side.K
暫くの沈黙。
右肩と左手首に触れるあたたかい彼女の手は、動かない。
それでも、あたしは瞳を閉じ待つ。どれだけ時間が過ぎたのか分からなくなった頃、あたしの頬になにかが弾けた。それはその後何度か続き、あたしの頬を伝っていく。
あたしはゆっくり瞳を開く。あたしを見下ろしている彼女が、泣いていた。
呼吸を乱さず声も漏らさず、静かに涙を流している。
「ねぇのっち」
反応のない彼女に続ける。
「どうしてあ〜ちゃんはのっちのとこに来たんかな?」
これは少し期待したけど、やっぱり反応はなかった。
また暫くつまらない時間が続く。
「ねぇ……なんであたしと別れようと思ったの?」
「……わかんない」
今日一番のはずだった会話が、あっという間に終わった。
押しても動かない。叩いても響かない。もういいや、めんどくさい。
「ね、早く。あたしのことめちゃくちゃにして」
「……わかった」
今度は、ちゃんと反応があった。
side.A
忘れてしまっていた事をふと思い出す時には、言葉にしにくい小さな快感を覚える。
日常的風景。スタジオの中。誰かを想い歌うのは、気分が良い。空っぽで歌う味気ないそれとは全く違う、体の芯に感じる心地好い熱。
常識的見解なんて下らないものに縛られる必要なんてない事を、再認識。
何度目かわからないけど、改めて。
のっちはさ、口には出さないけど、いつも大切な事を教えてくれる。
それはきっと、彼女にとっては無意識なんだろう。
意識してるのは、彼女ではなくあたしの方。
あたしが彼女を意識してるから、その彼女の行動やら言動やらから、意味を汲み取っているだけに過ぎない。自分が歳をとった分だけ、人同士の関わりなんてそういうものなんだと知った。
それでも良いよ。彼女から意味を見出す自分は嫌いじゃない。
だからあたしは彼女を想って歌おう。
途端に、音の世界が色を変える。
曲を受け取り、選択の余地もなく与えられたものを求められるままに歌っていた昔は知らなかったけど、どうやら普通、アーティストなら数え切れない量の楽曲を持っているらしい。
あたしも今では、世に出ない楽曲の方が多くなったくらいだ。そのどれもを、沢山の人に聴かせたくなった。今日のあたしは、そう思った。
今日は凄く良かったね。
口々にそう言われる。
そうですか? 素直に受け取らないあたし。
何かあったの? 特になにも。苦笑いする相手。少し自分にうんざりするあたし。
それって表現者としてどうなのよ。自問自答。知ったこっちゃない。自分の性格なんて、そう簡単には変わらない。変わらないんだよ。あたしはあの頃から変わってない。自分でだって分かってる。変わってたまるか。
まだ少し明るい時間。
今日はここまで。歌う事が仕事だなんて、本当に幸せなことだと思う。
長年想った人にも抱かれ、状況はどうあれ、足取りは弾む。
自然に口遊むのは、勿論大好きなあの人のもの。
悩んでばっかじゃしょうがない。今ならなんだって上手くいきそうな気がした。
今日はゆかちゃんに会いに行こう。
あたしに必要なのは、あの空間だ。今も昔も変わらない。
暗い夜に気配を気にして過ごすより、明るい太陽の下誰かと笑ってる方がよっぽど良いよ。
鞄から携帯を取り出し、迷わずゆかちゃんのもとへ。
三回コールした後、それは繋がった。
side.N
彼女の頬を伝う、自分の溢した涙を親指で拭った。
ピクリと反応して瞳を閉じる彼女。同時に、空いた左手があたしの背中に回った。
『きっとのっちと一緒だよ』
この子はなにを思ってるんだろう。なんであたしのとこに来たんだろう。
そういや、あの子はなんであたしのとこに来たのかな。
『一人に……なりたくない』
確かにそう言った。
確かにそう思った。
そっと口づけて、彼女の肌に手を滑らせる。
あの頃の、弾ける様な瑞々しい肢体ではなく、しっとりと手と溶け合う様な、絡み付く様な肌。
首筋を、肩を、腕を、胸を。触れる度に、彼女の体が小さく跳ねる。熱っぽい声を漏らす。
一人になりたくない。
あなたは、ずっと傍にいてくれるの?
みんな……みんないなくなっちゃったのに。
変わらず傍にいれれば良いの?
どうやったら、あの頃みたいに輝けるの?
……あの子みたいに。
拭い切れない矛盾。
変わりたくない。変わって欲しくない。
変わりたい。変わって欲しい。
子供みたいだね。
なりたい様になりたい。
したい様にしたい。
でも、リスクを伴うことはしたくない。
絶対安全な、それでも必ず成功できる道。
そんなのないのにね。
そんなの、良く分かってるはずなのに。
それでも今となっては、あの子の用意してくれた道は、そうだったんじゃないかなと思う。卑屈。
ゆっくりシャツを脱がし、背中に手を回す。
ぴったり体を重ねると、押し出されるみたいに、またゆかちゃんが鳴く。
こんなに熱を持たずに誰かを抱くのは、初めて。
「……気持ちいい?」
「うん」
冷静に考えると、凄いことなんだよな。
親にだって見せない姿、聞かせない声。
でもきっと、たいして良くないだろうな。
手を伸ばし触れてみれば、それは勿論濡れてるけど。
こんな状況事前じゃ、余計なことばかり考える。
一応の格好を彼女がつけてくれたので、行為を終える。
シャワー浴びてくるね。それだけ言い、小さく頷いた彼女を残し、今日何度目かのシャワーを浴びる。
水の弾ける音が不快だった。
さっきと同じ光景がフラッシュバックする。
ゆっくりと部屋に戻る。
さっきと違ったのは、相手の姿。
ふわふわパーマのあの子は、確か窓の外眺めてた。
今見える小さな後ろ姿は、ベッドに沈んで更に小さく見えた。
そっと覗くと、静かに寝息をたてている。
……涙を流しながら。
今何時頃かな?
部屋を見渡す。さっきとはまた違った異常事態。
それでも、大して動揺はなかった。
時間を気にするのは、いつ振りだったかな?
〜続く〜
最終更新:2009年08月22日 22:31