る。
「じゃ、またあとで」
「うん」
あのキーホルダーは、確かどこかのゲームセンターで見かけたな…。
あ~ちゃんが一人で行くとは思えないし、ということはやっぱり…。
あぁ、またごちゃごちゃになってきた。
今日は一人で山中さんのとこに行こう。落ち着いて考えごとをするにはうってつけの場所だ。
【4】
「あれ、珍しいですね、お一人で…」
「なんか、来たくなっちゃって…、今日は珈琲だけでいいです」
一番奥の席につく。
少しして、マスターが珈琲とケーキを持ってきた。
「これ新作なんですよ、息子のヤスタカが作ったんですけどね、
是非味見してほしいって」
「え、ありがとうごさいます…私なんかに…」
「悩みがあるときはね、甘いもの食べた方がいいですよ」
マスターはにこりと笑うとカウンターへ戻る。
そんなに分かりやすいのかな、私の顔…。
マスターの優しさが、心にしみた。
あ~ちゃんの近くに私の知らない誰かがいることは確かだった。まだ恋人と決まったわけではないが…。
鞄につけたくまのキーホルダーに目をやる。
こんな頑丈な金具が壊れることはそうそうないはずだ。
あ~ちゃんが自主的にキーホルダーを取り替えたとしか思えない。
そんなに簡単に取り替えられちゃうような関係だったのかな、私たちって…。
─ガタンゴトンガタンゴトン…
遠くで電車の通り過ぎる音が聞こえる。
私の胸にぽっかりと開いた穴をさらに広げるように、その音は私を貫いて、そして消えていった。
どこにも行かないで…。君が求めるものは何だってあげるから。
それとも、私には与えることのできない何かを、君は求めているの?
私の全てを捧げても、君は満足してくれないの?
友達にこんなこと思うなんて、どうしちゃったんだろう。
苦笑いしてケーキを一口食べる。
甘ったるいチョコクリームに、爽やかで甘酸っぱいダークチェリーがよく合って。
そう、それはまるで…。
恋…。
全ての辻褄が合った。
私は落ち着くためにブラックのままの珈琲を飲んだ。
「にが……」
私はまだまだ子どもだ。気持ちを抑える術を知らない。
一度転がり始めた気持ちは、もう止まらないんだ。
店を出るとき、厨房にいたマスターの息子さんに声を掛けられる。
「ケーキ、いかがでした?」
「あ…、とても美味しかったです…」
「ほんと?よかったぁ」
本当に嬉しそうな顔をして、ヤスタカさんは笑った。ものを作るのが大好きなんだろうな。
「恋の味がしました…」
「お、そういう感想って一番嬉しいんだよ」
「え?」
「僕が本当に作りたいのって、お客さんの気持ちなんだ」
「………」
「食べた人の気持ちや周りの空気が、
動き出すようなものを作りたくて…」
ヤスタカさんが照れ笑いをする。
「それじゃ大成功ですよ、このケーキ」
私はニッと笑うと、走って階段を降りた。
やっと探し物が見つかった。
今まで「友情」の下に隠れて、なかなか見つからなかったけど。
雨の中を全速力で駆け抜ける。足を大きく踏み込んで、たまった水を跳ね上げた。
【5】
あ~ちゃんと二人きりになれないまま2日が過ぎた。
私はとうとう金曜の昼休み、あ~ちゃんを屋上に呼び出した。
「なに…急に…」
周りに人がいないのが心細いのか、あ~ちゃんはさっきからずっと下を向いている。
「あ~ちゃん、私に隠してること、ない?」
「……」
唇をギュッと噛みしめるのが見えた。
「あ~ちゃん…言ってほしい、私は何だって構わないから」
しばらくの沈黙。
私は更に言葉を追加する。
「あ~ちゃんのことなら、何だって受け止めてあげられるよ…」
あ~ちゃんが顔を上げた。
やさしさは時に傲慢で、
純粋は時に残酷だ。
「付き合っとる人が、おるんよ…」
分かっていた、無謀であることは。
分かっていた、無防備なまま受ける傷はどこまでも深いこと。
「私じゃ…だめかな…」
「………」
「私はあ~ちゃんの恋人にはなれないのかな…」
「………」
「いつだって想ってるんだよ、あ~ちゃんのこと…」
あ~ちゃんが苦しそうな瞳を伏せた。
「やっと気付けたんだ。私、あ~ちゃんのことが好き」
走り去る君の後ろ姿。
遠い世界の出来事のような気がした。
【6】
ここは錆びれたビルの二階にある喫茶店、山中珈琲の店内。
金曜日の午後2時は、普段は近所の主婦が何組かいるだけで、ひっそりとしている。
しかし今日は店の奥に、二人の女子高生の姿があった。
「気にすることないよ…」
「でも…、あんな表情ののっち、初めて見たけぇ…」
今にも泣き出しそうな表情のあ~ちゃんを、かしゆかが必死になだめる。
「でも隠してたこと言えたんだし…」
「隠すつもりじゃなかった…」
あ~ちゃんは、マスターがサービスしてくれた新作のケーキを口に運ぶ。
荒れた心が少し落ち着いて、素直な気持ちが口をついて出てくる。
「何なんだろう、昔からのっちって苦手なんよ」
「え?」
「嫌いってことじゃなくて、なんかのっちの前だと違う自分を演じてしまう」
「……」
「いつだって真っ直ぐじゃけぇ、あの子。
太陽を直視出来ないのと同じ感じかな」
「ふーん…?」
「それになんかここんとこ、のっちのこと思う時間が増えた気がする。」
「あ~ちゃん、それって……」
かしゆかはやれやれ、と溜め息をついた。
ここにもいたか、曖昧な気持ちを持て余した女の子。
「あ~ちゃん、私はあ~ちゃんのことを本当に大切だと思ってる」
「え?ちょっと、ゆかちゃん、どしたんね急に」
「…だから、言うんだけど、」
「え…」
「焦って、恋に恋しちゃだめだよ」
「……」
「ちゃんとした恋が来るのを待たないと」
「けど…」
「気づかないものなの、中にいるときは。その愛が本物なのか偽物なのか」
「……」
「それどころか信じて疑わないの、この糸は絶対に切れないって」
「ゆかちゃん…」
「見極める方法なんて私も知らないけど、ただこれだけは言えると思う」
「本当に人を愛してるときって、空を見上げても雲は見えない。
明日雨が降るかもって不安はあっても、その瞬間はきっと快晴にしか見えないはず」
「今度その人に会ったとき、空を見上げてみて…」
【7】
少し熱くなり過ぎたと思ったのか、かしゆかは黙って俯いた。
いつもはどんな状況も楽しんでしまうような性格のかしゆかが、
なぜこんなにもあ~ちゃんを説得するのに必死になったのか。
三人お揃いで付けたキーホルダーをいとも簡単に取り外してしまったあ~ちゃんに、
彼女自身も不満を感じていたのかもしれない。
もしくは、実らぬ恋を表したかのような甘く切ない味のケーキが、
彼女の気持ちを揺り動かしたのかもしれない。
どちらにしろ、かしゆかの言葉によってあ~ちゃんの心は大きく変化し、一時の恋に終止符を打ったのだった。
裏でそんなことが起きていたとは知らないのっちは、絶望の淵で打ちひしがれていた。
【8】
月曜日の朝。
私は二日酔いでもしているかのような足取りで、学校に向かっていた。
週末はあ~ちゃんのことを考えないようにするためゲームをしたのだが、
ぶっ通しでやり続けてエンディングにたどり着いたのは昨晩深夜3時だった。
途中セーブし忘れて二度データを失ったのが痛かった。あれがなければもっと早く終わってたはず。
私は寝不足で重たい頭を抱える。
太陽の光が目に入るとキーンと頭が痛むので、なるべく目を開けないようにしている。
太陽というのは誰にでも平等だ。
明けない夜はない、と、人を励ますのによく使う言葉があるが、
昨晩の私はこのまま夜が明けないでほしいと切実に願っていた。
それでも人の気も知らずひょっこり顔を出すのだ、太陽は。
「太陽のバカ…」
と、なぜか太陽に八つ当たりしてみたり。
しかし、これからのことを思うと苦しい反面、気持ちを伝えられて清々しくもあった。
一点の曇りもなく純粋に透き通った好きだという気持ち。
あのまま想いを守り続けたところで、自分は子どものまま前進出来そうにもなかった。
「たくましくなろう、のっち」
そう小声で呟いたときだった。
校門の前にひまわりを見つけた、と思ってしっかり目を開けると、そこにはあ~ちゃんがいた。
「おはよー!」
一体どういうつもりなのか。
また友達としてやっていけるほど精神力は回復していない。
「今日は山中さんとこ一緒に行けるけぇ」
「………」
「のっち?」
「……」
「嬉しくないん?」
いい加減にしろ、と、言いかけたときだった。
あ~ちゃんの鞄に元通り、くまのキーホルダーが付いているのを見つけた。
私の目線に気が付いて、あ~ちゃんは慌てて口を開く。
「あ…、金具直ったんよ」
「え、だってこの前のやつは…」
「……もうない」
「へっ…?」
あまりに突然のことで、思考が追いつかない。
それってつまり…
「……別れたけぇ」
「なんで…」
「もう、迷わん…」
涙を隠すため、人目もはばからず抱きついてくるあ~ちゃん。
私の胸の中で、小さく、くぐもった声が聞こえる。
「傷付けてごめんなさい…」
ようやく事態を把握する。
私はゆっくりと、あ~ちゃんの耳元で囁いた。
「もう絶対、離さない…」
胸が一杯になり、あ~ちゃんをぎゅっと抱き締め空を見上げる。
気づかなかった。今日は雲一つない青空が広がっていたんだ。
「この青空ごと、あ~ちゃんにあげる。
私の全てを、あ~ちゃんにあげる」
「………のっちぃ…」
さっきよりも涙声が聞こえた。
全部全部、君のもの。
だからずっとそばにいて…。
「…お二人さん、もう予鈴が鳴ってるんですけど」
ゆかちゃんの声で現実に引き戻された。
「しかも一時間目、体育」
「うわぁやばっ、走ろう!」
走ろう、この恋をかかえて。
悲しかったことも、未来への不安も忘れて。
【9】
月曜日の午後3時。山中珈琲の店内。
いつになくマスターはそわそわしていた。
今日あの子たちは一体何人で、どんな表情でやって来るのか。ひょっとしたら誰も来ないかもしれない。
しきりに時計に目をやっては拭いたばかりのケーキ皿をもう一度拭くの繰り返し。
うしろの厨房ではヤスタカが鼻歌を歌いながらケーキを用意している。
「こんにちはー」
笑顔の三人がやって来た。
「おぉ、いらっしゃい!お待ちしてましたよ」
「マスター、今日はねぇ」
「チョコレートケーキと新作ケーキ2つ、特別価格でどうです?」
ヤスタカが笑顔で厨房から出て来る。
「あっヤスタカさん」
「そういえばまだそっちの二人にケーキの感想聞いてなかったね」
「はい!」
あ~ちゃんが満面の笑みを浮かべて身振り手振りを交えてしゃべり始めた。
「えっとですね、いかにもって感じの、
フルフルでキュワっとした味わいの中にもですね…」
「だめですよ、あ~ちゃんに聞いちゃ!長くなるから」
「あっ、えっ、んじゃ、君は」
かしゆかがふふっと笑って前髪をさわる。
「私ですかー?そうですね、『若きウェルテルの悩み』の読後感に似てると思いました」
「……」
「えっ、ご存知ないですか?ゲーテの有名な作品」
「えーっと……」
「それじゃお話します!主人公はウェルテルという……」
「要するに恋の味なんです!」
「フルキュワ!!!」
「あれ、あ~ちゃん感想一言にまとめられてる!すごーい」
「えへへ、まぁこれくらいちょちょいのちょいよー」
「すごーいすごーい!」
「…そして、そこである女性に出会うんです。その女性の名は…」
三人に圧倒されて目を白黒させるヤスタカの隣で、マスターが珈琲を淹れ始める。
常連客には絶品と評されるマスターの珈琲。芳しい香りが店を一杯にする。
マスターは薄く生やした顎髭をさわりながら目を瞑り、物思いに耽る。
早く大人になろうと焦る必要はない。
若いときにしか味わえない疾走感というものもあるのだ。
大人になると立ち止まって、後ろを振り向くばかり。
だから、それまでは全力で走ればいい。
珈琲の味は、大人になってから分かってくれたらいい。
マスターはふと昔を思い出した。
そういえばあの日もこんな天気だった。
梅雨の季節の、束の間の青空。
天を指差して、愛する人に永遠を誓った。
──この青空は、君のもの
≪END≫
最終更新:2008年10月10日 23:57