レッスン室からピアノの音と歌声が聴こえた。
正確なピッチと、よく伸びる声。高音部の安定感が心地よい。時々独特の甘さがまろやかに加わる。
…今日も熱が入ってるなあ。
あたしはクスッと笑って、レッスン室のドアを開けた。
「あ、ゆかちゃん!」
「あ~ちゃん、うちがピアノ弾こっか?」
「うんうん、お願い」
あ~ちゃんはいそいそとあたしに席を譲り、ピアノの横にちょこんと立った。
あたしとあ~ちゃんは目を合わせる。
その瞬間、何かがぴたりと重なり合う。
あたしのピアノにあ~ちゃんはぴたりとついて来る。あたしはあ~ちゃんの呼吸のタイミングが分かる。あ~ちゃんの感情の高まりが、あたしと同調する。
ここはゆっくり。ここはピッチを上げて。あ~ちゃんを心地よい波にのせるように。
あたしはピアノを弾いてるのか、あ~ちゃんを奏でてるのか分からなくなる。
あたし達は共鳴する。こわいくらいの一体感。完全で、完璧な。
一曲歌い終わると、あ~ちゃんは息が上がって、ほんのりと赤らんだ顔で、
「…ふわあ、気持ち良かったあ…」
と、無邪気にふにゃあと笑った。
「…なんかそれってエロいよ、あ~ちゃん」
ってあたしがからかうと、
「もー、何言っとんよゆかちゃん」
あ~ちゃんはぱあっと頬を染めて、ぷんすか怒りながら、にひゃっと照れ隠しに笑った。
…のっちが見たら、何するか分からん笑顔。
「ずいぶん熱が入っとったね」
「まあ、うちは歌うだけじゃけえ。ゆかちゃんやのっちが曲作ってくれる分、がんばらんと」
あ~ちゃんは少し首を傾げて、かすかに微笑みながら、
「…のっち、まだあがいとるん…?」
あ~ちゃんがのっちを気遣う時、本当に柔らかい表情を見せる。とろけそうに優しい、何かを慈しむような顔。
のっちの前ではあまり見せないけど。だから、あたしの役得かもしれない。
「ちょっと、スランプかね…?考え過ぎとんよ」
「ふうん…」
あ~ちゃんはうつむいて片手で鍵盤をいじる。
ぽーん、ぽーんと頼りない音が響く。
「…のっちはうちには全然言わんのんよね…」
ぽんぽんぽんと人差し指で乱暴に鍵盤を叩きながら、
「のっちって男の子みたいなとこあるよね」
「…男の子ねえ」
「男の子って女の子を守りたがるじゃろ?自分より弱いものみたく、守ろうとするんよ。のっちもそういうとこあるけど、うちは…」
あ~ちゃんは真っ直ぐに前を見た。
「…うちは、戦える」
前を向くあ~ちゃんの横顔。戦う意志に満ちた、真っ直ぐに進む表情。
それは、ステージ上で見せる表情。あたしはいつもななめ後ろから、そんなあ~ちゃんを見てる。
あたし達の姫は、最前線で戦う姫だ。
あたし達がまだ人気も知名度も無くて、全くのアウェイな戦場に放り出された時。
観客の冷たい無関心も、容赦ない罵声も無遠慮な視線も、全てがフロントに立つあ~ちゃんに向けられた。あ~ちゃんが矢面に立った。
あ~ちゃんは、受けて立った。
その瞳その背中その声に。あたし達は守られて。
…でもだからこそ。あたしには、あ~ちゃんが限りなく弱く、守るべき存在に思える。
それはきっとのっちも同じだろう。
あ~ちゃんが最前線に立つならば。その手に最強の剣を、最高の盾を。
どんな観客も一発で黙らせ、酔わせ、熱狂させるような最高の音楽。それが、あたし達の最強の武器だ。
「あ~ちゃん、もう少し待っといて。あたしとのっちで、最高の歌を作るけえ」
あたしは腕を伸ばして、あ~ちゃんの頬に触れる。
「…そしたら、あ~ちゃんを思う存分戦わせてあげる」
あたしがそう言うと、あ~ちゃんは小さく笑う。
「ゆかちゃんも大変じゃね。のっちの相談役と、うちのお守りで」
あ~ちゃんの手が、頬に伸ばしたあたしの手を包む。
あ~ちゃんの体温が伝わると。とても安らかで愛おしい気持ちが、こみ上げてくる。
「大変じゃなくて、役得なんよ」
「へ?何それ?」
あたしは笑う。
あたし達3人はピアノ教室で出会った。親に言われて教室に通い始めたあたしは、何となく音楽をしてる、空っぽな存在だった。
そのうちあ~ちゃんはよりストレートな感情を込められる歌に、のっちはエッジの効いたエモーショナルな表現の出来るギターや作曲にハマり出して。
あたしは二人に必要とされるままに、作詞を担当したり、アレンジに加わったり、曲によってベースをやったりピアノをやったり。
あたしがハマったのは、二人の情熱だ。3人で作る音楽だ。
のっちの才能があたしに翼を与え、あ~ちゃんの感情があたしを潤す。
空っぽなあたしが、満たされる。
自分でもおかしいくらい。あたしはこの3人でいることが大好きで。
あ~ちゃんとのっちといる自分が、好きなんだ。
だから本当は、あたしが一番自分大好きで、わがままな存在なのかもしれない。
あたしがクスクス笑ってると、あ~ちゃんはきょとんとした顔をしたけど、あたしが楽しそうだからいいや、って感じでふわっと笑った。
「ねね、ゆかちゃん」
あ~ちゃんは笑いを含んだ上目遣いであたしを見つめる。
「ドの音のイメージのキスって、どんなん?」
「何ねそれ?」
「うちは…ドはおでこのキス」
あ~ちゃんはちょっと背伸びしてあたしの額に軽いキスをした。
ふわりと髪が頬に触れた。甘い香りが鼻をくすぐった。
「じゃあ、レは…まぶたにキスかな?」
素早くあ~ちゃんのまぶたに口付ける。
「ミは耳じゃろ」
「えー、あ~ちゃんそれ単純じゃ」
「ファは、ふぁな、鼻で」
そんな戯れ言でふざけ合う。笑いながら、あ~ちゃんとあたしの距離が縮まる。じらすように、誘うように。
「ソは大人っぽく、首筋にキス」
「ひゃ、ゆかちゃん、くすぐったい」
あ~ちゃんの首筋に軽くキスをすると。加速度をつけてあたし達の体温が上がる。
「ラは、ほっぺのキス」
ささやきながら、頬を寄せる。
「シは…」
「…しあわせ、でしょ?」
あ~ちゃんの頬を包み込むようにして、あたしは唇を重ねた。
あ~ちゃんが鍵盤の上に後ろ手をついて、ぽろんと不協和音が響いた。レッスン室の空気が震えた。
やがてその残響も消えて、静寂の中。
あ~ちゃんを腕に抱いて、髪を撫でながら。あたしは、音楽に満たされていた。
途切れることのない音楽。あたし達を駆り立て、つなぎ止める、唯一無二なもの。
あたし達の、永遠。
中編終わり
最終更新:2008年10月11日 01:20