side.N
知らない間に頭の中に存在しているイメージでモノを言って良いのなら、多分この感覚を味わうのは、圧倒的に男性の方が多いはずだ。
俎を叩く心地好いリズムと鼻をつく良い匂いで目を覚ます。
誰もが容易に描きあげる夫婦像。常識って、こういうことかも。習わなくたっていつの間にか知ってる。
それは、あたし達みたいな関係が異質である事も同時に突き付ける。
目を覚ましたあたしの視界には、いつもと違う天井。
枕代わりに頭の下に置いていた右手が、鈍く痺れ重い。
少しずつ働き始めた思考。
そうだ。なんとなく同じベッドに入るのは違う気がして、昨日の夜はソファに寝たんだ。
と言うことは、今部屋にはゆかちゃんがいるのか。
んでもって、ゆかちゃんはご飯でも作ってるのか。
冷蔵庫の中なんかあったっけか……
缶ビールが入ってたくらいしか、記憶がない。
ひとつ溜め息を吐いて体を起こす。暑いと思ったら、あたしの体はいつの間にか毛布一枚に覆われている。
キッチンカウンターの向こうで、小さな背中が小刻みに動いているのが見えた。
トントントン。楽しそうな音。単純な音は、どんな気持ちの時だって、同じ音に聴こえる。
歌を歌うなら、同じ曲でも歌い手の気持ち次第で全く違うものになるのに。
「……ゆかちゃん?」
「あ、起きた? おはよ」
「……おはよう」
一度こちらに視線を寄越した彼女は、目が合うと慌てて逸らした。
あたしはあの反応を知ってる。
少しの緊張と不安。あたしに拒絶されないか恐れを抱いている。
なにやってるの? ご飯なんて要らない。どういう神経してんの? 帰れ。
そんな類のこと言われたら、どうしよう。
きっとそんな事を考えてる。
言わないよ。そんな酷いこと。他の誰でもないゆかちゃんに。
言えないよ。知ってるでしょ、あたしの性格。
「なに作ってくれてんの」
聞いてみる。一応笑顔を作って。
起き抜けの、低い声。
作ったつもりだけど、どんな顔してるかはあたしも見当つかない。
それでも振り返ったゆかちゃんは、心底安心した様な顔で、弱々しく笑った。
“良かった”って、口に出さなくても、顔に書いてある。
side.K
昼下がりの情報番組。のっちのお気に入りの芸人さんが出演して少し面白い事を言うと、のっちは笑った。
それだけの事なのに、とんでもない安心感が空から降ってきたみたいだった。ずっと無表情だったから。
同じソファに座っているのに、絶対に縮められない微妙な距離。
それでも、あたしの作った料理を残さず食べてくれたのっちは、帰れとは言わない。
どうしたら良いのか分からないけど、隣に座ってても良いみたい。
なんだかふわふわしてて、落ち着かない定まらない。
首輪がとれてしまって、飼い主とはぐれてしまった仔犬みたいに。
自分はどこにいて、なにをすれば良いの?
もう大人になったのに、なんだかずっと小さな子供になったみたい。
恋すると、そうなんだ。なにも分からなくなるし、子供の様にも大人の様にもなる。
それでも、通じ合う悦びを知ってしまったあたしは、もう片想いが一番幸せだなんて思えない。
じゃあ、その分だけ少しは大人?
あなたの全てが欲しくなる。
そして、あたしの全てを捧げたい。
「良く寝たね?」
携帯を開くと、時刻は三時過ぎ。起きたのは、一時間前くらいだろうか。のっちが毎日どんな生活を送っているのか、なんとなく想像がついた。
「いつもこんなに寝るの?」
「ん〜、まちまちだよ」
試しに話し掛けてみると、思った通り当たり障りのない返事が返ってきた。
「……そっか」
窓の外は晴れ。
はっきりしないあたしの気持ちを馬鹿にしてるのか、ってくらいすっきりした空。
じゃあ、あのふわふわ漂う真っ白い雲は、あたしってことにしよう。
例えるものを変えれば良い。雲なんてさ、ふわふわしてるのがダメな訳じゃなくて、ふわふわしてるのが仕事だもん。しててこそだもん。綿菓子でもいいや。
「帰るね」
のっちの顔を良く見て、そう告げる。
「うん。気をつけて」
視線はテレビに向けたまま、落ち着いた声でのっちは言った。あたしは笑った。
気付いたよ。
今の一瞬、無表情を作ったこと。
落ち着いた声を作ったこと。
そうしなきゃいけないみたいに。
でも分かる。
一度決めた気持ちを、頑なに貫いた想いを、変化させるタイミングは難しい。
迷ってるなら、前進だ。
今はきっと、君との距離は縮まらないし、開かない。
「またくるね?」
返事のない背中を少しみつめて、あたしはのっちの部屋を後にした。
マンションを出ると、太陽が眩しい。
日焼け止め忘れちゃったな。鞄を探っていると、携帯が鳴った。
相手の名前を見て数秒。あたしは電話に出た。
side.N
冷蔵庫を開ける。
日がここまでは射し込まないから、真っ昼間から暗くはないけど薄暗い。
オレンジ色に灯る冷蔵庫の中にある、缶ビールに手を伸ばしかけて、止めた。
なんだか長かったな。
時間にしたら大したことないはずなのに、とんでもない疲労感に襲われた。
なんでだよ。二人に会うだけのことでなんでこんなに疲れなきゃいけないんだよ。
むしろ、癒されて然りのハズじゃない。もっと楽しくて幸せな出来事のハズじゃない。
開きっぱなしにしている冷蔵庫が、気怠く身震いして、低い音で唸り始めた。
分かってるよ。自分のせいだって。あたしが勝手に余計な事考えて、勝手に気を使って、勝手に疲れてるだけだ。
冷蔵庫を閉めて、またベッドに体を投げ出す。
あとちょっとだったのに。
あともうちょっとで、あたしが望んだ通りになりそうだったのに。
最後の最後にあたしの脳裏に浮かんだのは、恐怖。
どうしたい。どうなりたい。なにがしたい。
それすらもうはっきりしない。
今となってはさ、あの頃のままの関係の三人でいられれば、こんな風にならなかったのかもね。
あのままで良かった。
あのままが良かった。
でも現状こんな事態だし。
どうにかしなきゃいけないのは分かってるし、あ〜ちゃんもゆかちゃんもどうにかしようとしてくれてるのも分かってる。
あたしだって、そうしたいって、思ってるよ。
こんなさ。二人に気を使わせて。酷いこと言って酷いことして。
昔みたいに三人笑い合うことなんてできるのかな?
そんなん、許されるのかな?
あの二人なら、気にしてないよって、言ってくれるのかな?
それとも、そんなの甘過ぎる?
枕元の携帯を手に取る。
少し横を向いた時に、自分が涙を流している事に気付いた。
もう、分かんないよ。
また二人と一緒に、笑いあいたいなぁ……
そうなれたら良いのにな。それだけで、夢みたいなのになぁ……
一人で部屋にいるのに、馬鹿みたいに涙が流れて、堪えきれない声が漏れた。
なんでこんな泣いてんだ自分。全部、自業自得でしょ。なんだかとっても惨めだよ。
滲んだ視界でメールを打つ。宛先は、二件。
一言だけのメールを送り、そのまますぐに電源を切った。
〜続く〜
最終更新:2009年08月22日 23:10